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夏休みになって

   

 夏休み初日の朝。

 小学校で行われたラジオ体操に参加した後、阿部くんは近所の公園に立ち寄りました。まっすぐ家に帰るよりも、清々しい朝をもう少し肌で感じていたい、と思ったからです。


 正確には、そこは公園でなく鬼子母神という名前のお寺です。阿部くんも頭では理解していましたが、お寺特有の辛気臭さはなく、敷地内には小さな赤い鳥居――おそらく併設された神社のもの――がたくさん並んでいたり、駄菓子屋まで存在したりしています。そのため阿部くんにとっては『公園』という感覚でした。

 とはいえ、公園らしき遊具があるわけではありません。赤い鳥居の列は少し遊具っぽいかもしれませんが、さすがに子供心でも「登って遊んだりするのはバチ当たり」とわかっていました。せいぜい大量にいる鳩たちと戯れるくらいしか遊び方のない公園でしたが……。

 本殿前の、いつもは鳩たちがいる辺り。その朝、そこには鳩ではなく、一人の女の子が立っていました。


 お寺の建物を見上げているようです。その後ろ姿に見覚えがあり、思わず阿部くんは「あっ」と声を上げました。

 すると……。

「あら、阿部くんじゃないの。おはよう」

 ふんわり笑顔で振り返ったのは、昨日まで机を並べて勉強していた女の子、小笠原さんでした。


「おはよう、小笠原さん。そういえば、ラジオ体操では見なかったけど……」

 もちろん、ラジオ体操には来なかった友達も大勢(おおぜい)います。でも彼女は真面目なタイプであり、そういうイベントには参加するのが当然だろう、と阿部くんは勝手に思っていました。

「ああ、うん。ちょっと寝坊しちゃってね。それで、代わりに朝の散歩。そうしたら……」

 再び前を向いて、見上げる小笠原さん。

 彼女の視線は、建物の中央上部に向けられており、そこには大きな看板が掲げられていました。お寺だから本当は看板でなく『寺額』と呼ぶのですが、そんな用語なんて阿部くんは知らないので「お寺の看板を見ている」という認識でした。


「……このお寺。鬼子母神っていうんだね」

「うん。看板にも、そう書いてあるよね?」

 と、彼女に返します。

 改めて見上げれば、『鬼』のツノを書き忘れたような、ちょっと間違った漢字が書かれていました。

「小笠原さんは知らないと思うけど。鬼子母神って、もともとは悪い神様で……」

 他人の子供を食べてしまう悪神だったのが、自分の子供を隠されて、子をなくす母の心を思い知り、悔い改めるようになった、というエピソード。

 初めて鬼子母神に来た際に大人から聞いた話を、阿部くんは得意げに語りました。

「……だから、ここのシンボルマークは柘榴(ザクロ)なんだよ。人肉の味に近いから、代わりに食べるようになったんだって」


「そうだね。その話なら、私も知ってる」

 わざわざ最後まで聞いた後で小笠原さんが告げるので、阿部くんは少し拍子抜けしてしまいます。

「……え? 知ってたの?」

「うん。だって、前に私が住んでいたところにも、鬼子母神あったから」

「へえ。ここ以外にも、同じ名前のお寺、あったんだ……」

「正確には、入谷鬼子母神という名前で……。そうだ、アサガオ!」

 急に話題が変わったように感じて、阿部くんはポカンとしました。なぜ夏休みの宿題の話を……?

 そんな彼の表情を見て、おかしそうに笑いながら、小笠原さんは説明します。

「入谷の鬼子母神は、七夕のアサガオ祭りで有名なの。たくさんのアサガオ屋さんが立ち並ぶ、凄いお祭り! ちょうど私がそこに住んでいたのも、その時期だったわ。もう感激の光景だった!」


 小笠原さんの(がわ)には、特に優劣を競うような気持ちはなかったのでしょう。

 でも阿部くんとしては、なんだか面白くありません。他の鬼子母神を誇らしげに語られると、自分たちの地元が負けたような気分になるのです。

「でも、小笠原さん。ここの鬼子母神だって、十月には大きなお祭りがあるんだよ。御会式(おえしき)といってね。太鼓を乗せた車みたいなのを引いて、池袋まで練り歩くんだ!」

「太鼓を乗せた車……? ああ、山車(だし)のことね」

「そう、それ。屋台もたくさん出て、ここから都電の駅くらいまで、ずらりと並ぶんだから!」


 さすがに『都電の駅くらいまで』と言い切るのは、少し大袈裟かもしれません。

 地元の人間が鬼子母神通りと呼んでいる、目白通りから鬼子母神を経て明治通りまで続く道。それは都電の線路を越えた辺りで、大きく二つに分岐します。右へ行けば鬼子母神の正面、左へ行けば裏側の出入り口に通じる格好です。

 だから「どちらも鬼子母神の参道なのだろう」と阿部くんは思っていました。

 ただし、その分岐点から鬼子母神までの間には民家や商店がたくさんあり、だからお寺の参道というより、まだ一般道という感覚です。それなのに縁日の出店は、だいたい分岐点の近くまで続くので、子供の阿部くんにとっては、本当に感動的な出来事なのでした。


「あら、それは凄いわね。さぞかし、壮観な眺めでしょうねえ」

 少し大人っぽい言葉遣いの彼女に対して、阿部くんは子供らしい勢いで畳み掛けます。

「一緒に行こうよ、色々と案内してあげるから!」

 阿部くんの心は、とても弾んでいました。彼自身、なぜだか理由がわからないくらいです。

 興奮気味の阿部くんは、小笠原さんがこの時「うん」とも「いいえ」とも言わなかったことを、あまり意識していませんでした。

   

――――――――――――

   

 小笠原さんは結局、夏休みのラジオ体操には、一度も顔を出しませんでした。

 でも阿部くんは、毎日アサガオを観察する度に、彼女の顔を自然に思い浮かべていました。その花言葉やアサガオ祭りについて教えてくれたのは、他ならぬ小笠原さんだからです。


「小笠原さんも今頃、僕と同じで観察日記をつけているのかな?」

 そう考えると、夏休みの宿題も捗るくらいでしたが……。

   

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