最終話 真実と嘘
気がついたときには、視界に青空が広がっていた。
背中には、ゴツゴツとした硬い感触。
……そっか、ぼくは……。
思い出した。一瞬前の出来事――エメトを突き飛ばし、自分が車に轢かれたことを。
眼球だけを動かすと、かすむ視界の先、歩道にぺたりと座り込んでいるエメトが見える。見たところ、目立った外傷はなさそうだ。
よかった。無事、だったんだ。
その事実だけで、ぼくの心は幾ばくかの安心感を得る。
これって、実験としては失敗、になるのかな。
エメトは、ロボットは自分を身代わりにして人間の命を助けようとした。本当ならその結果、彼女の身体は壊れるはずだった。だけど、こうしてぼくがさらに彼女の身代わりになったから、実際には彼女は壊れていない。
……まあ、いいか。
もしかしたら今後、エメトは実験に失敗したロボットとして処分されてしまうのかもしれない。だとしたら、これはただの自己満足。ひとりよがり。
でも、ぼくは嫌だったんだ。
そばにいるのに、彼女を見殺しにするような真似は。
どのみち、ぼくはもう助からないだろう。
身体のあちこちが軋むように痛んで。
口の中いっぱいに、鉄の味が広がって。
当たり前だ、だって車に轢かれて、きっと身体がぐちゃぐちゃに、血まみれになっているんだから――
「……え?」
わずかに動く首が、あるものを捉える。轢かれたことによって、千切れてしまったぼくの脚。
その脚の千切れた断面から、鉄の塊やコードやのびていることに。
「え……?」
本来なら噴き出しているはずの血や、肉や骨はそこには一切なくて。
鈍色の人工物だけが、そこにある。
これ、って――
「うっ」
刹那、頭の中に記憶が流れ込んでくる。
決壊したダムのように。
降りしきる大雨みたいに。
『――最終調整、すべて完了しました』
『記憶プログラムの書き込み、大丈夫です』
『よし、それではHumanoid‐robot――No.99を起動する――』
そして――悟る。
……ああ、そっか。そうだったんだ。
ぼくは、ロボットだったんだ。
ぼくこそが、ロボットだったんだ。
「……ツクモ、様」
ぼくの顔に影が差す。ぼくのことをそう呼ぶのは、ひとりしかいない。
「エメ、ト」
いつも見る、表情のない顔。瑠璃色の瞳。
「ねえエメト」
「なんで、しょうか」
「君は、全部知っていたの?」
最後の『三原則試験』のこと。
ぼくが、ロボットだってこと。
「……はい」
「申し訳、ありません」
「謝らないでよ。きっとそれが君の役目、だったんだよね?」
「……はい」
エメトは語り始める。
「ツクモ様は、私の改良型として製造されたものです。そして私は、ツクモ様の実証実験の監視役として、任命されました」
「われわれロボットが、自己認識に何らかの不具合が生じた場合でも、正常に命令遂行を、『三原則』を遵守するかどうか。それが今回の試験の目的でした」
「ツクモ様は見事、実験を成功に導かれました。これでわれわれロボットは近い将来、安全な存在として、社会に出ていくことでしょう」
「そっ……か」
それが真実だったのか。ぼくが人間で、エメトをテストしていたって、そう思っていたことが嘘で。
ぼくこそが実験対象だったんだ。
「ごめんね」
「どうして、ツクモ様が謝るのですか?」
「だって、君が悲しそうな顔を、してるから」
「そう、でしょうか……」
「……うん」
ロボットだから、きっと悲しみはプログラム上のものに過ぎないのかもしれない。でも、できれば君を、悲しませたくなかった。
ぼくのこの思いですら、プログラムなのかもしれないけど。
だんだんと、意識が遠のいていく。きっと人間が死ぬときも、こんな感覚なんだろう。
「エメト」
「……はい」
「君に出会えて、本当によかった」
ぼくが人間だったら、こんなとき、涙を流しているのかもしれない。
だからぼくは言葉で、精いっぱい伝えておきたい。
「祈ってるよ。君がこれから、たくさんの人の役に立つことを」
「私、も」
エメトが、ぼくの手を握ってくれる。だけど悲しいことに、ぼくにもう手の感覚は残っていなかった。
「ツクモ様と出会えて、幸せでした」
「うん」
「きっとたくさんの人に喜んでいただけるよう、がんばります」
「うん」
ぎゅ、ともう一度、手を握ってくれる。
少しだけ、あたたかい感触がして。
胸のあたりが、ぽかぽかとあたたかくなって。
「ありが、とう……」
その言葉を最期に、ぼくの意識は途絶えた。
それから数年後、さらに多くの実験を経て、人型ロボットは社会へと普及していった。
「お母さま、ご夕食の用意ができました」
「あら、ありがとうね」
仕事から帰ってきたばかりのスーツ姿の女性を、メイド服姿の彼女が出迎える。この家では、仕事で忙しい母親に代わって家事などをすることが主な仕事だった。
「いつもいつも作ってもらって、悪いわね」
「いえ、これが私の仕事ですので」
「ほんと、助かってるわ。ほらー、ごはん食べるわよー」
「はーい」
女性が2階に向かって声をかけると、どたどたと小学生くらいの男の子がおりてくる。
「えー、今日ホウレン草なのー?」
「こら、優斗!」
「俺、ホウレン草嫌いって言ったじゃん。ロボットなのに覚えてないの?」
「せっかく作ってもらったのに、そんなこと言わないの!」
女性が叱りつけると、男の子はしゅんとする。
「もちろん、覚えております」
「ですが、優斗様は人間の男の子です。男の子は好き嫌いせずに食べないと、大きくなれません」
「……」
「よろしいですか?」
「はーい」
彼女は、とても優秀なロボットとして、世間から高く評価されていた。
だがそこには、ひとり――いや1体のロボットの、貴重な犠牲があってこそだった。
誰も知らない、尊い献身。
知っているのは、たったひとり。
その真実を、彼女だけが憶えている。