『おいしい』と『おいしいね』は違うんだよと、彼女はそう言った
放課後になるころにはすっかり雨も止み、あれほど分厚かった雲が散り散りになり、空からは陽が強く差し込んでいた。
僕はHRが終わるや否や購買まで猛ダッシュ、売り切れ間際になっていたカレーパンを一つひん掴み、百二十円をぴったりぽっきり購買のおばちゃんに叩きつけ、毎度のまの字も聞かないままに踵を返して再ダッシュ、1階から3階までを二段飛びで駆け上がったはいいものの途中で見事に息切れし、手すりにつかまりながら階段を踏みしめるのだった。
屋上の扉は少しだけ開いていた。僕はドアノブを握らず、扉を手で押す。ギイ、と錆び付いた音が鳴ったかと思うと、目の前に広がった日光に思わず目がくらむ。目が慣れた頃にようやく、ひとりの女の子が立っていることに気がついた。
「ちゃんと来てくれたね」
夢咲七海ちゃん、である。
真っ白い肌が雨上がりの陽光で輝いているように見えた。長い髪が五月の心地いいそよ風にそっと撫でられてなびいていた。見ているだけで吸い込まれそうな瞳が僕の時間を止めていた。たぶん今この瞬間を写真に収められたら、一生の宝物になるような気がした。
思わず見惚れてしまい、立ちすくんでいると。
彼女はぴょんと跳ねるように僕との距離を詰めた。吐息すら当たるような距離。えっと、近くないですか……?
「お、約束覚えててくれたんだ」
彼女は、僕が左手に持っているカレーパンの存在に気づいたようだった。
「晴れたでしょ?」
「ま、まあ……」
太陽より眩しい笑顔を僕は直視できず、誤魔化すように手に持っていたカレーパンを差し出す。
「ん、ありがと」
彼女は僕からカレーパンを受け取ると、
「じゃ、はい」
ビニール袋からカレーパンを取り出して僕に渡した。僕が今手渡したものとは別だ。僕は首を傾げる。
「確かに負けたら奢ってねとは言ったけど」
彼女は、僕が手渡したカレーパンと、僕が手渡されたカレーパン、二つの同じパンを交互に見ながら囁いた。
「わたしも奢っちゃダメっていうルールは無いでしょ?」
「それじゃ賭けになってないんじゃない……?」
「いいんだよ。真岸くんと一緒にカレーパン食べる口実なんだし」
彼女はちょっとだけ意地悪に微笑みながら、ちょいちょいと手招きしていた。鉄網のそばに、ご丁寧に小さなレジャーシートが敷いてある。まだ屋上の床が濡れているから、という理由なのだろうが、彼女がわざわざ持ってきたのだろうか……?
「座って座って」
促されるまま、僕は遊園地のマスコットキャラが描かれたレジャーシートに腰を下ろす。彼女は僕のすぐに右に座った。……やっぱり近い。
「ね、先に食べちゃお、カレーパン」
「これ、僕も食べていいの?」
「いいよいいよ。ていうかぜひ食べて。今。わたしと一緒に」
すごくぐいぐいくる。
「わたしね、ごはん食べる時のポリシーがあるの」
「ポリシー?」
僕が訊き返すと、
「そう!」
彼女はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「おいしいものは一緒に食べたら二倍おいしい! そう思わない!?」
派手な効果音でもついていそうな主張だった。僕が無言で驚き、再び風がひとつ吹く。
そのなんとも言えない間を感じた後で、彼女は小さく咳払いをした。
「あのね」
彼女はカレーパンの袋を開けながら、
「『おいしい』と『おいしいね』は、全然違う言葉なんだよ」
「どういうこと?」
僕は首を傾げた。彼女につられるように袋の封を切りながら訊き返す。
「『おいしいね』って言葉はね、二人が同じものを食べて初めて言える言葉だから」
「二人が、同じものを……」
「わたしだけがカレーパンを食べてたら言えないし、わたしと真岸くんが違う食べ物を食べてても言えないの。だから、『おいしいね』って、すごく特別な言葉なんだ」
彼女はブレザーのポケットから、使い捨ての――コンビニなんかで貰えるような――おしぼりを二つ取り出し、僕に一つ手渡した。本当に用意良いな。
「だから、一緒に食べよ?」
彼女の甘ったるい視線が、まるで誘惑でもしているかのようだった。正直なところ、食が細い僕はそんなにお腹が空いていないのだが、ここでいいえと言えるような精神力を持ち合わせているわけでもなく、
「……はい」
小さく頷くことしかできなかった。
「へへ、やった」
だって、こんな愛くるしい笑顔を見たら否定できないじゃないか。抵抗できる男がこの世にいるのなら、頭を叩き割って脳みそがどうなってるか研究したいくらいだ。
彼女はカレーパンを両手で持ち、
「いただきまーす」
「い、いただきます」
彼女はぱく、と勢いよくカレーパンにかぶりつく。僕も合わせて一口目を頬張った。中からカレールーの強い匂いが漂ってくる。
うちの高校のカレーパンはそこそこの人気があるようで、教室で一人寂しく昼ご飯を食べていると、あちらこちらからよくカレー臭が漂ってくる。実際のところ食べたことはなかったのだが、いざ食してみると……悪くはない。
僕が新しい発見に満足していると、カレーをほっぺにつけた彼女が、ずっとこちらのことを見つめているのに気が付いた。何かを求めているようだ。……あ、と僕は気が付いて、
「えっと……おいしいね」
「うん! おいしいね!」
合っていたようだ。彼女は幸せそうに頷いてみせた。眩しすぎる……僕にはまだ眩しすぎる……。
ただ、彼女の口元……カレーが付きっぱなしなんだよな。二口目を意気揚々と食べ始めているが……教えてあげたほうが良いかも。
「えっと、夢咲さん」
「んー?」
「カレーついてるよ」
言いながら、僕は自分の頬を叩いてみせる。が、
「あ、うん」
彼女は返事をしたまま、顔を拭く素振りを見せなかった。そのまま時間が経過する。一秒。二秒。三秒。
僕が疑問に思っていると、彼女は僕の疑問に気づいたようで、何やら慌てながら片手を回し始めた。
「こ、これは違うの! いつも秋穂が拭いてくれてたから、ついいつもの癖で!」
なるほど。いつもは吉松秋穂に口を拭いてもらっているのか。僕の日記にも無かった新情報だ。後でメモっておこう。
などと僕が考えているうち、彼女の顔はより紅潮していき、
「こ、こんなの自分で拭いて当然だよね! 見苦しいとこ見せちゃってごめんね、すぐに拭くから――」
……ぽと。
彼女が持っていたおしぼりが地面に落ちた。
「……」
彼女は落としたおしぼりを泣きそうな目で見つめている。やがて混乱し始めたのか、おろおろと周囲を見渡した後でブレザーの袖の存在に気づいた。
「待って待って待って!」
袖で口を拭おうとした彼女を僕は慌てて止める。服にカレーが付くと匂いも色も取れなくて大変だ。僕は自分の手元にあったおしぼりを包装から取り出す。貰ったはいいけどまだ使ってないし、彼女の顔を拭いても汚れないだろう。
「じっとしてて」
貰ったばかりのおしぼりを彼女の頬にあてがい、カレーを拭う。カレーはすんなり取れて、彼女の綺麗な顔が戻ってきたのだが……じっとしていた彼女の顔が、さきほどの紅潮とは比にならないくらい真っ赤になり、沸騰しそうになっていた。
――そんな彼女を見て、僕は気づいた。
あれ? 僕もしかしたら今、とんでもないことした?
「ごごごごめん! そんなつもりじゃ!」
僕は慌ててフォローするが、いやフォローになっていないが、彼女は彼女で、
「ううん大丈夫! むしろ嬉しいっていうか……えっとこの嬉しいってのはありがとうって意味で!」
お互いの弁明。そして、お互いに状況を悪化させているような気がして、沈黙。
すごくきまずい。
収まらない気持ちを誤魔化すように、僕はカレーパンをがっつき始める。彼女も同じ気持ちだったのか、同じようにカレーパンに口をつけた。まるで早食い大会のようだった。
僕も彼女も顔が腫れ上がったかのように赤くなっており、ほとぼりが冷める頃には、双方ともにカレーパンを完食しきってしまっていた。