〇〇××年五月十日(水)
今日の僕のテンションは高かった。
何故なら、今日は体育があるからだ。
別に僕は体育が好きなわけでもなんでもないし、運動神経なんて下の下だ。自慢じゃないがマラソン大会なんて事前に抜け道を入念に調べてはサボっている。では何が楽しみかといえば……
言うまでもなく、夢咲七海ちゃんの体操服姿を拝むためである!
風になびき陽に輝く綺麗なポニーテールと、それに負けないほどに妖美なうなじ。これらが特に素晴らしい事は前に語った通りだが、体操服に身を包まれた姿も実に健康的でよい。今日日ブルマなどというものはPTAの策略により存在を抹消されているわけだが、だからどうした! そんなものに頼らなくたって、彼女の尊さは霞んだりはしない!
「ななみん、次体育だよ。体操服持ってきた?」
「うん、持ってきたよー」
昼休みの教室では、友人A――確か名前は吉松秋穂だったか――が彼女に話しかけていることが多い。彼女はほら、と体操服の入った袋を差し出していた。
「ななみんはいっつも体操服忘れるんだからー」
「へへ、今日はバレーボールだから! 忘れなかったよ!」
彼女は自慢げに胸を張っている。制服の上からでもよく分かる良い形だ。あ、胸のことあんまり書くと怒られるんだったっけ……いや、だってそういうとこも魅力的だから仕方ない!
そしてそんな彼女の胸を、吉松がガシッとつかみ、
「ここにも二つバレーボールがあるもんねー。うりうりー」
「あ、秋穂っ、くすぐった……!」
「ななみん、また大きくなったんじゃない? ダメだぞー、ちゃんとブラは買い換えないとー」
「だってこれお気に入り……んんっ」
吉松に胸を揉みしだかれながら、彼女は身体をよじらせ色っぽい吐息をついていた。僕を含めたクラス中の男の視線が集まる。
「合わないブラだとポロリといっちゃうかもよー? ぐへへへへ」
おっさんみたいな台詞を吐きながら、吉松はなおも彼女の胸を揉みしだき続ける。彼女はといえば、しばらく「あんっ」とか「んんっ」とかドスケベな声をしばらくあげ続けていたが、
「も、もーっ! 終わり! 終わりだってばあ!」
なんとか吉松の腕を振り切り、顔を真っ赤にして息を荒げながら脱出し、胸の前で両手をクロスさせてガードしていた。
「ちぇー。私より全然良いもの持ってるんだから、少しくらいいいじゃん」
ぶーぶー、と膨れっ面の吉松をよそに、彼女はもう一度「もう!」と咎めて椅子に座りなおした。と同時に、クラスの視線も散り散りになり、昼の喧騒が教室に戻る。しかし、怒っている顔も新鮮で可愛いですなあ。天然記念物に申請したら通らないだろうか?
しかも五時間目は体育だから、もっといいものをこれから見られるわけだ。
僕は今日という一日に感謝しながら、体育に備えて右手で日記を書き、左手でコッペパンを腹いっぱい貪るのだった。
□
「今日の体育は男女別だぞー。男子はサッカーな」
なんでだよおおおおおおおお!!
僕は心の中で叫んだ。それはもうめいっぱい叫んだ。正直声に出したかったけど、体育教師のヤクマン(薬師寺満広の略称)が怖いのでやめた。
女子がバレーで体育館。僕ら男子はグラウンドでサッカー。
彼女の美しい姿が見られないやんけ!
彼女の体操服姿を見た感動をそのまま書き残すためだけに、こっそり胸ポケットにメモ帳とボールペンまで用意したというのに……! おのれヤクマン、この恨み、三万倍にして返してくれようか……!
「あー、女子と別とかつまんねーなー」
と、僕の隣にいた男子の一人が、サッカーボールを蹴りながらそんなことを呟いていた。
「なー。体育っつったら女子の胸が揺れるところを見るもんだろ」
二人組の片割れが、同意するようにボールを蹴り返す。僕は一人で出来もしないリフティングに挑戦しながら、笑顔の陽キャどもの会話を盗み聞きしていた。
「ほら、特にウチのクラスの夢咲七海! あの子可愛いしでっけーよなー」
「こないだ噂で聞いたんだけど、元アイドルらしい」
「あー、中学の頃テレビで見てたわ。なんで辞めちゃったんだろうなー」
僕はボールをこぼしながら、そんなことを聞いていた。事情こそ知っているが、内容が内容だけに勝ち誇りたい気分と後ろめたさがごちゃ混ぜになり、複雑な気分でボールを拾い上げる。どうせヤクマンもよそ見をしているだろうと思い、僕はすぐそばの木陰に隠れてメモ帳を開いた。体育の授業を男女別にしやがったヤクマンの悪しき所業を記録し、後で日記に残すためだ。
と、陽キャの片方がボールを大きく蹴り上げてから、
「彼氏とかいるのかなー」
そんなことをこぼしていた。
「そりゃいるだろ」
もう片方が打ち上がったボールを何食わぬ顔でヘディングしながら、疑問にも返していた。運動ができる奴というのは、どうして雑談しながらでもスポーツができるんだろう。そんな妬みの視線を向けながら、頭の中で一つの疑問がぐるぐると回る。
彼氏とか、いるんだろうか?
断言するが、僕は処女厨じゃないので、彼女が誰と付き合っていて何をしていようと文句を言うつもりはさらさらない。世の中にはアイドルや声優が交際表明をするやいなや、親の仇のように苦情を言う輩がいるが……別にいいじゃないか。推しの幸せこそを最優先にすべきだ。彼女が幸せなら、何だっていいのだと思う。
……が。
……何故、妙にイライラしてしまうのか。
……何故、僕はこんなくだらない話までメモ帳に残しているのだろうか。
自分のやり場のない気持ちにむしゃくしゃして、ボールを思い切り蹴ってみる。
――後ろに飛んで行った。
「おらー! 変なところにボールを蹴った奴は誰だー! 早く取りに行かんか!」
ヤクマンの怒号が飛んできた。僕は慌てて、ボールの飛んで行った方向に走る。僕が蹴り込んでしまったボールは、体育館のそばに走っていた側溝にはまっていた。回収のために体育館に走り寄ったところで、女子の黄色い声が体育館から聞こえてくる。僕は思わず、入り口のドアの隙間から中を覗き込んだ。
「ななみん、いくよー」
「いいよー! いつでもこーい」
中ではちょうど、夢咲七海ちゃんと吉松秋穂がバレーボールを打ち合っているところだった。パァン、と軽快な音が続くのをよそに、僕は無意識の内にメモ帳を取り出す。
「ほっ」
彼女は、放たれたサーブを組んだ両腕で受けていた。その拍子にポニーテールが揺れた。真っ白い体操着と青い短パン、膝まで伸びた黒のハイソックス、小気味いい音を立てるスポーツシューズ。向かいにいる高松も、遠くでトスを繰り返す他の女子たちも、みんな同じ姿をしているのに……彼女の服装だけ妙に健康的かつエロティックで、特別に感じた。天井のライトが彼女一人だけを照らしているような錯覚すら覚える。
僕は手を合わせて崇めていた。僕のダメな運動神経のおかげで、彼女の姿を見ることができるとは。人間万事塞翁が馬。悪いこともあれば良い事もあるのだと古文の授業で聞いたが、なるほど正しいのかもしれないと思った。
と、
「おわっと」
吉松がボールを受け損ねて弾き、ちょうど僕のいる方面まで転がってきていた。当然の如く、吉松はボールを拾うためにこちらへと迫る。なんて余計なことを。……というか、このままでは吉松にバレてしまう!
僕は咄嗟にしゃがみ込み、体育館側から死角になるような位置で息をひそめた。
「今、誰かいたような……?」
吉松がそんなことを呟くのが聞こえた。危ない。ギリギリだった。しかし、近くにいることはバレてしまったかもしれない。これ以上張っていたら、いよいよ見つかるかもしれないだろう。それに、彼女の姿を拝んで激しく尊い気分になれたから十分だ。
……今日の所は、ここらへんで許してやる。
誰に聞かせるでもなくそう台詞を捨ててからメモ帳を閉じ、逃げるようにグラウンドへと戻るのだった。