クロと至福。
「ただいま~……」
ずるずると体を引きずるように帰宅する。
「はああ~……っ!」
ここまで吐くのを我慢したため息を思いきり吐き出す。クロが、じっとこちらを見ているのに気付いて、笑って見せた。
「……だーいじょうぶだよ」
大丈夫ではない。新年度に備えての仕事絡みのゴタゴタ。毎年の事と言えば毎年の事だが、毎年、まだ大変さを知らない新人と、去年の事を忘れたベテランがやらかしてくれる。
でも大丈夫だ。
私にはクロがいる。
至福。
超大型犬、という枠すら越えた、子牛ほどの巨大サイズの霊的な犬の腹毛がこんなにも素晴らしいものだとは。
そもそも生物なのかも疑わしいクロ。しかしそのお腹は、がっしりと締まりつつも、たぷっとした適度な弾力を兼ね備えた肉が、てのひらを心地よく跳ね返して得も言われぬランダム感を生み、とりあえず腹毛をさすっているだけで人生を終えてもいい。
だが人は幸福に飽きる生き物だ。
手で撫でているだけでは飽き足らなくなり、くっつけていた頬を動かしてほおずりをする。
ぽわぽわと頬を跳ね返しつつふわふわふさふさでふさふわ。腹毛によるくすぐったさと幸福感が私の口元を自然に緩めさせる。
なんという魅惑の感触。摩擦熱で頬が焦げ落ちても許せる。
「あ、あの、犬飼さん? ほっぺた、どうかしたんですか?」
翌日。頬に大きなガーゼをテープで貼り付けた私の姿に、同僚で後輩の女の子がおどおどと問う。
「ああ、これ……」
うちの霊的な超大型犬に一時間ぐらいほおずりしてたら本当に摩擦熱で頬が焦げました、とか言えるわけがなかった。
クロはなんともなかったのが、せめてもの救いだ。
「ちょっと、ね……」
言葉を濁したら、それからなんかみんなが優しくなって、以前より仕事真面目にするようになって、ちょっとだけ職場の雰囲気が良くなった。
……何か誤解されているような気はするが怖くて聞けない。