〇〇××年五月十二日(金)
雨が降っていた。
まだ梅雨には早いと思うのだが、と僕が愚痴っても止まらないだろうが、雨が地面を叩きつける音というのは少し心地よさも覚える。僕は教室に着いてからぼんやりと窓を眺めていたが、暇になって日記を開いたちょうどそのあたりで、彼女は教室に転がり込んできた。
「はー、びしょびしょ……」
めっちゃ濡れていた。
僕が驚いている間に、クラスメイトが彼女を囲っていた。おい、そこ邪魔だぞ。夢咲七海ちゃんの姿が見えないだろうが。道を開けろ。
……とは当然言えずに、僕はただ彼女が真ん中にいるであろう人だかりを外から眺めているだけだった。
「夢咲さん、どうしたの!?」という問いかけに対して、
「傘忘れちゃって……」
彼女がそう答えるのが聞こえた。
「風邪ひかないでね!」
「タオル貸したげる!」
「俺の愛であっためてやるぜ!」
そんな彼女はクラスメイトの面々からそれぞれ優しい言葉と色々な施しを受けていた。最後のヤツはぶん殴ってやる。そんなことを思っているうちに、彼女が人だかりから抜け出してくる。
……身体中にタオルを巻かれてもこもこになっていた。
「あ、歩きにくいよー……」
彼女が困惑した顔でそう呟いていた。
いやしかしどうなっても尊い。小動物みたいになってるし。例えるなら羊だ。とはいえ、あの愛くるしさの前にはどんな狼も彼女を食べることができずに思わず愛でてしまうだろう。
……ふと、僕は。
彼女は十分に愛されてるんじゃないかなあ、なんてことを思った。
容姿も声も性格も可愛いし、人徳もある。僕のこんな日記なんて頼らなくても、彼女は十分に愛される素質がある。それは、善意で巻かれたタオルの枚数からも明らかであった。あれ全部洗って返すのかな。
彼女は何枚か落ちたタオルを拾い上げて丁寧に折りたたんでいる。全部たたみ終える頃には、タオルの山が倒れかけのジェンガみたいになっていた。それをバッグに入れ、自身の席へと向かう途中で、彼女は僕の席の後ろを通り過ぎていく……はずだったのだが。
彼女は、あろうことか、
「真岸くん、おはよー」
僕の視界の右側からにゅっと生えてくるように飛び込んできて、ひらひらと手を振ったのだ。
え。今これ僕に挨拶してんの? 後ろにいる別の真岸くんに挨拶してるとかではなく? ……いや、このクラスにはそもそも真岸は僕一人だし、思いっきり僕の顔をガン見してるから僕に対して挨拶していることに間違いはないのだ。そうなのであればちゃんと返さないと、無視されたと思われそうだが……
「お、おおおはよう……」
思わずテンパってしまい、挙動不審になりながらなんとか挨拶を返した。たぶん彼女が気分を害さない程度には声は張ったつもりだが、それでも後半が尻切れトンボになってしまう。文字に起こしてみると自分の陰キャっぷりに嫌気が差してしまうのだが、それでも彼女は笑顔で頷いていた。天使かな?
挨拶のやり取りが終わったので一先ず僕が胸を撫で下ろしていると、
「ね」
彼女は僕にそっと囁いた。
「今日の放課後も、屋上に来てもらっていいかな?」
ドキッとした。
学年でもぶっちぎりの可愛さ(当社比)を持つ彼女から屋上に呼び出されるなんて、まさにラブコメみたいな展開だ。もしラブコメの神様がいるのなら、このような配役にしたことを感謝したいところだ。
でも、多分彼女の目的は僕の日記なのだろう。ならば今見ないのだろうか……と僕は思ったので、正直に訊いてみた。彼女は答える。
「真岸くんの日記見てわたしが大喜びしてたら騒ぎになっちゃうかなって。真岸くん、そういうの苦手かもなって思うし」
確かに、僕は人混みが苦手だ。いや、好きな奴なんてそんなにいないだろうけど、できることなら一人っきりのほうが基本的にいい。学校に真面目に来ている理由なんて、彼女が登校しているからだし。
「……雨降ってるけど」
僕がそう返すと、彼女はスマホを開いて僕に画面を見せながら、
「天気予報だと、午後から晴れるらしいよ?」
確かに、彼女のスマホの画面を見る限り、十四時以降晴れマークが続いているのが分かる。だがしかし、この大雨だ。さすがにすぐには止まないだろう。などと渋い顔をしているのがばれたのか、
「じゃ、賭けようか」
「賭けるって、何を?」
僕が訊くと、
「購買のカレーパン」
安い賭けだった。
「もし晴れたら、わたしの勝ち。カレーパン奢ってね」
「雨が止まなかったら?」
「真岸くんの勝ち。カレーパン奢るよ」
彼女は頭に乗ったタオルでその長い黒髪を拭きながら言った。雨も滴るとはいい言葉だなあ、なんてことを思っていた僕だったが、彼女は僕の机の上にあった日記の存在に気づくと、
「あ、今日も書いてくれてるんだ」
まあ、と僕はしょっぱい返事をする。流石に会話中には書いたりしないけども。この文章も、彼女とのやり取りが終わった後でまとめて書いている。自慢じゃないが、記憶力だけには自信がある。まあ、彼女の台詞を一字一句忘れない為に記憶力トレーニングを頑張った結果なんだけれど。
「楽しみにしてるね」
彼女は、そのひまわりみたいな笑顔と共に僕に手を振り、自分の席へと歩いていく。
彼女からすればただの会話なのだろうが、僕からすればその一つ一つが貴重な瞬間なのである。人生に録画機があるのなら、ここだけ録画してリピート再生したいところだが、生憎人生は録画無しの生放送であるため、僕はこうして彼女の尊さを日記に収めることで必死の記録を試みている。
けど、僕は今少し……いやすごく……放課後が楽しみだった。