〇〇××年五月十一日(木)
木曜は嫌いだ。
教室移動が多いうえ、今日の授業はどれもこれも先生の見回りが厳しい。おかげで、僕が堂々と日記に彼女のことを書き込める授業は四時間目……現代文だけだ。
彼女は、僕の席から数えて左隣の列の三つ前に座っている。僕は一番後ろの席だからこそこうやって悠々と日記なんぞをしたためることができるのだが、彼女は窓際で、陽射しを受けてこっくりこっくりと舟をこいでいた。
「で、あるからしてぇ、ここでは先生はぁ、Kのことを手紙に書いておりぃ……」
間延びするかったるい声で文章の解説をする現代文の先生である――もはや名前すら覚える気もない――中年のおっさんの顔を一瞥し、僕の方を注目していないことを確認だけして、僕は教科書に堂々と載っている夏目漱石の顔写真に落書きしていた。
やがて夏目漱石のヒゲを枠の外まで伸ばしたことで満足した僕は、教科書はもはや立てかけるだけにして日記を開き、こうやって文字を残している。
彼女はたまに起きては、黒板の内容をノートに一生懸命書き写している。僕なんて「こゝろ」とタイトルだけ書いて無駄に影をつけたりしただけで飽きたのに、真面目なものだ。
……そう、彼女はあくまでも真面目であることも、また魅力の一つなのだと思う。きっと真剣な顔をしているのだろうが、やはりというか後ろからだと見えない。彼女の隣にいる男子が羨ましくて仕方ない。もし席替えで彼女の隣になれたなら、根っこを生やして一生そこに住んでも悔いはないだろう。
「じゃあ、ここをぉ……」
現代文の先生が、相変わらず酔っ払ったサラリーマンみたいにダラダラとした口調で、
「夢咲さん、読んでねぇ」
なんということか、彼女を当てていた。もしこの教室がいかがわしい店なら彼女は指名殺到、指名するだけで高い追加料金を取られそうなものだが、彼女は中年教師にチャージ料をふっかけることもなく、黙って立ち上がる。彼女は手に持った教科書に視線を落とし、並んだ文字を読みあげた。
「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっとも、これはその時に始まった訳でもなかったのです……」
彼女の甘く響き渡るその声に、わずかにあったひそひそ声がぴたりと止み、クラス全員が彼女の声に聞き惚れる。声はやや高めで、確か去年は音楽の授業でソプラノ担当に分けられていた記憶がある。元アイドルの彼女だが、声優に転職も狙えるんじゃなかろうか。
耳かきボイスとか録音して売り出したら百万ダウンロードはいきそう。そんなヨコシマなことを思った。
「……また強い日で照り付けられるのですから、身体がだるくてぐたぐたになりました」
彼女が教科書の一節を読み終える。と同時に、クラス中から拍手が飛び交っていた。僕も自然に手を叩いていた。正直言えば「そこはスタンディングオベーションだろ!」と宣言したいところだったが、何しろ臆病な僕は、周りの拍手が止んだ後、最後に一回だけ多く手を打ち鳴らすことだけしかできなかった。
彼女は照れ臭そうにはにかみながらぺこぺこ頭を下げた後、椅子に腰かけた。礼なんかしないでいいのにいちいち律儀なのもまた尊さが深い。こっちがお礼を言いたいくらいだ。僕と同じ時代に生まれてきてくれてありがとう!
「はい、ありがとうねぇ。今夢咲さんが読んでくれたところは、心情としてとても大事で……」
先生が聞いてもいないのにどうでもいい解説を始めた。彼女はまたも真面目にノートを取り出していたが、やがてまた眠くなったのか、うつらうつらと首が傾き始めた。たまに後ろの席の吉松秋穂に脇腹を突っつかれている。シャーペンが刺さる度にびくっと身体を震わせ、後ろの吉松を睨みつけていた。うーん、その顔も実にイエスだね。僕は一人、ひそかにニヤつくのだった。
その拍子、また彼女と目が合う。
「これは書かないでほしい!」
と言わんばかりに両手の人差し指で×印を作っていた。僕はその場で手の平を合わせた。ごめん。これボールペンで書いちゃってるんだ。彼女は僕のジェスチャーを見ると、何やら前に向き直って何かを書き始める。何をしているんだろう?
しばらくして、どうやら何かを書き終えたらしい彼女は、後ろの吉松に紙切れを手渡していた。ひそひそと何かを話している。吉松は頷き、後ろの席の女子に紙切れを手渡す。その女子もまた後ろに……とリレーが始まり、その紙きれはやがて僕の所へと届いた。
「……」
彼女がものすごく期待した目でこちらを見ている。どうやら開けろということらしい。僕は彼女の子供っぽい表情を脳裏に焼き付けた後で、小さく四つ折りにされたその紙きれを開く。
そこには、現代文の先生の雑な似顔絵が書いてあった。……「オネエ系なのよ」という台詞を添えて。
「ぶっ」
思わず吹き出してしまう。その様子を目ざとくチェックしていた先生が、
「真岸くん。授業中は静かにしてくださいねぇ」
怒られてしまった。教室のそこらからクスクス笑う声が聞こえる。というか吉松が主に笑っている。お前に笑いのネタを提供した覚えはないぞ。僕は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら視線を落とす。似顔絵の下の方に、小さく文字が書かれていた。
「仕返しだよ」
顔を起こすと、彼女が悪戯っぽい笑みをこちらに向けていた。
僕はあまりの尊さに、顔を背けるしかできなかった。




