転機―1
最下層から頂点へと成り上がる男の物語。
―――魔獣と呼ばれる文明の破壊者の出現。世界中の魔力濃度の急上昇。それによる魔力を使った魔獣への対抗手段としての魔術の発展。
人類の守護者として《騎士》が生まれ、誇りと栄誉ある職業となった。魔力を持つもの、才能があったもの、家督を存続するもの、出世を望むもの。如何なる理由であろうと、戦う意思と戦う力がある者には《騎士》を目指す権利が与えられた。
ただ一人、魔力を内包しない少年を除いて。
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趣味も無ければ、特技も無い。
コミュニケーションは苦手で、友人も少ない。典型的な落ちぶれた生徒。
それが浅見優希の周りからの評価だった。
幼少期。早熟な彼は、ありとあらゆる知識を吸収した。人並み以上に器用で、何をやらせてもソツなくこなす。身体能力も並外れたもので、スポーツやかけっこで彼に勝てる同い年の子はいなかったほどだ。
それが中学三年の夏、途端に変化を遂げる。何事にも消極的になり、あまり他人と関わろうとしなくなっていったのだ。人の中心にいた彼は、気付けば輪から外れた位置で静かに佇んでいた。
彼に何があったのかを知る者はいない。些細な出来事に気付けた者は、家族を含む友人や幼馴染を含め、誰もいなかったのだ。
高校二年の春。
始業式が終わり、体育館から続々と生徒たちが教室へと足を進める。
その中に浅見優希の姿もあった。
集団の中、ただ一人で歩く彼は、周りから見て浮いていたと思われる。
高校入学時から、彼は特定の友人を作らなかった。教師を含め、人との接触を過度に避けていた節がある。
一度だけ、そんな彼の生活を改善しようとクラスの人間や担任教師も腰を上げたが、結果は芳しくなかった。寧ろ、悪化したのでは、と思えるほど孤立していった。
そんな彼だが、決して人とコミュニケーションを取らないわけではなかった。
現に、彼へと近付く一人の男子生徒の姿があった。
「よっ。春休みぶりだな。元気にしてたか?」
「あぁ、うん。特に」
「そっか。今日の放課後にさ、夜宵と遊ぶんだけど、優希もどう?」
「いや、俺は⋯⋯」
天崎蒼太は浅見優希の幼馴染の一人である。幼少期から親交があり、当時は浅見優希の後ろを付いて回ったほどだ。中学三年頃から垢抜けたように大人びてきて、周囲からも持て囃されるような好青年になった。
実際、彼は浅見優希とは違い、友人が多く、優等生として教師からも好待遇を受けている。三年生になれば、生徒会長を務めてみないか、と勧められるほどに。
「俺は、いいよ。二人で遊びな」
「夜宵も会いたがってたし、久しぶりにまた三人で―――」
「いいって言ってるだろ」
どうしても引き下がらない天崎蒼太の言葉を遮るように言い放つ。無愛想な声音に、少しだけ後悔してしまった。何もそこまで言う必要はなかったのではないか、と。
しかし、浅見優希は天崎蒼太に劣等感を抱いていた。会話をするだけで、平常心を乱すほどの大きな感情だ。
嫌いではない。だが、あまりにもそれは大きすぎた。
「⋯⋯わかった。ごめんな、急に」
「い、いや、別に。夜宵によろしく伝えといてくれ」
「おう。またな」
申し訳なさそうに天崎蒼太は離れていった。どこか翳りのある表情で。
そんな顔を見て、少なからずとも不安が残る。やはり、今からでも誘いに乗るべきだったろうか。
だが、あの二人の仲睦まじい姿を見て、平静ではいられないだろう。
自分が苦しくなるだけだ。
再び、一人になった。
浅見優希は静かに集団へと溶け込んでいく。
―――どうして俺は、こんなのなんだ。
自己嫌悪が湧いてきた。
どうにもできない感情を抱きすぎている。いっその事すべて吐き出して楽になりたい。
しかし、そんなことは浅見優希のなけなしのプライドが許さない。意味を持たない思考が浮かんでは沈んでいく。
もし、あの日ちゃんと約束を果たしていれば、こうはならなかったのだろうか。
「それじゃ、ホームルームも終わるぞ。下校が早いからって問題を起こさないように。以上、解散」
担任教師の言葉で一斉に生徒たちが席を立つ。浅見優希も同じように学生鞄を手に立ち上がった。
それぞれが別れの挨拶や放課後の予定を考えている中、一人静かに教室を離れていく。誰と会話をするでもなく、視線すら合わせずに浅見優希は学校を離れ、帰宅するために最寄り駅へと足を早めた。
五駅ほど離れた家に帰るのに電車は必須だ。一応、原付の免許を取得してはいるが、乗っていく気にはならなかった。ひっそりと生活する浅見優希にとって、目立たない行為は必須のものだ。
駅に着くと時刻表を見上げる。今日は下校が早かった為、いつもと乗る電車が違った。
五分ほどで電車が来るらしく、目的のホームへと向かう。それから、何をするでもなく一人で電車を待ち続ける。
そんな時、一人の女子生徒がスマホを片手に近付いてきた。と、いうよりはただ同じ電車だった為に横に並んだだけだ。
「⋯⋯ねぇ、アンタもこの電車なの?」
隣に立つ浅見優希を見上げるように女子生徒は問いかける。学生鞄の華美なデコレーションをが目立つ明るい茶髪の生徒だ。髪をツインテールのように結んだ派手目な女子。
当然、こちらとの面識はなかった。
「⋯⋯そうだけど」
「へぇ、何駅先なの?」
「五駅先」
「ふーん。ウチは三駅先の駅で乗り換えるから全然違うね」
突然の声掛けに不意を打たれつつも、何とか返答する。その女子生徒は何が面白いのか口角を上げ、興味深そうに浅見優希の顔を覗いていた。
「ウチ宮坂京子。アンタはあれでしょ。根暗イケメンの浅見優希っ」
「⋯⋯うん」
「アンタ陰キャの癖に結構目立ってるよね。見てみて、これ。うちのクラスの子が上げてるSNS」
女子生徒・宮坂京子がおもむろに見せたのはスマホの画面だった。そこには何かの文面と共に教室で一人窓を眺める浅見優希の姿が写っている。
「根暗だけど顔が良いから結構人気みたいよ。こんな風にお近づきになりたい子も結構多いみたい」
「⋯⋯そういうのは蒼太の役目だよ」
「あー、天崎くん? 天崎くんは確かにイケメンだけど、彼女いるし。その点、浅見はアクセサリーとしては十分だから」
どうやら浅見優希はアクセサリー感覚で人気らしい。女子生徒にとってのステータスのようなものだろう。大人しい根暗な生徒だからこそ、アクセサリーとしての需要も高いようだ。
「飽きたら気軽に別れられそうだし、狙ってる子も多いって訳よ。浅見も気を付けたがいいよ?」
「あー、うん。そうだね」
「なにそれウケる。陰キャっぽいわ〜」
吹き出すように宮坂京子は笑った。しかし、嘲るような感情は見えない。
ただ心底楽しそうに笑っているだけだ。何が面白いのか分からず、愛想笑いも出来なかった。
「お、友達来たからバイバイっ。あ、これ煽ってるみたいだ」
「あ、うん。またね」
手を振って友人の元へと走り去る宮坂京子の見送り、浅見優希は一人ため息を吐く。
会話は苦手だ。相手が望む言葉を引き出せない。愛想笑いも出来ない。昔は笑うことすら簡単に出来たのに、今ではただの暗い男に成り下がっていた。
電車がホームへと停車する。何人かの乗客が降りてくるのを避けて見送り、しばらくして乗り込んだ。車両の中に知った顔はない。それよりも乗客が一人もいなかった。
どうやらこの時間は人もいないらしい。最後尾の車両なので、仕方ないのかもしれないが。
宮坂京子は別の車両に乗ったようだった。
しばらくぼーっと誰もいない車内で窓の外を眺めていた。スマホも扱う気にはならず、電車が動き出すのを待つ。座席には座らずに吊り革を握り立っていた。
そろそろ発車時刻だ。そう思い、車両の扉が閉まるのを見ながら待っていると一人の女子生徒がなだれ込んでくる。息を切らしたように肩を揺らしながら入ってきた顔に見覚えがあった。
女子生徒はそのまま浅見優希の隣に立つと同じように吊り革を握り、スマホを取り出した。矢継ぎ早に何かを打ち込んでいる。
扉が閉まり、電車が動き出す。
窓から流れる風景を眺めながら、浅見優希は気まずそうに肩を揺らした。
「ねぇ」
「⋯⋯」
女子生徒は顔をスマホに向けたまま責めるように声を掛けてきた。
浅見優希は返答出来ず、ただ外を眺める。すると痺れを切らしたように、
「ねぇ、なんで蒼太の誘い断ったの?」
と問い掛けた。
相変わらず互いに視線は合わせない。浅見優希は答えられなかった。二人の間に電車の走る音だけが聞こえる。
「蒼太、申し訳なさそうにしてたよ。無理に誘ってしまったんじゃないかって、本当は声を掛けられるのが嫌なんじゃないかって」
「⋯⋯」
「優希が何考えてんのか知らないけど、蒼太の気持ちぐらい考えなよ」
―――じゃあ俺の気持ちはどうだっていいって言うのかよ。
思わず吐露しそうになった感情を無理やり嚥下した。綺麗な黒髪が、艶やかな腰まで届く黒髪がいやに視界の隅で映える。こんなことになるなら、初めから電車ではなく原付で登校するべきだった。
「いっつも自分のことばっかり。私の気持ちも、蒼太の気持ちも無視して。自分勝手過ぎるのよ」
嫌な気分だ。
初めに俺の気持ちを無視したのはお前らじゃないか。そんな風に叫ぶことが出来たらどんなに楽か。
浅見優希のプライドがそれを許してはくれない。どうしようもなく、ただ言われるがままにしかなれない。
「優希がいつも一人だからって心配して蒼太は声を掛けてるんだよ? それを何も考えずに邪魔だって感じで断ってさ」
「⋯⋯」
「ほんと、心配したのが馬鹿みたい。折角、久しぶりに三人で集まれると思ったのに」
女子生徒の、柊夜宵が胸に突き刺さる。まるで、自分自身を否定されているかのような気分になった。
人格を否定され、存在を否定され、感情までもが否定される。情けない気分だ。今にも逃げ出したくなるほどに。
「あーあ、ほんと―――」
―――蒼太を見習ったらどうなの?
何気ない言葉。柊夜宵にとって傷つける意図はなかったのかもしれない。だが、その言葉は、浅見優希にとって何よりも言われたくない言葉だった。
それも、柊夜宵には絶対に口にして欲しくなかった。天崎蒼太に劣等感を抱く浅見優希にとって、残酷な言葉だったのだ。
「―――ッ」
「あっ―――」
気付けば肩をおしのけて電車を飛び出していた。幸いにも電車は駅のホームに停車しており、逃げ出すことが出来ていた。
もう、何も聞きたくなかった。浅見優希はその場から逃げ出すことしか出来なかった。
「⋯⋯なんで、そんな風になっちゃったのよ」
昔はかっこよかったのに。そんな言葉を背に、駅のホームを離れ足を進める。幸いにも家までは歩いて三十分ほどだ。二駅分だからそこまで距離はない。
「くそっ」
浅見優希は溢れ出る感情を抑え込んだ。
読書は嫌いだ。
本が嫌いなわけではない。少なくとも、中学三年までは進んで手に取るほどだった。
浅見優希が嫌いなのは本を読むこと。小説や漫画の世界を目にしてしまうことである。
主人公の視点から始まる雄大で幻想的な物語、甘酸っぱく青春を謳歌する男女の恋模様、世界を救う為に奔走する勇者たちによる英雄譚。どれも、嫌いだ。
浅見優希では成し得ない、夢と希望に満ち溢れた物語は必然的に彼の劣等感を苛んだ。
歩いて帰る道すがら、自宅にある本の類の処分を考えていた。昔の名残で書斎に並ぶ、輝かしい未来を描いた書物。目にするだけで気分が沈む。
ずっと処分しようと考えていた。それでも今まで何もせずに過ごしてきたのは、一重に憧れからだろうか。劣等感は羨望の裏返しだ。
今日こそは処分する。
先の会話で何かが吹っ切れた。もう、何も必要ない。浅見優希には釣り合わない代物なのだ。
夢を見続けるのは、もう終わりにする。
「⋯⋯雨」
小さな雨粒が頬へと落ちた。それを皮切りに銃弾のように雨粒が降り注ぐ。
いつもなら走って帰るが、今は濡れて帰りたい気分だった。荒々しい雨音と力強く叩きつけられる水滴が、腐った心を洗い流してくれるような感覚。どうせ傘なぞ持っていないのだ。教科書が濡れたって構うものか。そんなこと後から悔やめばいい。
開き直りと言うべきか。
浅見優希の心を支配するのは諦観だけだ。今の彼には諦めしかない。
このまま、ひっそりと姿を眩ませれば、全てを捨て去れば、こんな感情は抱かなくて済むのだろうか。
自問自答の答えは出ない。
雨水を踏み荒らしながら歩く浅見優希の隣に、黒塗りの高級車が停車した。
「優希様、お迎えに参りました」
車から降りてきた家事使用人のようなエプロンドレスに身を包んだ女性は一礼と共に告げる。
長い銀髪をツインテールに束ねた浅見家使用人にして、浅見優希専属給仕だ。同時に、専属ドライバーでもあった。
「頼んでない。帰れ」
「家長代理人である芽衣子様は優希様のお帰りを望んでいます。どうか本家にお帰り頂くようお願い申し上げます」
「帰れ、つってんの。何度も言わせるなタウリ」
「⋯⋯では優希様は本邸ではなく別邸の方にお帰りなさるのでしょうか」
「ああ。父さんは嬉々として承諾してくれていた。今更なしなんて許さないし、何より高々代理人である義母さんに取消の権限はない」
相変わらずの無表情だ。見ていて底冷えするかのような凍てついた瞳。感情の起伏を見たことがない。
長年付き合いがあるが、浅見優希はタウリ・シクススの感情を目にしたことがなかった。
「左様ですか。それでしたら別邸の方へとお送りいたします」
「必要ない」
「いいえ。これは先代家長の意思です。もし反故にするのならば、先の契約も同様に扱いますが?」
「チッ」
確固たる意思の元断言したタウリ・シクススへと、せめてもの抵抗として舌打ちを零す。
父である浅見一希は厳格な男だった。あの男は優希に商業の才能がないとわかると即座に見切りをつけ、今までの態度が嘘だったかのように冷たくなった。代わりに弟へと期待を注ぎ、浅見優希に目を向けることなぞ終ぞなかった。
ただ、期待こそなかったが、僅かながらの愛情もあったのだろう。契約の内容には身の回りを世話する使用人を一人は付けること、とあった。
―――それが真に愛情からくるものだったのか、周囲の目を気にしたのか、もう分からない。
死んでしまった以上、確かめる術がない。
「早く出せ」
車の後部座席へと乗り込むと出発を急かす。苛立ち紛れのその言葉に、タウリ・シクススは不平不満を零すことなく了承の意を示すと即座に車を発進させた。
スモークガラス越しに見える景色に目を向けながら、雨音に耳を傾ける。
エンジン音は僅かだ。気になるほどじゃない。
車内の机へと置いてあったタオルを無造作に掴むと身体の水気を拭う。
何もかもが嫌になる。
自分自身の情けなさも、内に抱く劣等感も、根底にある憧憬も。結局、何も捨てきれていない。
浅見優希には前を向くことが出来なかった。
「夕食はいかがな―――」
「―――いらない。それから絶対に俺の自室には足を踏み入れるな」
浅見家別邸。
父、浅見一希が気まぐれで所有していた屋敷の一つ。五百坪からなる豪邸。三階建て、屋上、庭園、プール付きのリゾートホテルのような家。
本来ならば大家族が住んでそうなこの土地を、浅見優希は一人で使用していた。部屋の数は全部で二十二。各部屋にシャワールームとトイレが備え付けられた金持ちの道楽の具現だ。
浅見優希の自室は三階の突き当たり、最も広い部屋にある。隣が書斎、向かいがトレーニングルームとなっている。
住んでいるのが浅見優希と仕事の関係上、寝泊まりをしているタウリ・シクススだけなのだから使われている部屋は僅かだ。
主に使用しているのは自室とトレーニングルーム、食堂、キッチン辺りだろうか。それ以外の遊戯室やプール、屋上などの娯楽室へは足を踏み入れない。
自室に戻る前にとすっかり濡れてしまった制服をタウリ・シクススへと投げ渡す。彼女は皺がつかないように掴むと無駄のない所作で一礼して浅見優希が階段を上るのを見送った。
長い廊下を歩き、自室へと籠る。下着一枚から黒のスウェットへと着替える。垂れていた前髪をかき揚げ、オールバックにすると学生鞄を投げ捨てた。
今日は筋トレをする気分にはならない。浅見優希の肉体は服越しでは分からないが、筋肉質だ。体脂肪率は五パーセントとアスリート選手のような体型をしている。着痩せするタイプなので、あまり人に知られてはいないが。
「―――こんなことなら、あの時死んでおくんだった」
こんな独り言、普段なら呟くことなぞなかっただろう。だが零さずにはいられなかった。
彼はまだ後悔の渦に囚われている。あの日、中学三年の夏祭り。いやそれより以前の話だ。彼女との約束を守っていれば、何かが変わっていたのだろうか。
―――大切なものは、失ってから気付くのだ。
まだ浅見優希へと期待を抱いていた頃、父が洩らした言葉。当時は特に深く考えなかった。
その代償が今、己の身を苛んでいる。
一人で使うには大きなダブルベッドへと身を投げる。もし、変わるきっかけさえあればいいのに。
そんな思いに共鳴するように閃光に続いて雷鳴が轟いた。明かりのない薄暗い一室。
一筋の涙と共に浅見優希の意識は途絶えた。
雨はまだ降り止まない。
有り得ない話だった。
魔力を持たず生まれ、劣等生として蔑まれ、騎士を諦めたというのに。
叶わない夢ばかり抱いていた浅見優希に転機が訪れた。
彼は、《騎士》を目指す権利を与えられたのだ。思いもよらぬ方法で。