03 死の樹海
「―――ううん……ここは……」
目が覚めたらそこは白一面の空間ではなく、森の中だった。昼間だと思うが、巨大な樹がたくさん生い茂っており辺りは薄暗い。
先ほどまでのアリューシャとの会話は夢などではなく、どうやら本当に異世界に転生してしまったらしい。幸いにも僕の記憶はそのままだし、自分の体にも何も違和感はない。
そして、唇にはまだアリューシャとのキスの感触が残っていた。
「で、どうだった? ファーストキスの感想は?」
「は!?」
突然聞こえてきたアリューシャの声。辺りを見回すが姿は見えない。
「どこにいるの!?」
「ここよ、ここ……」
ちょんちょんと何かが僕の右肩に触れた。そこに目をやると……小さな妖精のような生き物がいた。
「小さい……アリューシャ!?」
「えへへ……ついてきちゃった」
少し恥ずかしそうに笑うアリューシャは、妖精の姿も可憐でとても似合っていた。
「いいの!?」
「だって、あなたこっちの世界のこと何も知らないでしょ」
「そりゃあ助かるけど……“女神は世界への直接の干渉を禁ずる”は大丈夫なの?」
「ゼプスナハト様の許可は貰ってるから大丈夫よ。ゼプ様、私には甘い所あるし。女神としての力は大幅に制御されているから、大したことはできないわ」
(出来の悪い子ほど可愛いってやつかな? まぁ、見た目は確かに可愛いし美しいけど……)
「ちょっと! 失礼なこと考えてない?」
「そ、そんなことないよ」
「あ、そうだ。忘れないうちにあなたへの制約を伝えるわ」
「制約?」
「そう、この世界で生活する上でのルールね。それは、“審判に関する事柄について他言してはならない”ということよ。分かった?」
主神の“審判”により女神の格付けが行われていること、それに伴う女神の恩寵の増減、人族が危機的状況にあること、僕が救済措置としてこの世界に転生したこと、などをこの異世界の人々に話してはならないということか。
「もし……もしも、ついうっかり話してしまったらどうなるの?」
「救済措置は消滅。ゼプ様によってあなたの存在はこの世界から消滅するでしょうね」
「……自信がないんだけど……」
「そうならないためにも、私がついていくことにしたのよ。それで……早く感想を聞かせなさい!」
「えっ?」
アリューシャの小さな顔がどんどん僕に近づいてくる。さっきのキスを思い出して僕の顔が赤くなるのが分かった。
「キスよ、キーース!! 初めてだったんでしょ?」
「キスする必要はあったの?」
「私の強力な加護を与えるために必要だったの!」
「200年前の“使徒”にもキスしたの?」
「あれ、伊織もしかして妬いてるの? 妬いてるのかなー?」
アリューシャはニヤニヤしながら僕を煽った。悔しいけど妬いていないと言えば嘘になる。
「安心して。前の“使徒”に加護を与えたときは握手よ、握手」
「握手?」
「だって厳ついおじさんだったんだもの。なんだかいやらしい目で私を見てたし……私の好みじゃないわ。だから弱い加護しか与えられなかったの」
その弱い加護でも“使徒”は相当な力を手に入れているという。キスされた僕はどうなんだろうか。
「改めまして、伊織。異世界転生を引き受けてくれてどうもありがとう」
「いや、僕も新しい人生を送らせてもらえて有難いよ」
「……それで、キスの感想は?」
正直に言えば最高でした。でも、それを口に出すのは恥ずかしいし悔しい気がする。
「もう! 黙ってないで何か言いなさいよ……私だって初めてだったんだから……」
「えっ、何?」
「何でもない! ほら、早速お客様がやってきたわよ」
客が来たと言われて周囲を見渡すと、前方から何やら唸り声がする。
「なななな……何?」
「魔物が1匹近づいてきてるわ。これを使って!」
そう言って(妖精)アリューシャが手をかざすと、僕の目の前に装飾の美しいナイフがあらわれた。落ちそうになるナイフに手を出して、何とか僕はそれを手につかんだ。
「これで……戦うの?」
「そうよ。そのナイフ、特別製なんだから」
特別と言われて色んな角度からナイフを眺めるが、特に変わった所はない。
「ほらほら、あらわれたわよ……レッドムーンベアね」
「ベア……熊か?」
「グルルルル……」
前方に仁王立ちした巨大な熊がいた。身長は2m程だろうか。目は赤く充血し、両腕を高く掲げている。胸には名前の由来だと思われる三日月形の赤い斑紋がある。
「これは無理だよ……」
「何言ってるの! 私の加護があるのよ。こんな雑魚にあなたが負けるはずがないわ」
そう言ってアリューシャは胸を張る。こんな状況なのに、そして妖精で小さくなっているのに、ついつい胸に目が行ってしまう。
僕が戦うしかないと覚悟を決めると、それを察したのかレッドムーンベアが四足でこちらに駆けてきた。ものすごい速度で……これは詰んだ。天国の両親と祖父母の下へ向かうしかない。
……ところが突然世界が灰色になり敵の動きが鈍化し、まるでスローモーションのようになる。一瞬の出来事に驚きつつも、僕は余裕をもってレッドムーンベアの攻撃を避けた。
「ふーん、それが伊織の“祝福”なのね」
「祝福?」
「加護により与えられた特別な能力のことよ。この世界の人々は“スキル”と呼んでいるわ」
「敵の動きを遅くできるの!?」
「間違ってはいないけれど、時間を操作していると言った方が正確かしら」
「時間を操作するスキル……魔法じゃないの?」
「魔力は使うけれど、魔法じゃないわね。この世界で時間に干渉できる人はいない。これはあなた固有のスキルなのよ」
アリューシャと会話している間にも、レッドムーンベアは次々と僕に襲い掛かってくる。しかし、僕は魔物を鈍化して、それら全ての攻撃をうまく躱すことができていた。
「今は少しの間だけ敵の動く時間を遅くできるけれど、慣れれば時間を停止することもできるようになるはずよ」
「なんだか体もすごく軽いよ!」
「あなたの身体能力や精神力も大きく向上しているわ。どう? これが女神の加護なのよ!」
再びアリューシャは胸を張り、可愛い顔でドヤ顔を決める。
「ほら、早くやっつけなさいよ」
「うん、わかった……」
僕はナイフを構え、レッドムーンベアの攻撃を避けると同時に首の裏側にナイフを突き刺した。ナイフは何の抵抗もなく熊の首に吸い込まれていく。直後にレッドムーンベアは硬直し、白目をむいてそのまま前のめりに倒れたのだった。