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晨朝

 出汁をとった鍋に豆腐を滑り込ませ、しばらくしてニラを入れた。静かな泡が汁の表面にブツブツと発現するのを確認し、味噌をたてた。

 卵焼きは少し前に出来ていた。湯がいたほうれん草にかけるゴマと、納豆のパックを用意して、少し迷う。もう少し、肉っぽい一品があった方がよいのだろうか?

 ししゃもと鮭の切り身があったが、彼がそれを好むかどうか分からない。昨夜は、来がけの国道沿いにあったコンビニで買い込んだ唐揚げやおにぎり、パック入りの八宝菜やエビチリ、後はスナック菓子でビールとワインをやったので、残った惣菜は冷蔵庫にあったが、それを今日の朝食の食卓に足すのは嫌だった。

 まだ、彼は寝室として使った部屋から出てきていなかった。洗面所は部屋の外にしかないので眠っているのだろう。キッチンからダイニングに移動すると、6人掛けのテーブルの上に、2人分の箸と箸置きを向かい合わせの位置に置いた。

 彼が現れたらすぐに食事を用意できるようにして、私はいったんカウンターキッチンに備え付けた椅子に腰掛けた。時計を見ると午前7時過ぎだ。昨夜、ここで二人差し飲みしながら授業の話をし、そのうち野生薬草の話になり、ぽつりぽつりとお互いの身の上の話をした後、もうそろそろ眠ろうと言ったのは夜中2時近い頃だったか。

 私は、昨夜の出来事の記憶の中を漂った。


 来客の際には来訪者を泊めることが出来るようソファベッドを置いている部屋に彼を案内し、『ここは山だから、夜は思うよりずっと寒い』と伝えながら予備の軽い掛け布団をクロゼットから取り出している際に、背中にそっと押しつけられた彼の頭の重さと暖かさを感じたとき、彼に知られたのではないかと思うほど心臓の跳ねる音が轟いた。この緊張を彼に知られることを私は恐れた。それが不意の出来事への動揺というよりも、淡く期待していたことが実現したことへの歓喜であったのを自覚していたからだ。そしてその歓喜が単なる独り合点であった時の自身の絶望を、絶対に彼に知られたくなかったからだ。

 私は振り向くことも出来ず、声も出せず、そのまますべての動作を止めた。

「……先生は、どうして俺をここに連れてきてくれたんですか?」

 背中から彼のぐぐもった声が伝わった。独り言のように小さな声だったが、私には明瞭に聞こえた。私は、背中から広がる彼の温かみを愛おしみながら、うなだれた。

 胸の奥にある言葉を外に出そうとして、それが喉に絡みついて詰まった。心臓の周りに悲しみのような感情が広がる。彼にそれを知られた途端、この甘美な夢がすべて消え去る恐れにおののき、私はどんな反応も出来ずその場に棒立ちになっていた。

 そんな私に業を煮やしたのか、彼はやや乱暴に私の腕をとり彼の方に振り向かせた。彼の方が10㎝ほど背が高いので、覆い被さってくるような印象であった。私は正面にいる彼をまともに見ることが出来なかった。

「今から変な話をします。おそらく普通に考えたら男の俺が同性の先生にこんなことを言うのは、先生の気を悪くさせてしまうと思う。ただ…、どうしても伝えておきたいんです。俺は、先生のことを…どうも、先生という立ち位置以上の感情で捉えてしまっている気がする…。この気持ちは錯覚かもしれない。この今の、雰囲気に呑まれただけの妄想かもしれない。よくよく考えたら、損得を無意識に勘定してあなたに魅惑を感じているだけかもしれない。ただ、今、あなたにひどく惹かれているのは確かです。」

 私は右腕をつかむ彼の手と手首を見つめていた。大きい手だった。爪は気温のせいかやや白く指はすんなりと長い。手に比べて華奢な手首が美しいとぼんやりと思っていた。

 その一方で、どう答えていいのか、どういう答えが正解なのか、グルグルと考え続けている自分も感じていた。『正解』を探しているということは、自分の思いは間違いなのだという思いも混じりながら、考えはまとまらない。

 私の返事を待つことなく、彼は、私の両腕をつかんでいた手を私の背中に滑らせて、私をそっと抱きしめた。

 私は、反射的に彼を強く抱擁した。


 ───年甲斐もなく、甘い記憶を噛みしめていることに気恥ずかしくなっていると、彼が静かにダイニングに入ってきた。深い青のサマーセーターとグレーのコットンパンツを履いている。外がそろそろと明るくなってきていた。まだ起き抜けのまま整えられていない緩やかにウェーブした髪は、カーテンを引いていない窓から線状に指す光陽に当たると明るい茶色に輝いた。

「……おはようございます…。」

 私を認めると、ちょっと会釈をする仕草をして、ぶっきらぼうに挨拶をしてきた。

 不機嫌というより、どう接していいか戸惑っているような雰囲気だった。

 私も、ぎこちなく『おはよう』と返し、用意した朝食の品を彼と自分が座る席に並べた。

 彼は黙って椅子に座り、私が緑茶を彼の方に置いた後、自分の席に着いていただきますと手を合わせると、同じく手を合わせ味噌汁を啜った。

「美味しい…。」

 ぽそりとつぶやき、そのまま次々と卵焼き、ご飯、ほうれん草のおひたし、納豆を平らげていった。

「ご飯、もう一膳頂いてもいいですか?」

 照れくさそうな笑顔で彼が聞いたとき、私もホッとして「もちろん」と答え、自分でよそうために席を立とうとする彼を軽く制止して、茶碗を預かった。

「よかったら、味噌汁もお替わりどう?」

 カラになった碗を見ながら尋ねる。

「お願いします。」

 こくりと頭を下げてそう言い、普段見知った朗らかな顔を私に向けてくれている彼を見て、自分の中に充足感が広がった。

「もっと、魚とか肉とかあった方がいいかなと思ったんだけど…。それとも、トーストとか目玉焼きとかソーセージとか…。」

 朝の逡巡を思わず口にしていた。そんな私の言葉を遮るように、彼は、軽く頭を横に振った。

「すごく美味しいです。こんなちゃんとした朝ご飯を食べたの本当に久しぶりです。」

 そう言って彼は目を細めた。

「先生、料理お上手なんですね。いつも作られているんですか?」

 瞬く間にすべての皿を空にして、お茶を啜りながら彼が私に聞いた。

「上手ってほどではないと思うけれど。ずっと一人暮らしだからさすがにね。」

 内心はにかみながら、なるべく平静を装って私は答えた。

「俺も大学に入って3年一人暮らしですけど、ほとんど自炊なんてしてないですよ。」

 それきり、私が彼に遅れて食事を終えるまで、彼は黙って窓の外を眺めていた。今では、外にはキラキラと目映い朝の光が満ちていた。私も無理に話しかけようとせず、静かに食事を取った。ダイニングにはテレビやオーディオ機器の類いはなく、自然の起こす雑音以外何も聞こえなかったが、心地よい沈黙だった。

 私が食べ終えた後一息つくのを見計らい、彼は2人の食べ終わった食器をシンクに運び洗い始めた。私も隣に並び、ゆすぎ終わった皿を受け取って拭き上げていく。まるでいつもこんな日常を送っているように、自然で平穏な空気だった。

「ここは別荘?なんですか?」

 テーブルの上が片付き、もう一度私が淹れたお茶を飲みながら彼は私に質問した。

「別荘、といえばそうかも。実は、ここは亡くなった叔父から受け継いだものなんだ。私も人のことは言えないけれど叔父は変わり者で、ここは『有事の際のシェルター』も兼ねているんだよ。」

「有事の際のシェルター?」

 彼は首を傾げながら聞き返した。

「例えば、万が一北朝鮮の日本侵攻があった時のためのね。ここの地下には一度籠もれば内側からしかドアが開けられない仕組みの15畳ほどの独立した部屋が2つとキッチンと風呂場があって、食料や日用必需品は2年分が貯蔵されているし、自家発電機もある。地下室に井戸水をくみ上げる装置も浄水器もある。下水に関する設備も通常のインフラに頼らずに完結できるようになっている。」

 私は初めてこの家屋の秘密を他人に打ち明けていた。

「本格的ですね。先生の叔父さんは何故またそんなことを?」

 彼は半信半疑な様子で尋ねた。

「叔父はとても裕福だったけれど、生涯独身のままで、特に晩年は極度の不安症に悩まされていたようなんだ。私が成人してからは結局、数年に一度ほどしか会わないままだった。あまり親しいと感じたことはなかったけれど、私が彼と同じ大学に入学した時に喜んだそうでね。それでなのか分からないけれど、『この建物は甥に』と遺言にあったそうで。名義なんかはまだ変えていないから、正式にはまだ死んだ叔父のものなのかな?」

「シェルターか…。子供の頃、憧れませんでしたか?秘密基地みたいな、こんな場所。」

「秘密基地…。確かにね。大人に見つからずに、仲のいい友達だけで過ごせる場所を子供の頃は憧れるね。まあ、私は子供の頃からそれほど友達が多い方ではなかったけれどね。

一人で静かに過ごせる場所は昔から欲しかった。

……核戦争や隕石の衝突レベルの天変地異に襲われなければ、ここから少し山に入れば山菜もあるし、私なら、今後外界との接触をまったく断って、自給自足で、一人で一生を暮らせるかもねえ。」

 あまりにもしゃべりすぎている自分を紛らすために、冗談めかして私は付け加えた。

 彼も微笑いながら、私の言葉を受けてくれた。

「ここで世捨て人になるのは無理ですよ、先生。鶏でも飼わないと卵焼き食べられなくなるんですよ?それに、ここで孤立したら、豆腐も納豆も食べられなくなるし。あんなに美味しい先生のご飯が食べられなくなるのは惜しいですよ。それに、下手に野草を食べたら毒に当たりますよ。」

「そんなこともないさ。私の専門は薬になり得る野草の研究だよ?結局、食用の野草だって多少は見分けられるようになったよ。毒草もね。この辺りの野草は面白いものがあるよ。ここに来る時はそういう草花の採取も楽しいからね。」

「そのうち、未発見の成分を持つ野草を発見するかもしれませんね。そうすれば、先生、一躍有名人ですね。」

「いや、研究に関したことを目的にここに来るつもりはないんだ。どちらかというと、仕事とか、研究とか、大学の人付き合いとか、そういう日々の喧噪から逃れるために来るんだ。そういう意味では私にとっては正にシェルターだね、ここは。」

 そう言いながら私は、明日からまた始まる現実を思いだし、一瞬にして憂鬱に飲み込まれた。

 私が教鞭をとる大学の3回生に所属する彼は、何かを察したのか、私の顔を黙って見つめていた。

「俺も…、食用野草の採取なんかの手伝いも兼ねて、またここに来てもいいですか…?」

 しばらく時を置いた後、ややぶっきらぼうにそう言いながら、彼はまた窓の方を向いた。

 その言葉を聞いて、私も彼の後ろの壁に掛けている温度計の辺りに視線を漂わせつつ、かすれる声で応えていた。

「ああ…うん…。君さえよければ。」


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