〇〇××年五月九日(火)
夢咲七海ファンクラブの朝は早い。
なぜなら、夢咲七海ちゃんの朝も早いからである。
彼女は毎朝、犬の散歩をしている。それを僕はたまたま妹にコンビニまでおにぎり買ってこいとパシられた帰りに見かけたのだが、いや、僕のことはどうでもいい。僕はそんな彼女が柴犬のリードを握っている姿を見て思った。
僕も犬になりたい!
トラックに飛び込んで転生すれば果たして犬になれるだろうか、と考えている間に、彼女は歩き去ってしまっていたのだが、彼女のジャージ姿も実に眼福だ。芋くて野暮ったい緑のジャージも、彼女が着るだけで舞台衣装か何かに見えるのだから不思議だ。早起きは三文の徳と言うが、彼女の麗しい姿が見られるなら三億払ってもいい。
八時ちょっとすぎ。朝の登校はといえば、彼女は一人で慎ましやかに歩いている。高校の西門付近にあるコンビニを折れたあたりで、一人で登校中の彼女を見かける。
友達に囲まれて笑っている彼女は愛くるしさと可愛さがハイブリッドで搭載されているかのようだが、一人で道を踏みしめている姿は孤高というか気高い。見ているだけで神々しく、近寄ることを許されない聖域が存在しているかのようだ。僕を含めた大多数は、彼女の姿を見て心が洗われ、学生の朝という人類最強に気怠い時間を甘いものへと変えてくれる。
「ななみん、おっはよー」
「うん、おはようー」
彼女の友人Aと思しき人物に話しかけられた夢咲七海ちゃんは、のんびりとした口調で挨拶を返していたのだが、ちょっと眠そうに間延びしているのがまた趣深い。春はあけぼのとはよく言ったものだ。清少納言の先見の明を僕は高く評価することにした。
時は変わって、朝のHRが始まる少し前の時間。皆が思い思いに小休止を取っているこの時間に、彼女が何をやっているかといえば……。
寝ている。
それはもう幸せそうに寝ている。
どうやら早起きのツケが回ってきているようで、彼女はこのHR前の時間に必ず仮眠を取っている。机に突っ伏して大胆にいくのが彼女の睡眠スタイルのようだが、たまに友人にいたずらされて髪を三つ編みにされたりしている。おい、その尊い存在に勝手に触るな。でも三つ編み姿の彼女がとてもかわいいから今回だけは許す。
とはいえ、彼女の友人たちも彼女を叩き起こそうとはしない。授業中に寝ればいいのに、とは正直思うし、実際そう考えた奴が彼女に訊いたことがあったのだが、
「せっかく頑張っておとーさんとおかーさんが高校に通わせてくれてるんだから、その恩返しはしないと。だから授業は頑張って受けるよ」
とのお言葉を述べていた。聞いたか、世の高校生。これが天より賜った夢咲七海御姫がおっしゃった格言だぞ。今すぐ筆にしたためて掛け軸にして家宝にしたいくらいだ。
彼女はなおも眠り続ける。どんな夢を見ているのかは僕には分からないが、彼女が世界を救う勇者として戦い続けている夢でも、たくさんの羊を無限にモフモフしているだけの夢でもなんでも奥ゆかしいとは思うのだが、どんな夢を見ているか、少しだけ気になった。
そんななごやかな風景が、担任の乱入によって破壊されるわけである。「おらー席つけー」などというやる気のない定型文がクラスに響き渡ると同時、教室中の生徒がバタバタと自分の席に戻っていく。そんな中で、彼女もゆっくりとした所作で顔を起こすのだ。よだれを拭うような仕草をしているように見えるが、あいにく斜め後ろの席だとそれが見えないのが惜しい。絶対可愛いやんけ。いっそのこと役に立たない黒板を鏡にでもしてくれれば彼女のご尊顔を拝見できたのに、と悪態を吐くばかりであった。
僕が教室の設計に多大なる不満を抱いていると、
「……」
彼女が黙ったまま後ろを振り向いた。まだ少し眠そうな顔で、柔らかそうなまぶたが三割くらい閉じかかっている。しかし、そんな彼女と……僕の目が合った。
自惚れや思い違いでなければ、僕に何かを伝えたいように見える。
彼女が僕の方を見ただけで、僕としては身体から魂が抜け落ち昇天しそうになる――例えば、アイドルがライブ中に自分の方に手を振った時の感覚に似ている――のだが、さて、彼女はどうしたのだろうか。
彼女は、鉛筆を持つように右手を握り込み、空を描くようなジェスチャーをした。彼女の口が動く。
「書いてる?」
手の所作といい、そう言っているのだろうということは伝わった。僕はそのまま頷くしかない。僕の肯定を視界でキャッチしたらしい彼女は、笑顔と共に右手でピースサインを作った後、すぐに正面へと向き直った。
尊いかよ。




