影
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「――ってフィーラってば聞いてるの?」
目の前で朝食を共にしているエレナさんの声にハッとする。
今日はアルベール殿下とリリアーヌ様の結婚式から二日後、正式に私が第三王子殿下近衛隊に戻る日だ。
配属の変更によって少し疎遠になりそうなことを気にしたエレナさんがせめて朝食を一緒にとろうとベッタさんと一緒に言って来た……わけではなく、私が朝食をとっていたらベッタさんとノーラさんが同席してきたのだ。エレナさんがリリアーヌ様の結婚式の話をともかく沢山聞きたいらしい。昨日も結婚式と祝宴の疲れで疲労困憊な私を捕まえて洗いざらい結婚式の様子を聞き出したというのに、まだ足りないというか、何度でも聞きたいようだ。
「ごめんなさい、ちょっとぼぅっとしていて聞いてなかった」
「まだ寝ぼけてるの!? だから、結婚式でリリアーヌ様が女神様に愛を誓われたときの様子をもっと詳しく教えてって言っているの! 私達は貴族の動向を監視したり外の様子を確認したりで全然見れなかったんだから!」
「あー、えっと、アルベール殿下と一緒にリリアーヌ様が女神様の像に頭を下げて言ったのよ。『私、リリアーヌ・デーク・シャーディヨンは、アルベール・イヴ・ソーラントを永遠に愛し、尊重し、支え合う夫婦となることを、慈愛深き女神様に誓います』って。後ろ姿しか見えなかったからどんな表情だったとかは分からなかったけど、一言ひとこと大切に、噛み締めるような口調だったわ。ドレスの裾もふわって広がって、陽光に輝いて美しかったわよ」
私が少しの間過ぎて正直あんまり憶えていない光景を何とか思い出し、エレナさん好みに若干脚色しながら言えば、エレナさんは瞼を閉じてその光景を思い描いたのか、満足そうに感嘆の息を漏らす。
そんなエレナさんを放置して朝食をさっさと終えれば、まだ自分の世界から帰って来ていないエレナさんに代わってノーラさんが私に声をかけてきた。
「フィーラさん、エレナちゃんが何度もごめんなさい。それと、少しの間だったけれど同じ隊にいられてよかった。エレナちゃんに公女様……今は妃殿下か。妃殿下に仕えるに相応しい教養を教えてくれてありがとう」
「こちらこそ、ノーラさんがいなかったらエレナさんに振り回され過ぎて頭がおかしくなるところだったわ。エレナさんにストップをかけられるノーラさんはすごいと思う。だから、できれば今後は二人の輪にベッタを積極的に入れてあげてくれないかしら? あの子、友達には優しい子なの。ひとりになっちゃうって不安な気持ちがまだあると思うから、ノーラさんから声をかけてあげくれない?」
この場にいない、寂しがり屋な友人のことを思って言えば、ノーラさんは微笑みながら頷いてくれる。
「もちろん。私ももうベッタさんのお友達、らしいから」
「そっか。良かった」
今後のベッタの置かれる環境に心配がないことを確認できた私は、それだけ言うと席を立ちあがった。エレナさんが自分の世界にいるうちに退散しないと、転属初日から遅刻してしまう。
エレナさんに気付かれないよう静かに退散しようとした私に、ベッタさんが最後に笑顔で言った。
「フィーラさん、そのサッシュ、とっても似合ってるよ」
私は一瞬、自分がつけた青色のサッシュへと視線を落としてから、満面の笑みで返す。
「ありがとうっ!」
***
ひとり王宮図書館への道を歩いていると、無性に懐かしさが込み上げてきた。
王宮図書館へはリリアーヌ様の近衛になってからも何度か足を運んだ。それでも、こうして第三王子殿下近衛隊の所属を示す青色のサッシュをつけて、オーブエル殿下の騎士として向かうのは約一月ぶりのことになる。
振り返ればこの一月はあまりにも濃くて、そしてあっという間に過ぎていった時間だったように思う。
初日から少しヤバそうなベッタと友人になって、エレナさんに敵対されたかと思えば、お父様の二度目の裏切りが発覚するし、リリアーヌ様とも随分と距離が近くなった。エレナさんに身分を明かしたり、礼儀作法授業会を開いたり、ベッタに引っ付いて回られたり。リリアーヌ様の噂のせいでアルベール殿下が暴走したり、噂払拭のために男装するはめになったり。アルベール殿下の思いを知ったり、自分の普通が崩れたり。あとは、オーブエル殿下と新しい約束をしたり、二人だけの星空を見上げたり。
振り返れば色々な事がありすぎて、寂しさなんて感じる暇もないくらいだったはずなのに、私の胸の中にはずっと、オーブエル殿下のもとへ戻りたい。寂しい。その気持ちが消えなかった。
この一月は騒がしくて賑やかで、穏やかだった入団したての頃とは全然違う環境だったけれど、その分自分にとって大切なことを考えたり、自分の人生の使い方を考えられる時間でもあったように感じる。
「私の、これからの人生」
目の前に見えてきた王宮図書館を見ながら、呟いた言葉が胸の中へ染みていく。
これから何度でも、何年でも見ることになるだろう王宮図書館。ここが私のこれからの人生の出発地点で、そして――……。
「フィーラッ!」
「おはよう、フィーラ」
「おう、フィーラ。今日は俺、遅刻せずに来たぞ。ちゃんとした大人っぽいだろ」
「この前ぶりだな、フィーラさん。もうダリアに絡まれたりしていないか?」
「あっ、フィーラだ。ねぇ、この前の続きが話したいのに最近会えなかったのって俺が避けられてたりするのかな?」
「この前って珍しくカミロがフィーラちゃんに絡みに行ってたやつ?」
「それでバルドさんに怒られてたやつ?」
エドガーがいて、ジャンがいて、アジリオさんがいて、あとは偶にバルドさんの小隊の人達もいて。
「フィーラ、おかえり」
――……あたたかい笑顔のオーブエル殿下がいる。ここが、きっと私の人生の最終地点でもあるんだろう。
懐かしくて、嬉しくて、愛おしくて、泣きそうになりながら、私は目一杯の笑顔で言った。
「ただいまかえりましたっ!」
大好きなこの場所に、この人達とともに、どうかこれからも在れますように。
何かが変わっても、何も変わらない絆がありますように。
胸の中でそっと、私は女神様へそう祈った。
「……じゃあフィーラは第一王子殿下の結婚式と祝宴に招待されたんだ」
「公女様、じゃなくて、第一王子妃殿下のお気に入りかぁ。フィーラって本当に王侯貴族と仲良くなるのが上手いというか、早いというか……すごいよね」
「こいつはドストレート馬鹿で裏表がないから妃殿下も傍に置いておいて安心だったんだろうな」
「褒められてます? 貶されてます?」
夜勤小隊との交代を終えた後、暇を持て余したアジリオさんからアルベール殿下の結婚の話題が出て、私達四人はいつも通り、扉の前に立って警備をしながらそんな話をしていた。
「でもいくら妃殿下の招待とはいえ、貴族の中に入っていくのは大変だったろ? 大丈夫だったか?」
私を平民として認識しているエドガーが心配そうに聞いてくるのに良心を痛めつつ、私は苦笑を浮かべた。
「まぁ、ちょっと視線がすごかったけど、ほら、主役は私じゃないし。式もあっという間に終わったからそこまで気にならなかったわよ」
とは言いつつも、主にご令嬢とご婦人方から向けられた熱烈な視線を思い出してちょっとげんなりしていると、私の様子を見たジャンが話題を変えるように聞いてくる。
「フィーラはどんなドレスで行ったの? 妃殿下がその辺も手配してくれたんでしょ?」
表向き王宮内では、私はリリアーヌ様のお気に入り枠としてただ一人、結婚式と祝宴に招待されたことになっている。そして着ていくドレスや装飾品なんかもリリアーヌ様が手配してくれたことになっているのだ。とてもじゃないけれど、平民には貴族の中へ入っていけるだけのドレスや装飾品なんて買えないもの。たとえ高給取りの王宮騎士団の騎士だとしても、何年分の貯金が吹っ飛んでいくかわかったものではない。
ジャンの質問に曖昧に頷きつつ私は、まさか男装していきましたなんて言えない! と内心冷や汗ダラダラである。
「えっと、淡い若草色のすらっとしたものを……本当は白とか淡い青が良かったらしいんだけど、新郎新婦と被っちゃうから駄目ってことで、残った中で私の髪色に一番合うものを選んでもらったの。髪は結い上げてもらって、メイクもしてもらって……なんというか、自分じゃないみたいな感じにしてもらったわ」
何とか誤魔化してそう言えば、私の姿を想像するようにエドガーが瞼を閉じながらうんうん頷いている。なんかさっきも似たようなの見たな。
「馬子にも衣裳ってやつか? お子様も立派なレディに見えるようにしてもらったわけだ」
「アジリオさん、あんまり私をお子様扱いばかりしてくるならおじいちゃんって呼びますよ」
「俺はまだそんなに老けてねぇよ」
「私だってもう立派なレディです」
むむむ、とお子様扱いしてくるアジリオさんにそう返せば、あっさり鼻で笑われた。そしてからかうように言われる。
「じゃあ妃殿下に頼んでもう一回、式の時の恰好をさせてもらえよ。それを見てレディだと思えたらお子様扱いをやめてやる」
「絶っっっっ対あんな恰好もうしません!」
つい、もう男装をしたくないという気持ちが爆発してそう叫べば、私以外の三人がびっくりしたように目を見開いて固まる。
瞬間、やってしまったと口を覆いながら、私は言い訳するようにもごもごと話す。
「えっと、その、あの格好って恥ずかしいし、やたら声はかけられるし誘われるし、どう返せばいいのかわからないし、もう勘弁してって感じだったので、つい……」
私が声を尻すぼみに小さくしながらそう言うと、三人はそれぞれに何かを察したように険しい顔をした。
「こんなでも、着飾れば声がかかるってわけか。しかも妃殿下のお気に入りだ。そりゃあ権力に近づきたい厄介な奴に声ぐらいかけられることもあるか」
「相手が相手ですしね。いくら殿下方と仲の良いフィーラでも、それは殿下方の人柄もあってのこと。殿下方と同じようには話せなくて当然ですよね」
「フィーラを下に見て妾にでもしようってつもりかよっ! 俺が傍にいられたら絶対フィーラにそんな奴ら近づけなかったのに!」
あれ、何だか話が思わぬ方向へ進んでしまっている気がする。なんでみんなそんなに怒ってるの?
……あああああぁっ、私が男装姿じゃなくてドレス姿で参加していたと思っているからか! そして私が平民だと思っているからだ!
実際は男装姿なうえにご令嬢やご婦人方に声をかけられたり、お茶会やエスコートをしてくれないかと誘われたりで、どう返していいかもわからなくて困ってたって話なんだけども、三人はリリアーヌ様のお気に入りである私が貴族の男性に声をかけられたり誘われたりしたと思ったんだ!
三人の勘違いを察した私は慌てて誤解を解こうと口を開いた。
「いやっ、違うから! 別に厄介なのに声をかけられたりしてません! いや、厄介といえば厄介でしたが、私に声をかけてきたのは女性陣です! 誘われたのはお茶会とかですし、変な意味じゃありませんから!」
私がそう叫んだ瞬間、それぞれに怒りを露わにしていた三人が一斉にすっと真顔になった。
そして、アジリオさんが無言のまま私へ近づいてきて、流れるように私の頭へ拳を振り下ろした。
「……ったく紛らわしいんだよ馬鹿っ!」
「ぎゃあっ」
ゴンッという音が脳天から響き、つま先まで衝撃が伝っていく。
私は涙目になりながら脳天を摩りつつ、アジリオさんを睨みつける。
「殴ることないじゃないですか! 勝手に勘違いしたのはそっちなのに!」
「あんな言い方されれば誰だって勘違いするっての! ほら見ろ、エドガーを! 一番怒ってたのが恥ずかしくて真っ赤になっちまってるぞ!」
「わああああ言わないでください!」
アジリオさんの言う通り、耳まで真っ赤にしたジャンは、さっきまでの鬼気迫るような表情とは打って変わって、へにょへにょの情けない顔をしていた。
その様子に若干の罪悪感が芽生えていると、エドガーの横でほっと胸を撫で下ろしたジャンが安心したような微笑みを浮かべながら聞いてくる。
「よかったよ。じゃあフィーラは女性にしか声をかけられていないし変な誘いを受けたりもしていないんだね」
「えぇ。式の後も祝宴でも私はずっと……」
当然のように言いかけて、思考が停止する。
――……思い出せない。
「あれ、あれ?」
頭に手を当てて、先日の自分の行動をよくよく振り返ってみる。
式まではちゃんと憶えている。女神像の間でお父様とお母様と別れたのも、大聖堂の前で民達に手を振るアルベール殿下方の姿も、そこに降り注ぐスノーガランサスの花びらが美しかったことも。
祝宴は? 女性陣に囲まれたことは憶えている。次々に男装を褒められて、お茶会やらに誘われて、それを用意された壇上の椅子に座った王族の方々が呆れた顔で見ていたことも。絶対もう男装しないって、その時に考えたのだ。
――でも、あれ。大聖堂から祝宴に向かうまでの間、私は何をしていた? 誰といた?
ひとりだった、一人のはずだ。だってダイアスタ家で祝宴に出席するのは私一人だったから。一人で馬車で移動した。それだけのはずだ。
――なら、何で何も思い出せない? この、何かを見落としていいるような胸のモヤモヤした感じはなに?
『――失礼。フィリーレラ・シル・ダイアスタ伯爵令嬢でお間違いありませんか?』
朧気に欠けた記憶を探る中、ノイズがかかったような男の声が響いた。
瞬間――……
「フィーラッ!?」
私の視界はぐにゃりと歪み、足元がおぼつかなくなる。
三人の慌てたような声が響いたのを最後に……私の意識はブラックアウトしたのだった。




