丸く収まったその後で
エレナさんと取引をしてから約一週間。
私達は毎晩、仕事が終わってからノーラさんとエレナさんが食事をする時間までの二時間程度を、礼儀作法授業会と称して集まり、王侯貴族向けの礼儀作法の勉強会を行っていた。
私がエレナさんの教育をすることになったと近衛隊で話したとき、真っ先に心配してくれたベッタは、初日からちゃっかり自分も生徒として参加し、今ではエレナさんと切磋琢磨する良きライバルとなっている。
「あれ? エレナさんって、まだそんなところも覚えられていないの? 私より年上なのに容量の悪い……いえ、年上だからこそ物忘れが激しいのね。かわいそう」
「はぁっ!? あんた私と一歳しか違わないじゃない! 第一、あんたは授業外の時間もフィーラに張り付いて色々教えてもらってるじゃない! 自分が抜け駆けしていることも忘れているなんて、あんたの方が頭ボケてきてるんじゃない?」
「エレナさん、そんな汚い言葉遣いをしているうちはいつまで経っても淑女なんて言えないって理解してる?」
たまに、たまーに……本当にたまに、こういう喧嘩もしているけれど、喧嘩するほど仲が良いとか言いますしね。流血沙汰にはなっていないから、たぶん、大丈夫。
それにしても、毛嫌いしているエレナさんと関わる時間が増えたせいか、最近はベッタの口の悪さもよく目につくようになった。人のことを馬鹿にしたり揚げ足をとったり、所謂口喧嘩というものにおいて、ベッタはともかく頭の回転が速く、そして強かった。以前の、『どう対処すれば相手が再起不能になるかは熟知してるつもりだから』という強気な発言は、こういう口が達者な面からもきた言葉だったのかも。エレナさんみたいな直接暴力には反撃してきそうなタイプには、自分の発した言葉への完膚なきカウンター攻撃の方が効果があるということなのかしら。
今のところベッタは私には何も変わらない、優しく心配性でちょっと過保護な友人のままなので、このままの関係を維持できるように精一杯努力しようと思う。本当に。私、口喧嘩弱いのよ。自分で墓穴を掘っちゃう。
一方で、ベッタと一緒になって私のことを庇い、エレナさんに憤っていたアデリーナさんは、意外にもこの礼儀作法授業会に肯定的だった。将来の第一王子妃たるリリアーヌ様の近衛騎士の品格が上がることを歓迎しているのもあったけれど、一番の理由としては「礼儀作法を学ぶことでエレナさんの性格が矯正できれば最高です!」とのこと。
隊長として今まで私とエレナさんの問題には不介入の中立を保っていたクラリーチェさんは、何かあれば頼ってくれて構わない、と心強い応援をしてくれた。正直、私一人だとエレナさんとベッタの喧嘩を止められないので、そのうち全力でお世話になるかもしれない。
この件で唯一引っかかったのは、副隊長のダリアさんの反応だ。ダリアさんは何も言わずにただ拗ねたような顔をしていて、まるで自分の知らないうちに、私達の対立が丸く収まってしまったことを不満に思っているようだった。面白いものを観察しそこなった、とでも言うようなその態度は、ダリアさんがあくまでも一線を引いた、傍観者で観客で観察者であることを示しているようで少し背筋が寒くなった。
ダリアさんについてはアジリオさんの酒飲み仲間である、ということ以外特に何も知らないけれど、アジリオさんは輪に入って騒ぎながら人をおちょくってくるタイプなのに対して、ダリアさんは輪の外からただ人の関係の行く末を見て楽しんでいるタイプだと思う。何が起きても口も出さないし手も貸さない。一見すれば快活で豪快で気のいい人に見えるダリアさんだけれど、誰よりも冷たくて怖い人だと、私は今回の件で悟った。
多少の引っ掛かりはあれど、エレナさんと私の関係が概ね良好になったことで、近衛隊の雰囲気も改善した。エレナさんとベッタは着実に礼儀作法をマスターし、行動の一つひとつが洗練されてきたと思う。
「あら、最近随分と成長したのね。エレナ、ベッタ」
なんて、今日はリリアーヌ様にも褒められたりして、エレナさんのやる気は天井知らずの爆上がり中である。ちなみに、一緒に呼ばれたベッタの名前は十中八九耳に入っていない。
によによ、と形相を崩すエレナさんを放置して、リリアーヌ様はクラリーチェさんにこの後の予定について話し始めた。
「実はオーブエル殿下に一足早くお祝いの品をいただいたの。式の当日には今回とは別にメッセージカードとお花を贈ってくださるそうよ。殿下に二度もお祝いをいただけるなんて、お気持ちがとても有り難いでしょう? だから他の方にはお礼状だけで済ませてしまうのだけれど、オーブエル殿下には直接お礼を伝えなければと思って」
「では、これから王宮図書館へ?」
「そのつもりよ。既に侍女に頼んでオーブエル殿下に訪問のお伺いを立てたわ。午前中ならお時間を割いていただけるようだから、早めに向かおうと思って。近衛隊の準備をお願いできる?」
「かしこまりました。前回と同じような警護体制でよろしいでしょうか」
「えぇ」
リリアーヌ様の指示を受けたクラリーチェさんは、てきぱきと指示を飛ばして王宮図書館へ向かう準備を進めていく。
今回ももちろん、リリアーヌ様の馬車に私とエレナさんは同乗することになった。ベッタだけは最近のエレナさんとの不和を案じてか、馬での移動にさせられていたけど。
「最近はエレナとフィーラが仲良しみたいで嬉しいわ」
馬車に乗り込んで三人だけの空間になるなり、そんなことを言い出したリリアーヌ様に、私は空笑いを返す。
……私とエレナさんは別に仲良しになったわけではないのですが。
エレナさんも私と仲良しなんて言われるのは癪だろうな、と思ってちらとエレナさんに視線を向けると、意外なことにエレナさんは私を睨むことも顔をしかめることもなく笑顔を浮かべていた。
「公女様が嬉しいのでしたら、これからもフィーラと仲良くします!」
それでいいのか。
私はエレナさんのリリアーヌ様第一主義っぷりを侮っていたらしい。
頬を引きつらせた私に、エレナさんは「ねぇ?」と若干ドスの利いた声で同意を求めてくる。目の奥が笑っていないエレナさんに冷や汗をかきながら、私は自分の保身のために頷いておいた。
「最善を尽くします……」
エレナさんと取引をして、近衛隊の雰囲気も良くなって、すべてが丸く収まったはずなのに、どうやらリリアーヌ様が主人である限り私には油断をする隙は与えられないようだ。
笑顔で次はどんなことを言ってくるのやら。少しは自分の発言が周囲に与える影響……主にエレナさんに与える影響について考えてほしい。
今後は余計なことを言われないためにも、エレナさんとリリアーヌ様と三人きりという状況は全力で避けよう。特に距離感の近くなる馬車移動なんて今後共にしたくないわ。
そろそろちゃんと乗馬を習った方がいいかも、と、ただ呑気に今後の対策を考えていた私は、この後、リリアーヌ様の影響力を私自身も侮っていたことを突き付けられる。
丸く収まっていたのは私の周囲だけだったのだと、そう、ありありと実感させられたのだ。




