罠には罠を
堀越正孝がサバイバルゲームのコースを一通り見回って、山小屋へ帰ってきたのはそれから約一時間後の事だ。
世界の危機を憂う割にその足取りは軽く、能天気な口笛を吹きながら、赤い文字に彩られた居間へ飛び込む。
地下室に続く扉の錠前を開けようとし、正孝は一旦立ち止まった。祭壇のある広間に戻り、暖炉の横の火掻き棒を手に取る。
「……どうなったにせよ、用心に越した事は無いからな」
口中で呟き、棒を剣の様に構え直して、今度こそチェーンの真鍮錠を外し、地下室へと降りていく。
「夕実……夕実、僕だ。頼んだ仕事は終わったかい?」
裸電球が消えている。
暗い上に、自分の足元で床が軋む以外、物音は何も聞こえない。
スマホのライトを頼りに階段を降りる。右手で火かき棒を振り上げたまま、手動で電球を点け直し、正孝は怪訝そうに小首を傾げた。
あいつ、何処へ行ったんだ?
根っから怖がりの夕実が、闇の中で身を潜めているとは思えなかった。
それに、そんな真似をする理由が何処にある? 頭を砕こうとして目覚めた典江に襲われたと言うなら話は判るが、争いの痕跡すら無い。
まぁ、夕実が死んだら死んだで、僕の筋書に大きな変更は無いけどさ。
正孝が頬に余裕の笑みを浮かべた時、何処かから耳障りな音がした。
掠れた女の声……
一時間前、閉じ込められた夕実が階段の上で聞いたのと同じ、間断なく反復する狂気の絶叫だ。
流石に驚いて飛び上がり、正孝は叫びの発生源=大きなテーブルの方へ歩み寄る。だがビニールシートにも、包まれた女の体にも、小屋を出る前と比べ、大きな変化は感じられない。
お目覚めかと思えば、とんだ肩透かし……
苦笑を浮かべ、更にテーブルへ近づく。すると、絶え間ない叫びはビニールシートの内側から発しているのが判った。
迷わず、火かき棒を垂直に振り下ろしたのは、正孝の用心深さ、そして冷酷さの現れだろう。
丁度、頭のある辺り、グチャッと潰れる感触があり、それでも妻の身体は動かない。
ハハッ、ホントにくたばりやがったか?
グチャッ……グチャッ……
無造作な殴打のダブルチェック。
取り合えず、急に襲われる心配は無さそうだ。尚も火掻き棒を構えたまま、シートへ片手を突っ込んで音源をまさぐってみる。
すると、何の事は無い。典江の愛用するスマートフォンがシートの内側、ジャケットの胸ポケットで内蔵スピーカーを鳴らし続けていた。
つまり、物騒な絶叫は只の着信音だ。
ホラー映画の名場面からキャプチャした悲鳴の音声データを、典江は着メロに設定していたらしい。
以前は華麗なチューブラベルズの調べだったから、正孝との関係がこじれ、精神に失調を来した後に変更したのかもしれない。
「フン、半端に悪趣味で、ホラーマニアの品性を欠くね」
吐き捨てる様に言い放ち、正孝は典江のスマートフォンを手に取って、着信音を止めようとした。
だが、薄闇で操作した為、押すキーを間違えたのだろうか?
止める所か、内蔵スピーカーのボリュームは一瞬で最大限に増幅され、思わず耳を抑えた瞬間、彼の肩口を激しい衝撃が襲った。
肩甲骨の折れる鈍い音がする。
階段下の狭いスペースで身を屈めていた夕実が、そ~っと忍び寄り、正孝の背後から思いっきり金槌を振ったのだ。
右脚にも一撃を喰らった正孝が火掻き棒を落とし、膝をついて痛みに呻く間、床に落ちた真鍮の鍵へ夕実が飛びついた。
「……夕実、お前、どういうつもりだ!?」
辛うじて顔を上げ、正孝は階段を上がりかけた夕実の背中へ叫ぶ。
「ふふ、驚いた? 暗がりに隠れたまま、あたしから典江さんのスマホへ電話を掛けて、着信音であなたの注意を惹いたの。悪趣味な罠から抜け出す為にね」
見下ろす夕実の瞳には、もう怯えも媚びも無い。
その代わり怒りの炎が燃えている。これまで正孝には決して見せようとしなかった、彼女の鋭い棘がそこにある。
「最近、スマホのアプリで悪戯用の奴が増えてる。典江さんの携帯にもあたしのと同じアプリがインストールされてたから、ちょっと仕掛けさせて貰った」
「……急に着信音がでかくなったのは、それか」
「どう、びっくりしたよねぇ? 正孝さん、罠を仕掛けられる側へ回った気分はどうかしら?」
「お前、何か勘違いしていないか? 今、外じゃ大変な事件が起きているんだぞ。典江の儀式で本当に蘇ったゾンビの為、大勢の人々が次々と犠牲に……」
「ホラーごっこは、もう沢山!」
切々と訴える正孝を、夕実は冷たい視線で遮った。
「あたし、もう少しで典江さんを殺す所だった。でも、キモい叫びが聞こえてね、恐る恐る近づいたら、あの人のスマホの着信音って判ったの」
「電話? 誰から?」
「さぁ? すぐ切れちゃったから相手は知らない。でも、お陰で人殺しをせずに済んで、あたしにとっては天の助けよ」
典江の頭蓋骨の代りに正孝の右肩甲骨を砕いた金槌を、夕実は掌でクルリと回して見せた。
「電話で助けを呼ぶ事も考えたけど、何時、あなたが戻るか判らないしね。代りに、スマホ内のファイルを覗いてみた。そしたら、典江さん、アプリで日記を書いてたわ」
「……読んだのか、それ?」
「最初から最後まで、じっくりと」
「何が書いてあった?」
「例えば、あなたが奥さんへ吹き込んだ嘘について」
痛みの為か、追い詰められた気持ちのせいか、正孝は顔を伏せ、くぐもった呻きを漏らした。
「元々ホラー好きの上、精神的に不安定な所がある典江さんの側で、あなたはわざと浮気を繰返し、挑発的な言葉で揺さぶり続けて狂気の淵へ追い込んだのね。何ンかもう、究極のモラル・ハラスメントって感じ!」
「……つまらない憶測は止せ」
「最初にブードゥーの呪いなんて出鱈目を吹き込んだのはあなた。事前にイベント会場へ潜り込ませて、この山小屋で変な儀式をさせたのも、そう。あたしを悪役に仕立て、彼女が恨む様に仕向けたのよね、違う?」
「……そんな事して、僕に何の得がある?」
「あなたに殺されるかもしれないって、典江さん、日記に書いてた」
「何っ!?」
「全財産をあなたに譲る旨の遺言作成を強制され、高額の生命保険にも加入していたそうね」
「典江が勝手にやった事だ」
「良く言うわ! 初めから金目当てで近づいたんじゃないかと、彼女は疑ってた。それでも、あなたが好きで、好きで、失う事に耐えられず、別れる決心がつかなかったのよ」
夕実はふっと典江が横たわるテーブルの方へ顔を向け、正孝の殴打で不格好にへこんだブルーシートを哀しく見つめた。
その面持ちはすぐ自嘲の笑みへ変わる。
誰かに執着し、依存してしまう悪癖は、今も自分の中に居座ったままだ。
おそらく正孝には妻と愛人が同じタイプに見えていただろう。十分意識した上、そういうタイプを選んだのかもしれない。
いつでも思うままに操り、始末できる都合の良い道具として。
「あたしが嫌いなホラー映画を無理に見せていたのも、きっと同じ発想よね。二人を同時に追い込み、どちらかが暴走する形へ導きたかった。奥さんが死ねば相続でき、あたしの方が殺されたら、奥さんの逮捕後、財産を好きにできるもの」
「……安っぽいサスペンスの見過ぎだよ」
「あなたこそ、三流ホラーの見過ぎ! だから、こんな手間の掛かる大仕掛けな罠を仕組んだ。半分くらい、趣味のノリでね」
開き直ったか、正孝は小さく頷き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ホラーイベントの演出家を気取り、典江さんとあたしの心を弄んだ。一番のサイコは、正孝さん、あなた……いや、お前だ、クソヤロウ!」
言うたった~っ! よし、言うたった。えらいぞ、あたし。
ヤケクソ交じりの高揚感を胸に、夕実は自分を褒めていた。
恋が終わり、曇りの無い眼差しを取り戻す度、何でこんなのに夢中だったんだろう、といつも不思議な気持ちになる。
もう嫌! 今度こそ、まともな恋をしてやる、と心に誓ってみるものの、今はこの場を生き延びる事が先決。
俯き、奥歯を噛み締めていた正孝が、まだ動く左手で床の火かき棒を拾い、強く握り直してこちらを睨んでいる。
「おいおい、ゲームの全否定は勘弁してくれ、夕実。創意工夫を凝らした、そこそこ楽しい演出だったろ?」
人当たりの良い、爽やかな笑顔を正孝は浮かべた。
へぇ、あなたって、人を殺そうとする時と女を口説く時、同じ顔をするのね。
奇妙な納得が夕実の胸をよぎった時、正孝は骨折した人間とは思えない勢いで立ち上がった。
殺意など無縁に見えるその表情のまま、階段の中程に立つ夕実へ向け、火掻き棒を振り上げて、迫る……
後、1エピソードです。
かなり変則的なお話なのですが、楽しめるラストにできるよう、頑張ります。
読んで頂けたら、嬉しいです。