クロとお出迎え
「ただいまー」
ただいま。
この十年ほど、基本的に帰宅時の言葉ではなかった言葉だ。友人といる時に席を外した時、戻ってくる時に使う言葉だったから。
一人暮らしの家に帰ってくる時、家には誰もいない。それが当たり前だった。
けれど、今は自然にこの言葉が出る。
クロが、出迎えてくれるからだ。廊下がみっちり埋まりそうな存在感。
改めてでかいが、その尻尾が廊下の幅を考慮して控えめに振られるのを見ると、仕事で疲れた気持ちが瞬時に切り替わる。
機動性重視のローヒールのパンプスを脱いで洗面所で一通り武装を解除すると、ラグを敷いたくつろぎスペースに寝転がって待ってくれているクロに飛び込んだ。
ぼふっ、と受け止めてくれる。嫌そうな顔一つせずに、悠然としたクロ。
この子は、体のサイズに比例しているかのように懐が広い。
うつぶせに胸を押しつけるようにもたれながら、クロの頬に手を伸ばし、もつれた毛に指を差し込んだ。手櫛ですーっと梳かすと、さらさらとした毛が指に吸い付くように絡みついてきて極上の感触だ。
こんな風にこの子に触れていると、何物にも代え難い温もりと同時に、ひどく冷たい感情が心に満ちていく。
私は、こうしていると幸せだ。
けれど、この子にとっての幸せとはなんだろう? 私といる事?
『クロ』は、言ってしまえば得体の知れない存在だ。感情はあるように見えるが、それはそう見えるだけなのかもしれない。
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回る。
と、クロが手の平に鼻面をこすりつけるようにして、舌で指先をぺろりと舐めた。尻尾が大きく振られる。
好き!
思わず床に膝を突いて、ぎゅーっと首筋を抱きしめた。
いきなり動いて驚かせないようになるべく自然な動作で、かつ、強くしすぎないようにしようという程度の理性はあるが、それでも感情が溢れ出るのを抑える事ができない。
腰を落としたクロが、さらに尻尾を激しく振る。その喜びがまた私の喜びになって、首筋に抱きつく腕に愛しさがこもる。
よし。細かい事を考えるのをやめよう。
私は犬が好き。そして私を好き(らしい)霊的な超大型犬がここにいる。
――何を迷う事があろうか。
静かな確信が胸に満ちる。
でも、それはそれとして、クロが少しでも嫌がる素振りを見せたら、過剰なスキンシップはやめようと心に誓った。