〇〇××年五月十五日(月)
快晴。気温は21度。風はそこそこに、湿度も低くカラッとした気持ちの良い一日。
そして、僕の気分もとても晴れやかだった。
今、僕のバッグには、彼女から……夢咲七海ちゃんから貰った弁当が入っている!
夢かと思って定期的にほっぺをつまんでいたのだが、どうやら本当のことらしいということを認識したのは、四時間目に居眠りした拍子にボールペンを掌にぶっ刺し激痛に悲鳴をあげたくなるのを必死にこらえていた時だった。
朝、僕が学校に辿り着いた時に、
「おはよう真岸くん。約束通りおべんと作って来たから食べてね」
と彼女に言われ、キャラものの風呂敷に包まれた弁当箱を受け取ったのだが、彼女の微笑みが天使のそれに見えて、ああここは天国か、では僕は死んでしまったのだな、朝タンスに小指をぶつけたのが死因だろうか、などなどと考えていた。
で、今は昼休みである。
何も変わらない教室。
いつも通りの面々。
でも、今日は違う!何故なら、彼女の弁当があるから!
「ななみーん、ご飯食べよー」
「いいよー」
吉松秋穂に声をかけられた彼女が、机の向きを反転させ、吉松秋穂の席とくっつけていた。その拍子にまたも目が合ったのだが、彼女は小さく微笑みを残したまま首を傾げていた。「食べないの?」と言わんばかりだった。
違うんだ。感動しすぎて箸が動かないんだ。そうだ、記念に写真を撮っておこう。僕はバッグから弁当とスマホを順に取り出し、机に置いた。
そして僕は風呂敷の結び目をほどく。これまたファンシーな長方形の弁当箱の蓋を開けると、まずカラフルなおかずが視界に飛び込んできた。茶色、赤、緑、黄色と実に彩りが良い。まるで彼女の心のキャンパスのようだ。弁当箱の半分を占める白米にはふりかけがかかっていた。僕は一枚、写真に撮った。それからすぐスマホの待ち受けにした。
では……。
と僕は一人で祈り、手を合わせる。箸を握り、真っ先に飛び込んできた黄色……卵焼きを頂こう。
感想は――とても、甘くて、美味しかった。
砂糖と卵自体の甘味がたっぷりと口の中に広がっていく。丁寧に巻かれた卵の中心はほんの少しだけとろりと半熟、じわりじわりと舌の上でにじんでいく感覚がとても楽しい。コンビニ弁当に入っているカッチカチの卵焼きとはまるで別物だ。甘さが口の中で膨らんでいるかのような満足感が、僕の心を満たしていた。
次は肉だ。
生姜焼きのようだが……生姜の匂いがたまらなく食欲をそそる。一口食べてみると、先ほどの卵焼きとは一転、ぴりりと辛いアクセント。ほんの少しだけ唐辛子が使われていた。これが不思議と米によく合う。
続けて野菜。
トマトとほうれんそうだった。食べやすいように小さく切った上で、アルミカップに入れられている。弁当に合わせてやや濃い目に作られた卵や肉を中和させるあっさりな味が、箸休めにぴったりだった。
結論、とても美味しい――と僕は日記に綴った。
彼女が朝から作ってくれたものだと考えると尊さで涙すら出てきそうだ。三ツ星レストランの高級料理などとはワケが違う、愛情と美味しさが両立した料理。毎日食べられる人間はさぞ幸せだろう。将来彼女の旦那さんになる人間が羨ましくて仕方ない。
「真岸はいるかー」
と、担任の声がした。今僕は彼女の弁当を食べているんだから邪魔しないでほしい。とはいえ、ずっと叫ばれると僕としても落ち着かない。僕は渋々立ち上がり、廊下から声を張る担任教師に従い、職員室へと向かった。
□
呼ばれた内容は大したことでは無かった。進路相談のプリントに記入漏れがあったそうだ。そんなことで貴重な昼休みを奪わないでほしい。
問題はその後で、僕が教室に帰ってきた時……事件が起きていた。
僕の机の上にあったはずの弁当が――床に逆さから落ちていたのだ。
「真岸、すまん!」
名前も覚えていないクラスメイトが、僕に向かって頭を下げて手を合わせていた。彼の話によれば、友達と騒いでいた拍子に椅子ごとひっくり返り、ドミノの要領で僕の机も盛大に倒してしまったらしい。当然、机の上に残された弁当も床へと落下、弁当だったものへとジョブチェンジを果たし、今に至る。
「弁償する! いくらだ!?」
クラスメイトはそう言っていたが、僕は首を振って「気にしないで」とだけ返した。これは……この弁当は、いくらで買えるとかそういうものではない。
「ほんとごめんな!」
元のグループの輪に戻っていくクラスメイトを尻目に、僕はしゃがみ込み、床に転落した弁当を見つめる。さすがにこのままにしておくわけにはいかないが……捨ててしまうのは、猛烈な後ろめたさを感じるのだった。ほうれんそうの中に埋もれていた卵焼きをひとつ、拾い上げる。
……。
「待って待って! 食べちゃダメだって!」
思わず口の中に入れようとしたところで、背後から止める声がした。……夢咲七海ちゃんその人だった。
彼女は手にビニール袋を持っており、僕の隣に並ぶようにしゃがむ。落ちているものを拾い上げながら、僕に咎めた。
「お腹壊しちゃうよ!?」
「でも、せっかく作ってもらったのに……」
「事故なんだもん、しょうがないよ」
落ちた食材をあらかた拾い上げ、手際よく床を雑巾で拭いてから、
「食堂行こ? 生ゴミ捨てていいゴミ箱あるから」
空いている方の手で僕の手を引いて、僕はその腕に引かれるように教室を後にした。背後で教室内がざわつくのが分かったが、気にしないことにした。
食堂は、昼休みも終わり際ということで人気も少なくなっていた。彼女は手に持っているビニール袋を、食堂の外にあったゴミ箱に添えるように入れる。
「ごめんね、食べてあげられなくて」
そう言いながらだった。僕は唖然として、口をぽっかりと開けていた。
「ん? どうしたの?」
「いや、なんで謝ってるんだろうって」
僕がごく単純な疑問を口にすると、彼女はさも当たり前だと言いたげな面持ちで、
「いや、食べられるものを捨てなきゃいけないときって、なんかすごく申し訳ない気持ちにならない?」
「あんまり考えたことないけど……」
「うーん……わたしが変なのかな」
変ではない、と思いはするのだが。……いい子過ぎるんだよなあ、ほんとに。
「むしろ僕は夢咲さんに謝りたいよ……」
「どうして?」
「その……弁当、無駄にしちゃって」
僕が彼女から少しだけ目を逸らしながらそう言うと、彼女は少し困ったような顔で苦笑いを浮かべた。
「もしかしてわたしが怒ると思った?」
歯を食いしばりながら、無言で頷く。
「確かに、全部食べてもらえないのは残念だったけど」
彼女はハンカチで手を拭ってから、
「弁当なんてまた作ればいいんだし、気にしないで」
慰めるような声でそう言った。その言葉に少しだけ癒されはしたが、やはりまだ申し訳なさが勝っていた。彼女が心配そうに尋ねる。
「どうしたの? 相談なら聞くよ?」
そんな彼女の穏やかな声色に、少しばかり警戒を解いた僕は、自然と口を開いていた。まるで口が勝手に動いているかのような感覚だった。
「その……すごく嬉しかったんだ。弁当作ってもらってさ。一人で舞い上がって写真なんか撮ってさ」
なにせ女の子に弁当を作ってもらうなんて人生初の経験だったから、どうしても浮かれていた。日記もいつもより筆が乗ったせいか、ずいぶんと時間をかけてしまった気がする。
「急いで食べてしまえば、こんなことにはならなかったのかな、って」
罪を懺悔するかのように僕がそう漏らすと、彼女がくすくす笑う声が聞こえ、僕は顔を上げる。見えたのは、彼女のいつも通りの柔らかい微笑み。……違いと言えば、少しだけ、頬を染めていることだった。
「また作るから」
「え」
「また明日作って持ってくるから。食べてくれる?」
「で、でも、大変じゃない? 一人分多く作るなんて」
彼女はううん、と首を振り、
「真岸くんのために作るなら、全然嫌じゃないから……」
小さく何かを囁いていたような気がして。
僕が訊き返そうとした矢先……予鈴が鳴った。
「あ、五時間目! 行こ、真岸くん!」
彼女は走り出す。僕も慌てて彼女の背中を追った。
――その後の授業は、全く手が付かなかった。