クロとの出会い
-このお話は、二十代のお姉さんが霊的な超大型犬をもふもふするだけのお話です。
――ずっと昔から、大型犬を飼いたいと思っていた。
私は、名字から犬飼さんと呼ばれる事が多い。そして、しょっちゅう事情を知らない人に犬を飼っている方の犬飼いだと勘違いされる。そんな名前だが、犬を飼った事はない。
両親は転勤族で、住宅事情からペットを飼う事ができなかった、というのが一番の理由だ。犬を飼っている友人の家に遊びに行く度、羨ましいと思ったのを覚えている。
大学進学を機に一人暮らしをするようになって、もう十年。二十八歳になって職場でもそこそこ頼りにされていると感じる今では、犬を飼える物件に住めるぐらいの給料を貰っている。
ただ、やはり大型犬はハードルが高く、それゆえに憧れなのだ。
お値段もそうだが、やはり運動量。朝も早くから会社に出勤し、しょっちゅう夜も遅くまで仕事をする私に毎日一時間の散歩は無理だ。
そもそも一人暮らしは何かとお金が要るし、病気や怪我で予定外の出費がある事を考えれば、ペットを飼うのは私には荷が重かった。
だから、趣味はペット、それも特に犬を飼っているブログを眺める事。お金もかからないし、時間も選ばないし、何より癒やされる疑似体験。素敵。
そんな私が、明日から冬休みが終わり仕事始めという、どちらかと言うと憂鬱になりがちなタイミングで、戸惑いと共に犬飼いらしい幸せを感じている。
それは、私が力を抜いてもたれかかっているのが、壁でもクッションでもなく、真っ黒でふかふかの毛皮だからだ。
毛皮の持ち主の、超大型犬と目が合う。綺麗な焦げ茶の瞳が、私をじっと見つめている。
いや、超大型犬、という表現すら不適切に思える。一般的に体重四十キロ以上の犬種をそう言う。確かにこの子の体型から判断すると、四十キロ以上は確定だ。正確な体重は分からないが、二百キロを優に越すだろう。犬と言うより子牛だ。超大型犬と呼ばれる犬種は、いずれもそうそうたる顔ぶれだが、それらと比べてなお、頭一つ抜けるのは間違いない。
そんな超大型犬が、家賃の割には広いが、それでも一般的な日本の住宅事情に適合する一人暮らし向けアパートにいて、大人しく私の背もたれになっている。
この犬と出会ったのは一週間と少し前、クリスマス・イブの事だった。
「メリークリスマス!」
実は、記憶が所々飛んでいる、
というか、所々残っている、というのが正しいのだ。
だが、色んな感情がごちゃ混ぜになって、思わず吠えた事はよく覚えている。
あの日の私は酔っ払っていた。今までどんなにお酒を飲んでも記憶をなくした事はないのだけど、あの日ほど悪いお酒を私は知らない。
彼氏に振られた。仕事があったからだ。
クリスマス・イブの当日朝に出社した私に泣きついた同僚と、深々と腰を折って頭を下げた上司を私は切り捨てられなかった。私はただの平の事務だが、一番仕事が早くて確か(部長談)との事で、そこそこの待遇を頂いている。そして昼休みに彼氏にメールをして、返事はすぐに来た。
内容は一言、『別れよう』。
ちょっと待て。
混乱で一分間ほどフリーズした私が復活し、とりあえず電話をかけたが、繋がらない。そしてメールをすると、返事はさっきよりもすぐに来た。
聖夜の前日にメーラーデーモンからプレゼントとは、気が利きすぎていた。
ひどく冷たい涙が頬を伝う。付き合ってまだ一ヶ月だし、相手が熱心だったから付き合ってみた、というぐらいで、それほど思い入れはなかった。はずだった。
だが仮にも彼女に対して、いや、人としてあんまりな仕打ちじゃないだろうか。
一瞬デスクを蹴り飛ばしてそのまま家へ帰宅する電車へ飛び乗ろうかと考えたのだが、それはできなかった。私は嫌に冷静で、一度ぎゅっと目を閉じて涙を止めると、デスクに置かれたボックスティッシュで涙を拭き取り、ポーチから取り出した手鏡でメイクがひどく崩れていないか確認。許容範囲。
この辺の記憶は結構鮮明だ。仕事中の事はよく覚えていない。いつもより早いペースだったような気はする。目の前の作業に集中している間は、他の事を考えないですむ。つまりヤケ仕事。体には良さそうだし職場の体面的にも完璧だ。
だがそんなもので荒みきった心が癒やされるはずもなく、私は聖夜にデート場所に選ぶ人はいないだろう雰囲気の飲み屋で、恐ろしく体に悪そうなペースで酒をあおった。
終電も近づき、そんな客に慣れているはずの飲み屋の店主に止められるに至って、多少冷静さを取り戻した私は店を出た。
電車に、乗った、はずだ。
家の近くの駅を降りて、人が周りにいなくなった所で、泣いた、ような気がする。
確かなのは、その時、目の前に『黒い犬』が現れた事。
それも、巨大な犬だった。民家のブロック塀に肩がこすれそうな巨大な犬。幼い頃牧場見学で見た子牛ほどあるだろうか。サイズが正確かは微妙だが、少なくともスケール感から受ける印象は、大人になっても同じだった。自分より遙かに巨大な生き物と相対する感覚だ。
正しい対応は、今もって分からない。明らかにおかしいサイズの犬だ。猛獣と言ってなんら差し支えはない。どうにか逃げるか、隠れるかして通報する、というのが多分、本当に猛獣と出くわした時の正しい対応だろう。
だが、私はそうしなかった。
立ち止まって。
ゆっくりとしなやかな動きでこちらに歩み寄ってくる犬を見つめ。
「もっふもふー♪」
首筋に抱きついた。思いきり。
そう、思うさまほおずりしたような気がするし、全身余す所なく撫でさすったような気もする。初対面の犬相手に。いや、初対面とか関係ないか。
圧倒的な幸福感!
覚えているのはそれだけだ。他はよく覚えていない。
ただ、無事家に帰る事はできたようで、私はスーツのまま化粧も落とさずに寝ていた。
昨夜出会った超大型犬を枕にして。
クリスマスプレゼントが枕元に置かれている。全国の良い子憧れのシチュエーションだが、私の場合クリスマスプレゼントが枕だった。それもとびきりふかふかの。
そして、混乱したまま目覚めて、絶望的なレベルの二日酔いの頭痛に思考を停止し、とりあえずトイレに行った後、パジャマに着替えてメイクを落とし、布団をきちんと整えて本格的な二度寝を決め込んだ私の枕にされる事を大人しく受け入れた超大型犬。
再び起きて、貴重な休日に寝坊したと思った私がため息と共に日付を確認すると、実はもう夜だった現実。ショックを受けながら枕にしていた大型犬を見て、ふっと腹の底が冷えた。
ずっと、ここにいたのだ。人一人の頭をのせたまま、丸一日。いや、もっと。
何も飲まず、食わず、そして動かず。トイレに行きたそうな素振りも見せない。ただ悠然と寝転がってこちらを見てくる黒い獣。
それが、私と、この霊的な超大型犬の出会いだった。
回想終わり。
一週間と少しで、随分と馴染んだ。
『クロ』という名前まで付けている。いつかペットを飼うならもっと気の利いた名前をつけたいと思っていたのだが、真っ黒なこの子の毛色を見ていると、それが一番しっくり来たので仕方ない。『シロ』とか『ミケ』を安易な名前だと思ってごめんなさい。
クロは、基本、手がかからない。何かを食べたり飲んだりしたいという欲求はないようで、私が食事していても欲しがらない。むしろお腹いっぱいとでも言いたげに、ごろりと寝転がっている。
本当に体重二百キロあったら、この家は危ないような気もするのだが、妙に軽い。重量ではなく、存在が。というか、たまに毛先が透けている。幽霊の一種なのだろうか。そのおかげで、それほど広いとも言えない我が家にこんな超大型犬がいるのに、床が抜けたり家具が壊れたりもしていないのだが。
そして前の感想と矛盾するが、しっかりとした存在感がある。今も背もたれになってくれているようにだ。ふかふかでふわふわでああもう。
もう夜も遅い。寝る準備をして、電気を消した。先程までの贅沢な毛皮枕と比べると、普通の綿の枕カバーに中身はそばがらの枕が頼りなくて仕方ない。
「おやすみ、クロ」
かたわらに、黒い獣。闇の中で、微かな光を反射していた瞳が閉じられて、クロは真っ黒の影になった。私も目を閉じる。
今日も安眠できそうだ。