気象精霊記〜集中豪雨の潰し方
「まずい。もう集中豪雨が始まってるわ……」
現場に到着したあたしの目に、激しい風雨にさらされた地上の様子が飛び込んできた。
あたしが派遣された龍状列島は、今、梅雨と呼ばれる雨期の終盤だ。
龍状列島というのは、北西太平洋上にある弧状列島のこと。北海道を角の生えた龍の頭とすると房総半島が前足で南西諸島が尻尾に見えるので、古くから龍の島──龍状列島と呼ばれている。他にも弓状列島とか龍国列島とかの呼び方もあるけどね。
その龍状列島西部では、すでに連日のように降り続いた雨で地盤がゆるんでいる。いつどこで土砂崩れが起きても、おかしくない状態だ。
厚い雲の下では強い風にあおられて、森が悲鳴を上げている。すでに何本もの大木が倒され、巻き込まれた木が無惨に引き裂かれている。
突然、山奥から地響きが聞こえてきた。直後、山から街に向かってサイレンが鳴り響く。土石流を報せる警報だ。沢に張りめぐらされたワイヤーが、一本でも切れると鳴る簡単な仕組みらしい。
大きな岩を先頭に泥流が下ってくる。それが巨木を呑み込み、太さ三メートルはある幹を真っ二つに折った。その土石流は人家の三〇〇メートル手前で動きを止める。
土石流の脅威は去ったが、下流には別の脅威が迫っていた。河川は氾濫寸前。更に下流では堤防が決壊し、街に泥水が広がっている。
「あらぁ〜。困ったわねぇ」
同行してきたユメミが地上を見て、そんな言葉をもらした。
「ユメミ。すぐに作業を始めるわよ。本部から『集中豪雨による災害を未然に防ぐ』って要請を受けてきたんだから……」
「ええぇ〜。もう手後れだよぉ」
仕事に取りかかろうとしたあたしに、ユメミがそんなことを言ってくれる。
「まだ手後れと決まってないわ!」
「ミリィも往生際が悪いわねぇ。見渡しただけでも五、六か所で土砂崩れが起きてるよぉ。洪水だって起きてるしさぁ。これは完っ璧に手後れだよぉ」
ユメミがダメを押すように、『手後れ』を強調してくれる。
「はぁ〜……。冗談じゃないわ……」
身体中から一気に力が抜けた。ふと我に返ると、あたしは雲に膝を突き、地上を茫然と眺めている。
地上ほどではないけど、雲の上でも強い風が吹き荒れていた。
あたしの服の袖とスカートが、強い風に煽られてバタバタと音を立てている。
下は赤いプリーツスカートだだけど、龍状列島の『神道』の巫女を模した仕事着だもんね。風を受ける面積が大きいんだ。手に持った祓え串も、風に千切られそうなほど暴れている。
あたしよりユメミの方が大変かもしれない。服は面積の大きなドレスだもんね。長いスカートとウェーブがかった髪が、風で激しく波打っている。あれでよく吹き飛ばされないものだわ。
「ユメミ。これまでの被害の状況は、どうなってるのかな?」
一息吐いたところで、あたしはゆっくりと立ち上がった。そして風に乱された髪に、気持ちを落ち着かせるように手櫛を入れる。
ここで座り込んでいた時間は、たぶん三〇秒もないと思う。
「そんなことぉ……。見ての通りよぉ」
ユメミが投げやりな口調で答えてくれた。
しっかりと地上の惨状を見ておきながら、いい性格をしているじゃないの。って……。
「ちょっとぉ〜。この非常時に何をしているのよ!」
ユメミが雲の上にテーブルを置いて、酒ビンを並べていた。
いったい、いつの間に準備したのよ?
「あ、ミリィも飲むぅ?」
これから栓を抜く酒ビンを掲げて、ユメミが誘ってくる。
「今は仕事中よ。片づけなさい!」
「え〜っ? せっかく用意したのにぃ〜。ミリィの意地悪ぅ〜」
あたしの文句に、ユメミが不服そうな顔で非難してきた。
「ミリィとぉ、初めてコンビを組むことになったのよぉ。このうれしさをぉ、もっと共有してくれてもいいと思うんだけどぉ」
「あのね……」
ユメミが潤んだ瞳であたしに訴えかけてくる。そんな表情をされると……。
「わかったわよ。ただし、今は仕事中だからお茶にして」
あたしはユメミの正面に腰を下ろした。すっかりユメミのペースにハマったわね。
「ほ〜い。じゃぁ、お茶に替えるわぁ」
笑顔になったユメミが、虚空にあけた穴に酒ビンを片づけていく。なるほど、ユメミはそうやって物を持ち運んでるのね。
「やっとミリィとコンビが組めて、うれしいわぁ。こうやって二人だけで話すのってぇ、精霊修行をサボってぇ、魔界に温泉旅行に行った時以来だねぇ」
ユメミがうれしそうに話しながら、酒ビンの替わりにティーセットを広げていた。
テーブルの周りには心地よい香りが漂っている。この香りはアンジェリカだ。
「そんなこと忘れたわ。昔の汚点なんて……」
ユメミに愚痴っぽく返す。ユメミ、仕事を忘れてないよね?
そのユメミがあたしの前にカップを置いてくれる。さっそく口に運ぶと、刺激性のある味と香りが口の中に広がった。相変わらず、良い品を選んでるわね。
「ねぇ、ミリィ。あそこで誰かが手を振ってるわぁ。ミリィの知ってる子ぉ?」
ティーカップを持つユメミが、雲の先を指差した。そこではメイド服を着た緑の華奢な精霊が、こちらに向かって元気よく手を振っている。
「このあたりを担当する情報局員だわ。専門は森の精霊だけど……」
彼女の姿を見て、あたしも軽く手を振り返した。その子が駆け寄ってきて、
「やっぱり、ミリィさまでしたね」
と、元気いっぱいの声で話しかけてくる。
「コズエちゃん。いつも元気そうね」
「はい。あたしは、それだけが取り柄ですから」
コズエちゃんが満面の笑みで答えた。そのコズエちゃんが、
「今日はユメミさまがご一緒なのですね」
と言って、ユメミの顔を窺き込む。
「あたしの新しい相棒として、今日付けで北米支局から異動してきたの。担当は水の精霊よ。でも、さすがはコズエちゃんね。情報局員だけに、すでに調査済みかしら?」
「いえいえ、ユメミさまが有名だからですよ。理由が思い出せませんけど……」
あたしの問いかけに、コズエちゃんが明るく答えてくる。
でも、どんな理由で有名なのか、ちょっと気になるわね。
「はじめまして……ですね。ユメミさま。あたし、気象情報局のコズエ・ミモリっていいます。お会いできて光栄です」
コズエちゃんが元気にあいさつして頬を赤らめた。そのコズエちゃんを、
「ねぇ、一緒にお茶しましょぉ。お湯とブランデー、どっちで淹れるぅ?」
と、ユメミがお茶に誘う。
「じゃあ、ブランデーでお願いします」
「……はいっ?」
ブランデーでお茶を淹れる?
コズエちゃんの答えに、あたしの常識がガラガラと音を立てて崩れていく。
ユメミはというと、コズエちゃんの要望に添ってブランデーでお茶を淹れていた。
「はい、どうぞぉ」
「いただきまぁ〜す」
出された琥珀色の液体を、コズエちゃんが美味しそうに飲み始める。
そんな飲み方、いったいどこで教えるのよ?
「そう言えば、ミリィさま。昨日、低気圧の管理が終わったので、本部に戻ったんではなかったですか?」
コズエちゃんが、そんなことを尋ねてきた。
「そうよ。本部に戻ったばかりだったんだけどね。集中豪雨を止めろって要請があったから、すぐに引き返してきたのよ」
非常識な飲み方は見なかったことにしよう。
あたしはコズエちゃんの質問をこれ幸いと、話題を雲の下へと移した。
「それでコズエちゃん。そのための詳しい情報が欲しいんだけど、協力してくれない?」
「この災害を止めていただけるのですか?」
あたしの言葉に、コズエちゃんがテーブルに手を突いて立ち上がった。そして、
「きゃあ〜っ! 本当に止めていただけるんですか? 是非、止めてください。今、低気圧を止めると、前線が五本で止まるんですよ!」
コズエちゃんが黄色い声で迫ってくる。その迫力に、思わずたじろいでしまった。
「あたし、五本にカケてますので、これはもう思いっ切り協力しちゃいます!」
「はぁ……。カケ?」
「実はこのあたりを担当する気象精霊の間で、低気圧に最大何本の前線が付くかでカケをしてるんです。それで一人一枚だけって条件で商品券をカケているんですよ」
あたしの問いかけに、コズエちゃんが声を弾ませて答えてくれる。
「あれ! ちょっと待って? 今、前線の数が五本……なんて言わなかった?」
あたしの脳ミソが、時差を置いて反応した。その質問に、
「はい。言いました」
コズエちゃんがハッキリとした口調で答えてくれる。
「これが最新の気象配置図ですよ。これを見てバッチリ止めちゃってください」
そう言ったコズエちゃんが、背後に立体化した天気図──気象配置図を映し出した。
映像の真ん中に低気圧が置かれている。龍状列島西部、今は瀬戸内海の上空だ。その低気圧の中心から、上下二段に重なった二対の温暖前線と寒冷前線が伸びている。それともう一つ、閉塞前線が低気圧に巻き込まれるように螺旋を描いていた。
この前線は『線』と表現してるけど、具体的には寒気と暖気の境界面だ。膜と表現した方がわかりやすいかな。暖かい空気がこの膜に乗り上げると雨雲が生まれるんだ。
その膜が低気圧に巻きつくように、複雑にからみ合っているんだものね。それで生まれた雨雲が二段三段と重なって雨を降らせていれば、そりゃあ地上に激しい雨が降るのも当然だ。洒落にならない状態になってる。
「なんてムチャクチャな……」
「ここまで前線が重なる現象は、滅多に見られませんよ。すごいと思いませんか?」
「うん。興味をそそられるわぁ」
「そこで感心するんじゃない!」
状況を面白がる二人に向かって、あたしはツッコミを入れた。テーブルの下でもユメミの脛を狙って蹴りを入れてやる。爪先が届かなくて空振りしたけどね。
「地上では雨が降り始めてから、すでに五〇時間が経過しました。降り始めからの総雨量は、少なくとも五〇〇ミリを超えています。そのうちの三〇〇ミリ近くが、至近の三時間に集中しちゃってます」
空中に新たな画面が投じられ、そこに地上の惨事が映される。
でも、コズエちゃん。それを緊張感のカケラもない笑顔で解説しないで!
「ですけど、この災害で一番の被害を与えているのは暴風ですね。この低気圧の最大風速は、並木が次々に折れる秒速三六メートル。中型で強い台風に匹敵する、強烈な低気圧なんです」
「台風との違いは、前線があるかないかってところだけね……」
あたしはテーブルの上で指を組んで、映像を喰い入るように覗き込んだ。
もっとも、前線があること自体が台風とは異質なことを物語っている。
台風のエネルギー源は、大気中にある熱だ。それに対して温帯低気圧は前線がエネルギーの供給源。それが何本もあるってことは、それだけ破壊力が大きいことを意味する。
「本部はこの低気圧を止めろと言っているのよね?」
「うん。でもぉ、前線が複雑にからまってるわぁ。これは、かなり厄介よぉ」
気象配置図に映された低気圧を見ながら、ユメミがそう零した。
とにかく前線という膜が幾重にも折りたたまれている。これをどうにかするには、この複雑なパズルを解く必要がある。
「あのさぁ。今回の本部からの要請はぁ、なかったぁ〜ってことにしないぃ?」
「はぁ〜……?」
突然、ユメミが言い出した提案に、素っ頓狂な声が出てしまった。
「気象精霊の本分はぁ、気象管理を通しての生態環境の保全でしょぉ。森の再生力を維持するためにぃ、三〇年に一回は森の老廃物ぅ──つまり有機堆積物を取り除くためにぃ、大雨で洗い流すかぁ、山火事で焼き払うかするでしょぉ。この豪雨はぁ、それにちょうど良い強さだよぉ」
「何をバカなことを言っているのよ。本部から要請があったってことは、緊急事態なのよ。計画して起こした災害じゃないの。それなのに……」
そこまで言って、あたしはゴクンと息を呑んだ。
「修行時代、あれだけ正義感に強くて大胆果敢だったユメミが、いつから後ろ向きになったのよ?」
「後ろ向きじゃないよぉ」
あたしのぶつけた怒りを、ユメミがあっさりと否定する。
「雨を止めるのがぁ、わずらわしいだけよぉ」
「そういえばユメミには、気の向かないことは放置しまくる悪いクセがあったわね。会うのが久々すぎたから、すっかり忘れてたわ。想い出補正で……」
うわぁ〜、イライラがつのってくる!
「ちょっとユメミ。聞いてるの?」
語気を荒らげてユメミに詰め寄った。だけど、ユメミはあたしを無視してお茶を注ぎ足している。それもまったく暢気な雰囲気で……。
「そうですよ、ユメミさま! 止めていただかないと、あたしがカケに負けちゃいます」
「そ、そういう問題じゃぁ……ないでしょ!」
コズエちゃんの一言で、怒る気が消え失せていく。
「あたしも止めるの……やめようかな……」
「や〜ん。止めてくださいよぉ〜!」
全身をくねらせて、コズエちゃんが駄々をこねる。
やめて。余計にやる気が失せていくから……。
「雲の上は風が強いけど、いいお天気ねぇ。あぁ〜、お茶が美味しい」
ユメミは太平楽にくつろいでいた。あたしたちを完全に無視して……。
飲んでいるのは、ブランデーで淹れたお茶だ。
「ユメミ〜。下でひどい災害が起きてるのに、よくくつろげるわね」
文句をぶつけて、雲の下を指差した。それでユメミが顔を向けてくる。
「ミリィ。杓子定規はいけないわぁ。予定がぁ、ちょ〜っとだけ変わったと思えばいいのよぉ。もっと大らかに考えられないのぉ?」
「大らかにも限度があるわよ」
ユメミがあたしをジッと見て口を開きかける。だけど言葉を呑んだのかな? 代わりにフウと溜め息を漏らした。
「わかったわよぉ。豪雨を止めればいいんでしょぉ」
そう言って、ユメミが持っていたティーカップをテーブルに戻した。そして、
「ところでさぁ……」
視線をあたしに向けて、次の言葉を切り出してくる。
「あたしたちぃ、何のために災害を防ぐのぉ?」
「あ……。すっかり忘れてた!」
あたしは端末手帳を出して、書類受けを開いた。
支局長のイツミさんから「火急の事態」と言われて、事情も聞かずに本部を飛び出したんだ。詳細はいつものように端末手帳に送られてきている。それを空中に投じた。
「災害計画書……ですか?」
横からコズエちゃんが覗き込んできた。
「なんて書かれてるのぉ?」
「ちょっと待って。今、読むわね」
そう断りながら、書類を拡大してユメミにも見えるように向きを変える。
「『災害計画書。作成者ペイレネ。
梅雨も後半に入り、いよいよ集中豪雨の似合う季節となりました。そこで、今年も以下に記した災害を、景気良く起こしたいと思います。
記、七月某日、龍状列島西部、災害規模は五〇年級』って……。
キャ、キャサリンさん……」
読むのがイヤになってきた。ちなみに書類には『不許可』と判が捺されてる。
「作成者のペイレネってぇ、どんな精霊なのぉ?」
「魔界出身の災害オタクよ」
空中に浮く書類を見ながら、ユメミの質問に答える。
「公式名はキャサリン・レヴィアタン・ペイレネ・コブライナ。水の高級精霊で、世間的には大精霊と呼ばれるベテランね」
「へぇ〜」
あたしの話を聞きながら、ユメミがカップを口に運んだ。
「『集中豪雨の似合う……』ってぇ、面白い表現だねぇ」
「妙なところに感心しないで」
ユメミの言葉に、思わずぼやいた。
「キャサリンさんは独自の災害の美学を追い求める、気象室の問題児なの。台風に前線をくっつけて偽装温帯低気圧化させたり、風に雨雲を放り込んで豪雨災害を起こしたり、もうやり放題だから迷惑なのよねぇ」
ぼやくあたしの脳裏に、キャサリンさんにやられた数々の記憶がよみがえってきた。今回もそのキャサリンさんが相手かと思うと、うんざりしてくるわね。
「ミリィ。この災害計画書からぁ、何がわかるのかなぁ?」
今も計画書を見ながら、ユメミがそんなことを尋ねてくる。
「よくあることよ。キャサリンさんが本部に計画書を出して、承認を得ないまま災害を起こしたんでしょ。それで、書類を受け取った本部では承認できないから、あたしたちに止めるように要請してきた……と。これまでに何度も前科のある話だわ」
「でもぉ、悪いことはしてないわよねぇ。筋は通してるしぃ……」
「そうなのよ……。そこが大問題なのよ」
気持ちを落ち着けるために、ティーカップに手を伸ばした。
「あたしたち上級精霊には、計画書さえ出せば自由に行動を起こせる裁量権があるものね。さすがにキャサリンさんみたいに、それで災害を起こすのは少数派だけど……」
お茶を飲みながら、不満を漏らした。
たしかにユメミが言ったように、表向きは筋は通している。でも、キャサリンさんが計画書を出すと、誰かに緊急出動要請がかかることがやたら多いのよね。
ホント、周りの迷惑だわ。
そんなキャサリンさんの書いた書類を、ユメミがジッと見ている。
災害計画書からは、他にも読み取れることはたくさんある。
まず災害規模として書かれた五〇年級。これは統計的に五〇年に一度の割合で起こる災害という意味だ。
作成者として書かれたペイレネという称号からも、いろいろなことがわかる。
精霊世界には公的な職に就くために、文官資格というものがある。この資格を取った時か公的な機関に採用される時に、個人を特定するための称号が与えられるんだ。この称号には原則として同じものがないため、内部文書には称号だけを記す決まりになっている。
ちなみに「原則として」と断ったのは、まれに同じ称号があるからだ。
この理由は単純。称号を発行する機関が一つじゃないから。大きなものだけで天上界、魔界、妖精界にあって互いに別の機関が発行した称号まで管理してないからね。それで称号が重複する事態が起こるんだ。
それと、その称号を本名の名前と名字の間に挿んだのが公式名だ。
あたしは妖精界の機関から『森の精霊』を意味するオレアノという称号をもらっている。これを本名の間に挿んでミリィ・オレアノ・ヤクモとしたのが公式名だ。内部文書以外の書類は、すべてこの公式名で署名する約束になっている。
同じようにユメミも妖精界から『泉の精霊』という意味のナイアスの称号をもらって、公式名をユメミ・ナイアス・スヒチミ・ウガイアと表している。ちなみにユメミの本名はユメミ・スヒチミ。最後に付いたウガイアは、ウガイア王家の屋号だ。王家のお姫さまなんだよね。
そして、問題のキャサリンさんだけど……。実は称号を二つも持つ大物なんだ。最初の称号ペイレネは、妖精界から与えられた『聖なる泉の精霊』という意味。そしてもう一つのレヴィアタンは、魔界から与えられた『海の大循環を司る精霊』という意味だ。働きを認められて、勲章のような意味合いで与えられた称号なのよね。
最後に話を聞いてるコズエちゃんにもネムセルという称号がある。これは『木立の女神』という意味。この子も立派な上級精霊なのよね。
「ところでさぁ、ミリィ。これを書いたキャサリンさんって精霊、今ごろ、どこにいるのかなぁ?」
ようやく計画書から視線をはずして、ユメミがそんなことを聞いてきた。
「たぶん、この近くにいるはずよ。きっと災害の様子がよく見える場所にいると思うわ」
質問に答えながら、あたしは空を見上げた。
そうだよね。キャサリンさんが、どこか近くにいるのは間違いないんだ。でも、いったいどこに……。
「その精霊に会ってぇ、お話ししたいわぁ」
「話し合って、説得でもするの?」
と聞き返しながら、視線をユメミに戻した。
「違うわぁ。その精霊に会ってぇ、お天気の動かし方についてお話ししてみたいのぉ。『どうすれば低気圧を変形合体させられるのか』とかぁ、『いかに多くの前線を付けるか』とかねぇ。あたしも興味あるわぁ」
「そんなもの、後まわしにしなさいっ!」
ボケるユメミに、思いっ切りツッコんでやった。
ユメミが「冗談よぉ」と言ってるけど、その不満そうな顔はマジなんじゃ?
「まあ、いいわ。原因はわかったんだから、あとはこの雨を止めるだけね」
あたしは残ったお茶を飲み干して、作業を始めようとした。それに応じるように、ユメミも立ち上がる。そのユメミが、
「勝手に止めるのはダメよぉ。その前にぃ、是非ともキャサリンさんと会わなくちゃいけないわぁ」
なんて言ってきたんだ。
「どうしてよ? 事態は急を擁してるのよ」
「こちらが止めようとしてもぉ、キャサリンさんは災害を続けようとするでしょぉ。相反する力が働いたらぁ、もぉっと悪い事態を招くかもしれないわぁ」
「たしかに……一理あるわね……」
言われてみれば、その通りだ。迂闊に動くのは危険かもしれない。だけど、
「じゃあ、早くキャサリンさんを見つけないと……」
また空を見上げて、キャサリンさんの姿を求めた。
キャサリンさんはこの低気圧を操っている。となれば、必ず近くにいるはずだ。
だけど、全体を見渡せる場所なのか、災害の見栄えが良い場所なのか、居場所を絞り込むのは難しい。手伝いの下級精霊たちに現場を撮影させて、安全なところから高みの見物を決め込んでいる可能性もある。
となると捜索範囲はムチャクチャ広い。闇雲に探しても見つけるのは至難の業だ。
「そぉだぁ。ミリィ、宴会やろぉ」
「…………はぁ〜?」
突然、変なことを言い出したユメミが、テーブルに酒ビンを並べ始めた。
いったい何を始めようとしてるの?
「いっぱい持ってきてるのよぉ。ウィスキーでしょぉ。ブランデーでしょぉ。ウォッカでしょぉ。ジンでしょぉ。発泡羊乳酒でしょぉ。ワインでしょぉ。ビールでしょぉ。あぁ、牛乳酒もあったわぁ。リキュールもねぇ、ベルモット、キュラソー、ペパーミント、パスティスなんかを取りそろえてあるのぉ」
虚空に穴をあけたユメミが、そこから楽しそうに酒ビンを引っ張り出してきた。やがてテーブルが酒ビンで埋め尽くされると、雲の上にも並べられていく。
「ちょ、ちょ、ちょっと〜、そんなにお酒を出してどうするのよ!」
あまりの脈絡のなさに、すっかり反応が遅れた。なんとかユメミの腕をつかんで、酒ビンを並べるのをやめさせる。そのあたしに、
「決まってるじゃないのぉ。このあたりの気象精霊を招いてぇ。大宴会!」
ユメミが満面の笑みで答えてくれた。
「だから、なんで宴会になるのよ?」
「ミリィは『お酒』が嫌いなのぉ?」
ユメミが白い歯を見せて聞き返してくる。そんなユメミに、
「……大好き……だけど………」
あたしは完全に返す言葉を失っていた。そんなあたしを無視するように、
「気象精霊ってぇ、お酒の大好きな御仁が多いでしょぉ。ここで宴会を始めたらぁ、すぐに情報が広まって集まってくるわよぉ」
ユメミがなおも虚空に腕を突っ込んで、酒ビンを出し続けている。
いったい、どれくらいのお酒を持ってきたのだろうか?
「だからぁ、それに何の意味があるの?」
「情報を聞きつけてぇ、きっとキャサリンさんって精霊も来ると思うのよぉ」
要するに誘い出そうってわけね。かなり強引な考えだけど。
「ユメミの考えはわかったわ。でも、あたしたちが一緒になって酔っぱらったら、誰が災害を止めるの?」
あたしは腰に手を当てて文句を言った。それでユメミがピタッと手を止める。
「大丈夫ぅ。あたしぃ、滅多に酔わないもぉ〜ん」
「そういう問題じゃ……。って言うか、真顔で言わないでよ……」
ユメミの態度に、頭がガクンと落ちてしまう。
そんなあたしの注意が、横で静かにしているコズエちゃんに向かった。コズエちゃんは手に小型の端末通信機を持って、何かを書いている。
「『【拡散希望】新任のユメミさまが宴会の準備してるよ』……」
精霊世界のミニ掲示板に投稿しようとしてるんだ。
「『お酒の数がすごいの。場所は』……」
「あんたも、ユメミの話に乗っかるなぁ〜!」
──ばっちぃぃぃ〜んっ
「あああ、途中で押しちゃったぁ〜…………」
あたしは持っていた祓え串をハリセンに転じて、コズエちゃんを薙ぐようにたたいた。
だけど、コズエちゃんもいい根性してるわね。イスから転げ落ちながらも端末を離さず、追加情報を書こうとしている。
『コズエの発信履歴だと、このあたりのはずよ』
『うわぁ〜。本当だぁ!』
「…………うそ……」
あたしがハリセンを祓え串に戻すよりも早く、酒ビンを持った精霊たちがやってきていた。コズエちゃんはまだミニ掲示板に場所を書いてないのに、もう場所を特定したの?
「いらっしゃぁ〜いぃ。さあさあ、どんどん飲んでぇ」
ユメミがやってきた精霊たちを迎える。コズエちゃんと同じ情報局員だ。あの子たちには宴会なんて耳寄り情報は、場所がわからなくても簡単に特定できちゃうんだね。
それに続いて普段は気象操作を手伝ってくれる下級精霊たちも、お酒持参でやってきた。
これで間違いなく、すぐにここは大宴会場になるわ。
おそるべし。情報化社会。
「……あっ」
あきれて天を仰いだあたしの目に、空に浮く精霊の姿が飛び込んできた。シルエットからキャサリンさんではないけど、あたしたちと同じ東亜支局の上級精霊だ。
彼女がいるのは、ずっと東の空。この雲から四〇〇〇メートルは上空だ。
そこで何をしているのだろう。遠目にはその場に浮かんでいるだけに見える。
「ノーラ……」
彼女の名前が口に出た。と同時に、あたしは雲を蹴って上空へ向かっている。
「ミリィ。飲まないのぉ〜?」
飛び去るあたしに、ユメミが酒ビンをかざして呼びかけてきた。でも、今は無視だ。
あたしは東を向いたまま、一気に急上昇した。
「ノーラ。何してるの?」
そこにいた精霊に近づいて、ちょっと明るめに声をかけた。
このノーラはキャサリンさんの愛弟子であり、一緒に仕事をする相棒だ。
公式名はノーラ・マギエル・ディアマヌンテ。生粋の純妖精で、透明な二枚翅と先が瘤になった触角を持っている。少し前まではコズエちゃんと同じ情報局員だったけど、キャサリンさんがノーラの持つ才能を認めて気象室へ引っ張ってきたという逸材だ。
「あ、ミリィさん」
ノーラが顔を向けてきた。ノーラの長い髪がふわっと宙を舞う。
「うちは今、雲の動きを記録してますのね」
ノーラの言葉には、白妖界の訛りが残っていた。
そのノーラは小型カメラを下に向けている。被写体は眼下にある雲だ。
「その撮影は、勉強用なの?」
「はいですのね。キャサリンさまの気象操作には、学ぶところがたくさんありますのね」
あたしの確認に、ノーラが声を弾ませながら答えた。今は学ぶことが楽しいのだろう。ただ、学ぶべき相手を間違えている気がするけど……。
その時、カメラのランプがチカチカと点滅を始めた。それに気づいたノーラがポケットから予備の記録カードを出して、カメラに入っていたものと交換する。
精霊の服にあるポケットは、亜空間とつながった物入れだ。
「ところで、ノーラ。キャサリンさんがどこにいるか知らない?」
「キャサリンさまですか? 知ってますのね」
ノーラが撮影に戻りながら、間延びした声で答えてくる。
「さっき、『宴会に行ってくる』と言って、どこかへ行っちゃいましたのね」
「宴会?」
ノーラの答えに、頬がぴくっと動いた。そんなあたしの心を知らず、
「どこかで宴会でもやってるんですかねぇ? うちは記録が最優先ですので、どうでもいいですのね」
なんて言ってくれる。
「まさか、一緒にいたの?」
「はいですの。さっきまで一緒にいましたのね」
「しまったぁ〜っ。入れ違いかぁ〜!」
思わず頭を抱えてしまった。
まさか見えるところに浮いていたどころか、途中ですれ違ってたなんて……。
それもユメミの作戦通り、宴会に誘い出されてた?
これじゃ単なる見落としを通り越して、ただのおマヌケだわ。
「え〜いっ! 戻るわよ」
あたしはノーラの手を引いて、急いで引き返した。
「あ〜ん。うちはまだ撮影中ですのね〜……」
引かれるノーラが文句を言うけど、今は相手をしてる場合じゃないわ。
先ほどまでいた雲に戻ると、そこは大勢の精霊が集まって大宴会になっていた。
会場の中央は、ユメミの出したテーブルだ。だけど、そこにユメミはいない。会場には空きビンが山のように積まれていて、ユメミはそこに座っていたんだ。
「ミリィ、大変だわぁ。あたしの持ってきたお酒がぁ、もう残ってないのぉ」
戻ってきたあたしに気づいて、ユメミがたわけたことを口走った。
宴会に集まってるのは、いったい何百人? まさか千は超えてないよね?
これではユメミの持ってきたお酒程度では、あっという間に消費されただろう。
もっとも、お酒持参で集まってきた精霊たちが多いみたいだから、不足の事態は避けられてるみたいだけど……。
「世の中にはヒマな精霊が多かったのねぇ」
空きビンの山の上で、ユメミがしみじみと零した。そのユメミはブランデーをジョッキに注ぎながら、ぐびぐびと豪快に飲んでいる。
「ユメミ。あんたの作戦は大失敗だわ」
「うん。まさか、こんなにも大勢の精霊たちが、集まるとは思わなかったわぁ」
ジョッキを空にしたユメミが、ふうっと溜め息を漏らす。
「やっぱりぃ、お酒はビンじゃなくてぇ、樽で用意するべきだったのねぇ」
「論点が違ぁ〜うっ!」
ユメミのトボケた発言に、反射的に怒鳴ってしまった。
「何よぉ。ミリィはぁ、他に何が失敗だって言うのぉ?」
ユメミが口をとがらせて聞いてきた。本気で失敗に気づいてないらしい。
「失敗は集まってきた精霊の数よ。この中から、どうやってキャサリンさんを捜すの?」
『策士、策に溺れる』。『木を隠すには森』のたとえ通り、集まってきた大勢の精霊たちのために、余計にキャサリンさんの居場所がわからなくなってる。
捜している間にも、地上では豪雨が続いているんだ。これでは意味もなく時間を無駄にするだけ。まさかユメミ、肝心の仕事まで忘れてないでしょうね?
「見つけるのなんて簡単だよぉ」
あたしとは対照的に、ユメミにあせりはなかった。まだ策を持っているらしい。
「世の中にはカクテル・パーティ効果っていうのがあってねぇ、どんなに騒がしくてもぉ、自分の名前を呼ばれるとぉ、だぁ〜いたい気がつくものなのよぉ」
それがユメミの秘策らしい。って、カクテル……なんだって?
「お望みならぁ、試してみようかぁ?」
そう悪戯っぽく言うと、ユメミがその場でゆっくりと立ち上がった。そして、
「キャサリンさ〜ん。キャサリン・レヴィアタン・ペイレネ・コブライナさ〜ん。お客さんですよぉ〜!」
ユメミが大騒ぎの会場に向かって、大声で呼びかけた。
「あのねぇ〜……」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、全身から力が抜けた。それで見つかるんだったら、誰も苦労はしないわ。こんな大ボケ娘は無視して、あっちから徹底的に……。
「は〜い。お呼び出し、恐れ入りますわ!」
捜索を始めようとしたあたしの後ろから、声が返ってきた。
「……じょ、冗談……でしょ……」
「ほら、見つかったわぁ。簡単でしょぉ」
ユメミが勝ち誇った顔で言ってくれる。
でも、何か間違ってる。こんないい加減な方法で見つかっていいの?
「キャ、キャサリンさん……」
近づいてくる大精霊を指差したまま、あたしは固まってしまった。
キャサリンさんは青いドレスで身を包んでいた。金色の髪に青空のような色の瞳をした、まるで女王さまのような恰好をしている。通称『女帝キャサリン』の登場だ。
それにしても称号の一つ──レヴィアタンに渦巻きの意味があるからって、金色の髪を縦ロールにしなくても……ねぇ。
ちなみにキャサリンさんの身長は、あたしよりも頭ひとつ分は高い。
「あら。お客というのはノーラと……、茶髪巫女……でしたの?」
キャサリンさんが目をわざとらしく細めて、あたしたちを見てきた。
だけどさ。不機嫌でも、あたしを茶髪巫女だなんて呼ばないで欲しいわね。あたしの髪の色は亜麻色。茶色よりも金色に近いんだからね。
「あのぉ。あたしもお客なんですけどぉ」
空きビンの山から降りてきたユメミが、あたしの横に立って自分を指差す。
「三人ですか。それで、どのようなご用件ですの?」
腰に手を当てたキャサリンさんが、高圧的な態度で聞いてくる。それに、
「キャサリンさま。ミリィさんがいると態度が冷たいですのね」
と、ノーラが困った顔で零した。
一応、キャサリンさんの名誉のために言っておくけど。普段のキャサリンさんは大精霊とは思えないほど気さくで、人当たりも面倒見も良い精霊なんだ。そのせいもあって、熱心なキャサリンさん信派が大勢いる。ノーラも、そんな信派の一人だ。
だけど、どういうわけかあたしに対しては、冷たい態度を取ってくれるのよねぇ。なぜか知らないけど……。
「お楽しみのところ大変に申し訳ないのですがぁ。キャサリンさんにぃ、下で起きてる豪雨を止めていただきたいんですぅ」
ユメミが両手を合わせて、丁寧な口調で語り始めた。
それにしてもドレス姿の二人が対峙するというのは、なんとも違和感のある光景だ。現場にいる気象精霊の多くは、動きやすい恰好をしてるもんね。
そのせいもあるのか、近くにいた精霊たちがこちらに注目し始めている。
「大至急なんですけどぉ、お願いできませんかぁ?」
「お断りしますわ」
ユメミのお願いを、キャサリンさんがあっさりと拒否した。
「あのぉ。止めていただけないとぉ、困るんですけどぉ」
「あら、何が困るのかしら? その理由をお聞かせ願いますわ」
繰り返しお願いするユメミに、キャサリンさんが理由を尋ねてくる。
「えっとぉ、イツミさんからの要請なんですぅ。ここに証拠がありますよぉ」
そう言ったユメミが、あたしに先ほどの書類を見せるように目線で訴えてきた。それを受けて、端末手帳から『不許可』と判を捺された書類を空中に投じる。
「まったく理由になってませんわ」
キャサリンさんが短く言い捨てた。そして、
「わたくしは自由な活動を認められた上級精霊ですのよ。活動を制限された天使階級でも一般の精霊でもありませんわ。そのわたくしに命令するとおっしゃるのでしたら、まず本部からの正式な発令書をお見せなさい。話はそれからです」
と言ってくる。
それを聞かされたユメミは黙っていた。与えられた権限を盾にされると、さすがにこれ以上のお願いは難しくなってしまう。
それを知ってか知らずかキャサリンさんが、
「ご安心なさい。あと一六時間も経ちましたら止めて差し上げますわ」
なんてことを言ってきたんだ。
それって、低気圧が弱くなるまで待てって意味じゃないの。
たっぷりと災害を楽しんでからってこと? 冗談じゃないわ。
「それでは遅いんですよぉ」
キャサリンさんの提案は、ユメミも受け容れられないようだ。そのユメミが、
「これは仕方ないわぁ。あたしたちだけで止めるしかないわねぇ」
すぐにそんな結論を出してくる。あたしも同じ意見だ。
「相変わらず口調の割に決断は早いわね。で、どこから手を着けるの?」
あたしは低気圧に顔を向けて、ユメミに方策を尋ねた。
止めるとは決めたけど、正直言って、この豪雨を止める自信はない。
低気圧にいくつもの前線が巻きついて、複雑な構造になってるんだ。こんなに複雑な低気圧なんて、これまでに扱ったことがないもんね。あたしには何をすればいいのか、見当すら付けられない。
「お〜っほっほっほっ。あなたたちに止められるかしら?」
心を見透かされたかな? キャサリンさんが高笑いしてくれる。
悔しいけど、言い返せない自分を呪うわ。
「大丈夫よぉ。止める方法ならぁ、ちゃ〜んと考えてあるわぁ」
不安を覚えるあたしとは対照的に、ユメミは自信に満ちていた。
「これはあたし一人で十分だわぁ。ミリィは見学しててねぇ」
「あら、お一人で止められますの?」
キャサリンさんが小馬鹿にするような口ぶりで、ユメミを挑発してくる。
「そぉよぉ。だからキャサリンさぁん、邪魔しないでねぇ」
「よろしいですわ。そこまでおっしゃるのでしたら、お手並み、拝見いたしますわ」
キャサリンさんが腕を組んで、ユメミを見下すように言ってきた。あたしたち若造には豪雨は止められないと、高をくくってる感じだ。
そんなキャサリンさんの前を通って、ユメミが操作しやすい場所へと歩いていく。
その様子を見ている下級精霊たちの中から、
『あの精霊、北米支局にいたユメミさまじゃないのか?』
『ホントだわ。ひょっとして東亜支局に移ってこられたのかしら?』
なんて声が聞こえてきた。どうやらユメミを知っている精霊がいたらしい。
『ユメミさまは優秀すぎたために、北米支局の上層部が放出を謀ったってウワサよ』
『あ、あたしも知ってますぅ。このままでは自分たちの地位が危なくなるとかでぇ、沙漠の管理なんていう閑職をさせられてたって話ですわぁ』
『うわぁ〜。非道い話』
『でもさ。その沙漠を熱帯雨林に変えるとか言って、この惑星の大気循環をいじったことがあるらしいぞ』
『あったなぁ、そんな話。でも、沙漠に雨を降らせても洪水になるだけだから、運命室と協力して地上人に農地を作らせる作戦に変えたって聞いてるけど……』
「な、なんですって?」
下級精霊たちの話を聞いて、キャサリンさんが頬を引き攣らせた。
ユメミをあたしと同じ若造と見下していたもんね。そのキャサリンさんがユメミの評判を聞いて、どこかあせりを感じたらしい。
「じゃあ。始めるわよぉ」
早くもウワサの的となったユメミが、手を大きく振って開始を宣言した。
ユメミが南を向く。そして胸の前で手を合わせて、精神集中を始めた。そのユメミの身体から霊力があふれ出してくる。
「すごいですの。ユメミさんの周りがゆがんでますのね」
ノーラがカメラを構えて、ユメミを撮っていた。技術を盗もうとしてるのかな?
だけど空間がゆがんで見えるってことは、かなり大きなエネルギーを使うみたいね。
「そうはさせませんわ!」
いきなりキャサリンさんが、ユメミを羽交い締めにした。さっきの約束は破棄だ。
「あぁ〜、何するのよぉ〜?」
「ここまで育て上げた低気圧を、そうそう壊されて堪るものですか!」
やっぱり、実力で止めてきたわね。
「もぉ、邪魔しないでよぉ!」
──ばふっ!
不意にユメミが、キャサリンさんの顔に軽い霊光弾を浴びせた。
それでゆるんだキャサリンさんの腕から、ユメミがするっと逃れて離れていく。
「ユメミ。キャサリンさんはあたしに任せて。あんたは豪雨を止めることに集中して!」
あたしは祓え串から転じさせた錫杖を構えて、キャサリンさんに迫った。
「天誅〜!」
大声を張り上げて錫杖を振り下ろした。目標はキャサリンさんの脳天だ。
「うわっ。危ないですわ!」
キャサリンさんが右手を出して、錫杖を軽く受け流してしまった。
三五〇〇年も生きた大精霊だもんね。咄嗟の反応が……というより、声を上げて突進したあたしがバカだったのね。
空振りしたおかげで体制が崩れ、前にのめったまま片足でケンケンしている。そこへ、
「迎撃の二・〇×一〇の一五乗ジュールですわ!」
「きゃんっ!」
背後から霊光弾が浴びせられた。その衝撃に弾かれて、あっと言う間に成層圏のはるか上だ。
これが火山だったら、溶岩を三憶トンも吐き出すほどの高エネルギーだものね。
「いったぁ〜い!」
あたしは背中を手で押さえながら戻った。
もっとも、高エネルギーとは言っても霊光弾は純粋な光の塊。強い輝きによる光の圧力で弾かれただけだ。位相や波長、更には振動の向きまでそろえて、破壊力を三〇〇万倍も強くしたレーザーとは違う。
とは言うものの、M七・〇の地震並みのエネルギーを喰らったら……。
冗談抜きに痛いわね。その程度かってツッコまれそうだけど……。
「この愚か者! わたくしに一撃見舞おうなんて、三〇〇〇年早いですわ」
キャサリンさんが羽扇子で口許を隠しながら、見下すように言ってくれる。
「調子に乗らないで!」
霊力を錫杖の先に集めた。それでできた霊光弾を、振りまわすようにして撃ち出す。
「反撃の二・九×一〇の一八乗ジュール!」
「きゃあ〜っ」
大口をたたいたキャサリンさんが、まともに霊光弾を喰らった。
石炭一億トンを一気に燃やしたぐらいの爆発だもんね。霊光弾の四散でできた黒煙は、ものすごい大きさだ。
「あ、あれぇ? 当たっちゃった……」
これは予想外だった。まさかキャサリンさんに直撃するなんて……。
一発目はよけられると思って、すでに二発目を用意していた。だけど、思わぬできごとに、行き場を失っている。せっかく生み出したのに、錫杖の先でジュワ〜ッと音を出して蒸発中。霊光弾は鮮度が命だ。
『あそこで戦ってるのは、キャサリンさまとミリィさまではないか?』
『なんとっ。あのキャサリンさまが黒コゲだぞ!』
宴会に集まっていた下級精霊たちが、こちらに注目してきた。その下級精霊たちが集まって、戦いを見物する野次馬と化していく。
『キャサリンお姉さま〜。大丈夫ですか〜?』
『ミリィさま。キャサリンお姉さまへの無礼は許せませんわ!』
ヤジが飛んできた。キャサリンさんの取り巻きたちだ。
キャサリンさんは人望が篤いからね。慕ってくる下級精霊が多いんだ。そのほとんどが女の子なんだけど……。
そんな中でプラカードを持ったコズエちゃんが、
「さあさあ、ミリィさまとキャサリンさま。どちらが勝つでしょう? お一人さま商品券一枚でお願いしちゃいま〜す」
なんて言いながら歩いている。また新しいカケを始めて仕切ってるんだ。
カケに参加しようとする精霊たちが、コズエちゃんの周りに群がってきている。
あたしたちの戦い、すっかり宴会の余興にされてるわね。
「けほっ」
黒い煙が晴れて、中からキャサリンさんが出てきた。煤で顔もドレスも真っ黒だ。
そのキャサリンさんが咳払いしながら、ドレスを振って煤を落としている。そんなキャサリンさんのこめかみには、青筋がぷっくりと浮かんでいた。
「ミリィ。あまり効かなかったみたいだねぇ」
作業を止めたユメミが、まるで他人事のように言ってくれる。
その横ではカメラを構えるノーラが、キャサリンさんの無事に安堵していた。
「こうなったら徹底攻戦よ。喰らえ、追撃の四・七×一〇の一九乗ジュール!」
キャサリンさんが立ち直るよりも先に、あたしは二撃目を放った。今度は桜島が三年以上も活発に噴火できるほどの熱エネルギーだ。
だけど、キャサリンさんは霊光弾をさらりとかわした。
そのキャサリンさんのドレスが、光を放ちながら形を変えていく。ドレスから女性将校服への変化だ。そして光が消えると、キャサリンさんは男装の麗人とでもいうべき姿になっていた。
『きゃーっ! キャサリンさまぁ〜』
野次馬たちから黄色い歓声が飛んできた。キャサリンさん信派の女の子たちだ。
その歓声に応えるように、
「甘いですわ! 報復の六・〇×一〇の一七乗ジュール」
と芝居がかった口調と仕種で、大きな霊光弾を撃ち返してきた。
これが爆弾だったら一万メガトン級だ。
「誅伐の六・三×一〇の一六乗ジュール!」
「なんの、お返しの二・一×一〇の一七乗ジュールですわっ」
「牽制の八・七×一〇の一五乗ジュールっ。加えて強襲の四・〇×一〇の一九乗ジュール!」
「負けませんわ! しっぺ返しの二・七×一〇の一八乗ジュール!」
「怒りの四・〇×一〇の一九乗ジュール!」
「馬耳東風の二・九×一〇の一八乗ジュールですわ」
互いにエネルギーを高濃縮した、霊光弾の応酬戦が始まった。この余波で成層圏の中を無数の衝撃波が飛び交っている。
すべてのエネルギーを合わせたら、核兵器何万発分になるんだろう?
といっても、あたしたちには低次元な土突き合いなのよね。そのため集まってきた精霊たちは、お酒を飲みながら高みの見物と洒落込んでいる。
「ちょっとぉ。撃つ方向を考えてよぉ!」
流れ弾がユメミの近くに落ちた。この撃ち合いがユメミの邪魔になってるんだ。
「ごめ〜ん。ユメミ」
あたしは軽く謝って、飛んできた霊光弾を錫杖で弾き飛ばす。
と、その時、
「お返し……あ、これはダメですわ。お、お礼の一・三×一〇の一七乗ジュール!」
霊光弾を放つキャサリンさんが、前口上にまごついた。
霊光弾を撃つ前に言葉を入れるのは、気象室の中で決められた独自の約束事だ。無条件で撃ち合いをしたら、際限がなくなるもんね。そこで一種の枷として、撃つ前に前口上を入れて、それには同じ言葉を使ってはいけないという決まりができたんだ。
まあ、同じ言葉を禁止する期間が一回の戦いの中なのか、一日の中なのかは決まってないけどね。どちらにしても撃ち合いが長引くと、前口上に使える言葉が出づらくなる。
「えっと……。きゅ、窮鼠猫を噛むの三・五×一〇の一六乗ジュール……」
当然、あたしもまごついてきた。
この勝負、先に語彙が尽きた方が負ける……。
「怒りの三・八×一〇の……」
「それは先ほど使いましたわ!」
キャサリンさんに指摘されて、霊光弾が行き場を失った。
「えっとぉ……。うわぁ〜、出てこな〜い!」
先に言葉に詰まったのは、あたしだ。慌てて言い直そうとしたけど、浮かんでくるのは使った覚えのある単語ばかり。おかげで霊光弾が、錫杖の先っぽでジュワジュワと音を立てて小さくなっていく。
「覚悟なさいっ。頭でも冷やせ〜の八・二×一〇の一七乗ジュールですわっ」
「あ〜っ。その言い方はずるい!」
キャサリンさんの手のひらに、大きな光の球が現れた。
咄嗟に防御姿勢を取って目を閉じ、直撃を覚悟する。
──ぼひっ
「……あれ?」
直撃はなかった。代わりに何か鈍い音が聞こえたような……。
何が起きてるのかな? 野次馬たちが騒いでるみたいだけど……。
「ミリィ。いつまで遊んでるのよぉ」
「いつまでって……。え?」
そうっと目を開けると、前にユメミが立っていた。
そのユメミは手に大きな麻袋を持っていた。口から黒い煙が、もうもうと出ている袋だ。それと一緒に、キャサリンさんのブーツ……というか片足が……。
どうやら霊光弾を放つ寸前、大きな麻袋をかぶせられたようだ。
キャサリンさんの足はまったく動いてない。気を失ってるのかな?
その足を中へ押し込んだユメミが、袋の口を紐で固く結わえる。
それにしても、キャサリンさんが撃とうとしたのは、天明三年(一七八三年)に起きた浅間山大噴火の、全噴火エネルギーに相当する霊光弾だ。それを封じ込めるなんて、なんて丈夫な麻袋だろう……。
「助かったわ。ユメミ……」
あたしは片手を上げて、ユメミにお礼を言った。その手に握ってた錫杖は、いつの間にか祓え串に戻っている。
「はい、しっかり持っててねぇ。あたしは自分の仕事に戻るわぁ」
そう言ったユメミが、あたしに麻袋を渡してきた。
キャサリンさんが倒されたからか、信派の精霊たちからヤジは飛んでこない。それどころか不気味なほど静かだ。
それはノーラも同じ。いつもならキャサリンさんを気遣うはずなのに、今は真剣な顔でカメラを構えて、ユメミから技術を盗もうとしている。
ひょっとしてノーラ、カメラを手にすると人格が変わる性格かな?
『なんだ。もう終わりか』
『次の余興は誰だぁ〜?』
背後から酔っ払いたちのほざきが聞こえてきた。その精霊たちがキャサリンさん信派の女の子たちの不評を買ったのか、ボコボコの袋だたきに遭っている。あれは自業自得だね。
「ミリィ。これからお得意のぉ、気象乾燥術を披露するわぁ。沙漠の管理術を使ってぇ、このあたりを一気に乾燥させるわねぇ」
ユメミが楽しそうに手を振って、これから何をするかを教えてくれた。
なるほどね。このあたりを一気に乾燥させてしまえば、豪雨を起こしている雨雲まで消し去れるってわけね。それなら仮に失敗しても、今以上の被害は出ないと思うけど……。
とか感心してる間に、ユメミが気象操作を始めていた。
南を向いて胸の前で腕を交差させる。そこから腕をゆっくりと顔の高さまで上げ、手のひらを空へ向けていた。そのユメミを取り巻くように、大気が流れ始める。
「風につどいし意志たちよ。大気に漂う物質たちよ。我、大いなる精霊として『泉』の称号を授かりし者なり。我、与えられし神力を補う強者たちを欲す。古よりの盟約に従い、天空界よりの水の上級精霊──ユメミ・ナイアス・スヒチミ・ウガイアの名において汝らに命を訴えん。偉大なる陽の光を受けし南洋の風、熱き疾風となりて大地を乾かせしめよ。水に浸りし大地より無辜なる者たちを…………」
「あ〜っ。やかましい!」
──どごぉっ!
ユメミがわけのわからない言葉を延々としゃべっている。そのユメミの後頭部を、祓え串から転じたハリセンでたたいてやった。
……って、今のはハリセンの音じゃなかったような……。
「いったぁ〜いぃ……」
ユメミが頭を抱えてしゃがみ込んだ。その横には大きな麻袋が転がって……。
「しまった!」
あたし、ハリセンと一緒に麻袋を振りまわしていたんだ。霊力で浮かせていたから、すっかり忘れていたわ。それがユメミの後頭部に……。
「ゴメン、ユメミ……」
取り敢えず、謝罪は早いうちに限る。でも……。
「だけどさ。何をブツブツ言ってたのよ?」
「何ってぇ、呪文に決まってるじゃないのぉ」
立ち上がったユメミが、目に涙を浮かべながら答えてきた。
「呪文? 何のために?」
わざとジト目になって、ユメミを睨んでやった。
だって、あたしたちは精霊だよ。呪文なんて唱えなくても、強力な術を使える上級精霊だよ。もちろん気合いを入れるためとか、間合いを取るためとかいう理由で、術を使う前に何かを口にする精霊もいる。だけど、呪文を使う精霊なんて聞いたことがない。
「雰囲気よぉ。ちょっとした気分を出してるのぉ」
ユメミから予想通りの答えが返ってきた。
「雰囲気?」
「うん。……で、なければぁ、あたしの趣味ぃ!」
「あのねぇ!」
ユメミのすっとぼけた答えに、相手をするのも馬鹿馬鹿しい気分になってくる。
「実は北米支局でぇ、術を使う前に呪文を唱えることが流行ってたのよぉ。何でもぉ、地上界のファンタジー物の影響を受けたとかでぇ……」
ユメミが楽しそうな顔で、呪文についての話題を語り始めた。
北米支局でそんなお遊びが広まってたなんて、初耳だわ。
「そんなことが流行ってるの?」
「そうなのぉ。すごい精霊なんてぇ、一時間近くも呪文を唱えられるのよぉ」
ユメミの表情が、どんどん明るくなっていくのがわかる。
「そんな無意味なことをして、どんな意味があるのよ!」
マイペースにもほどがあるわ。ここはビシッと釘を刺さないと……。
「ミリィ。これが『文化』なのよぉ」
「あ、あのねぇ……」
ユメミのひとことで、刺そうとした釘が杭ぐらいにぶっ太くなった。
「そういうことは状況を考えてやってよ! 今は一刻を争うのよ。すでに深刻な被害が出てるじゃないの。くだらないことはやめて、さっさと始めて!」
──はぁ、はぁ……
あぅ〜、一気にまくし立てたから酸欠だぁ。息が苦しい……。
「わかったわよぉ。ミリィの短気ぃ……」
「何か言った?」
「『短気』って言ったぁ」
「おい……」
素直なのか、あたしを馬鹿にしているのか。ユメミの態度に怒る気が奪われてしまう。
そんなあたしの前で、ユメミが両手を広げて再び大きな術を使い始めた。
ユメミからあふれ出た強いエネルギーが、周りの空間をゆがめている。
「気合いのぉ……」
ユメミが力を込めて言いながら、広げた手を前に出した。そして、
「二・七×一〇の二一乗ジュ────────ル!」
気合いの入った声とともに、大量のエネルギーが解放された。余裕で台風二〜三個は作れる膨大なエネルギーだ。となれば、すぐに何らかの影響が出てくるはずだけど……。
「……何も起こらない?」
エネルギーの放たれた南の空では、何もそれらしい変化が見られなかった。
まさか『叫んでみただけぇ』なんて言わないでしょうね?
当のユメミは、今も南の空を向いてエネルギーを放散し続けている。ただし、力を出し続けてるような感じじゃない。それより何かを微調整してるような力の出し方だ。
「すごいですのね。あんな超遠隔操作なんて、初めて見ますのね」
撮影を続けるノーラが、カメラを構えたまま驚嘆していた。
「超遠隔操作?」
「ミリィさま。対流圏の最上層を通って、こちらに向かってくる気流団がありますよ」
コズエちゃんが南の空を指差して、そんなことを教えてくれる。その指先をたどって、あたしも南の空を見上げた。
「な、何なの。あれは……?」
あたしの目に飛び込んできたのは、超音速で北上してくる巨大な風の流れだった。
と言っても、風そのものの速さは秒速五〇メートルほど。時速約二〇〇キロの南南東の風だ。でも、ユメミが流れを操作してるからだろうね。風の通り道を作るように、流れの先端がこちらへ迫ってきている。
大気を後ろから押して衝撃波を作っても、音速を超えるはずはないのに……。
「あの風はぁ、あと五分ぐらいでここに着くわぁ」
ユメミはすべての操作を終えたようだ。疲れたように深呼吸しながら、空を見ている。
「まさか、この惑星の大気循環に手を加えたの?」
「そうよぉ。ここから一三〇〇キロ南東にぃ、沙漠を作るのにちょうどいい風があったんだぁ。それをここまで持ってくるのぉ。いい案でしょぉ」
説明するユメミは、どこか自信に満ちていた。
「ここから一三〇〇キロ南東ってことは、太平洋高気圧に流れ込む下降気流ね。それを持ってくるなんて、とんでもない馬鹿力だわ……」
ユメミの発想もすごいけど、それを一人で動かせてしまう霊力には驚きだわ。
その気流が、もう少しであたしたちの上空に到達する。
「ではぁ、仕上げのぉ、三・一×一〇の一六乗ジュールだよぉ」
ユメミが飄々とした物言いで、風を下降気流へと転じさせた。
──ずんっ……
下降してくる風に圧迫されて、このあたりの気圧が一気に上昇した。
海水面の気圧に換算すると、九九二ヘクトパスカルから一〇一八ヘクトパスカルへの急上昇だ。この断熱圧縮による急激な気圧変化で、気温が八度も跳ね上がっている。
「すごいですのね。見る間に雲がしぼんでいきますのね」
興奮するノーラが、ユメミの一挙手一投足を漏らさず記録しようとしている。
「ホントに、見事な手ぎわだわ」
つい口を衝いて、感嘆する言葉が出てきた。
気温上昇と乾いた風の到着で、雨雲が何かに吸われるように消えていく。
ここまで完璧な気象操作は、老練な大精霊でもなかなかできないでしょうね。
沙漠を管理する術の応用とは、よく考えたものだわ。
『あ……。暑い』
『呑み過ぎたかにゃ?』
『おーい。誰か冷たいビールを持ってないかぁ!』
ずっと宴会してる下級精霊たちが騒ぎ始めた。
来た時には熱く乾いた風だけど、それが雨雲を吸って湿度一〇〇パーセント近くにまでなっている。当然、あまりの蒸し暑さで宴会どころじゃないわね。
あたしも風を身にまとわせてはいるけど、ほとんど冷房になってない。湿度が高いから、風を起こしても気化熱を奪ってくれないんだ。
それに加えて今の気温は三六度ほど。これは冗談抜きに蒸し暑い……。
『う〜ん。暑いですわぁ〜。死にそぉ〜』
放置された麻袋の中から、うめき声が聞こえてきた。キャサリンさんが意識を取り戻したようだ。
外でもかなり蒸し暑いんだから、袋の中はどれほどの地獄だろうね?
どこにも空気穴がないから、熱がこもって大変そうだ。
『どなたか……、お水を……』
もごもごと動く麻袋が、雲の上を転がりながら移動している。
面白そうだから、あのままにしておこうかな。
「やったじゃない、ユメミ。見事に豪雨を治めたわね」
あたしはキャサリンさんを無視して、ユメミに称讃を贈った。
あの猛烈な集中豪雨を一気に抑え込んだんだものね。このぐらいの蒸し暑さは我慢しないとワガママってものだわ。
「どういたしましてぇ」
作業を終えたユメミが、あたしの出迎えに軽く応えてくれる。
「それじゃぁ、祝い酒といきましょうかぁ」
「あのねぇ……」
と言いつつも、あたしは渡されたグラスを受け取ってしまった。
これは精霊の悲しい習性だわ。
それにしてもユメミって、いったい何万本の酒ビンを持ってきてるのだろう?
などと言ってる間に、地上の雨は小雨程度にまで弱まっていた。あとは青空が戻るのを待つばかりだ。
「記録を回収しますのね。どうもありがとうですのね。あと七人ですのね。記録をお願いした精霊、いないでぇ〜すのぉ〜?」
ノーラが下級精霊たちの間を忙しそうに飛びまわっていた。
口調がかなり興奮している。ノーラにとっては願ってもない大技が見られたんだもんね。落ち着けと言う方が無理かもしれない。
「きゃあ〜。さっそく本部に戻って、記録を編集して保存しますのねぇ〜」
ノーラが大空に飛び上がって、そのまま見えなくなった。一目散に気象室本部のある天上界へ向かったのだろう。
ホント、勉強熱心だわ。
「すごいね。あれ……」
「うん……」
あたしの言葉に、ユメミも同意してくれた。
その間も雨雲は溶けるように小さくなり続けている。すでに雨はやみ、地上には青空が見え始めている。
「これでぇ、晴天が二か月は保つわねぇ」
笑顔でブランデーを飲みながら、ユメミがぼそっと漏らした。
「……え? 晴天が二か月も……続く?」
思わずユメミの顔を見てしまった。
「ちょっとぉ。晴天が二か月もって、夕立……ぐらいは降るんでしょ?」
「砂嵐ぐらいぃ……かなぁ。沙漠を作る方法を応用したんだものぉ。秋の長雨が始まるまではぁ、降らないんじゃないのぉ」
あたしの質問に、ユメミが素っ気ない答えを返してくる。
「ということは、今度は渇水……ね……。集中豪雨の次は……大旱魃……。あはは……、これは異常気象だわ」
すごい手並みだと思ったけど、後先考えずに目先の災害を止めただけ……ね。
なんか、むなしくなってきた……。
「ちょっと、悪かったかなぁ?」
「すっっっごく、悪い!」
まったく悪怯れた様子のないユメミに、不満を込めた声で答えてやった。
まさか沙漠の管理精霊時代が長かったから、渇水に不感症になってるのかな?
でも、熱帯雨林も管理してたはずだけど……。
「大丈夫よぉ。渇水が心配だったらぁ、雨台風を持ってくればいいのよぉ。二〜三個作ればぁ、降水量の帳尻は合うでしょぉ」
わかった。ユメミは大雑把なだけだわ。
『暑いですわ〜。どなたか、何とかして……』
あ、キャサリンさんのことを、すっかり忘れてた。
ノーラに持ち帰ってもらうべきだったかな。これは失敗だったわね。
そのキャサリンさんは麻袋の中で必死に出ようともがいている。それで体温を上げているから、中はますます蒸し暑くなっただろう。
「ミリィ。この精霊ぉ、どうするぅ?」
「放っておいてもいいんじゃない」
ユメミは心配そうにしてるけど、あたしは軽く受け流した。
「でもぉ、このままだと熱中症で倒れるわよぉ」
「優しいね、ユメミは……。でも、キャサリンさんを甘やかすのは間違いよ。袋を開けたら逃げるだけじゃ済まないわ。キャサリンさんのことだもの、どうにかして災害を起こそうとするはずだわ。また雨雲を作らせないためにも、この蒸し暑さが終わるまでは、放っておくべきだと思うの」
あたしは毅然とした態度で力説した。だけど、
「でもぉ……」
ユメミには納得できないようだ。上目遣いであたしをジッと見詰めてくる。
「元の木阿弥にしたいの?」
「そうは言ってもぉ、苦しそうだよぉ」
会話が平行線をたどったままだ。逃げられるのを覚悟で袋を開けるか。このまま放置して我慢させるか。なかなか難しい問題よね。
「そうだ」
あたしの頭の中で名案がひらめいた。
「ユメミ。折衷案として、この竹槍で空気穴をあけるのは、どうかな?」
あたしは人道的な配慮から、先のとがった青い竹竿を出した。これなら袋を閉じたままでも通気孔をあけられる。
「竹槍……ねぇ」
ユメミが道具をつかんで、思案気な表情になった。何を考えてるのか、指先でとがった先をツンツンと突っついている。
『た、竹槍ですって?』
袋の中にいるキャサリンさんが、ユメミの言葉を聞いて飛び上がった。
もっとも、あたしは冗談のつもりだ。いくら何でも、そんなに危ない真似はできない。本当は荒縄で身体を縛ってから、袋から顔を出してあげようと思っている。だけど、
「よぉ〜しっ! これから穴をあけるわよぉ」
ユメミは大マジメだった。
「キャサリンさぁ〜ん。危ないからぁ、動いちゃダメだよぉ」
竹槍を右脇に挟むように構えて、無茶な注文をつける。これは、まずいかも。
「ちょっと。ユメミ!」
慌ててユメミを止めようとした。
『お、お待ちになって!』
これはキャサリンさんも同じ。大声で思いとどまるように訴えてくる。
『キャサリンお姉さまの一大事ですわ!』
『ユメミさま。やっちゃダメです!』
キャサリンさんの取り巻きたちも、ユメミを止めようとしてくる。だけど、
「行っくよぉ〜っ」
ユメミはあたしたちの言葉には、耳を貸してくれなかった。「えいっ!」という気合いとともに、竹槍がぶっすりと麻袋を突き刺した。
『串刺しは御免ですわ……。ギャァァァァ〜ッ!』
キャサリンさんが悲鳴を上げた。と同時に、
『きゃぁ〜っ! キャサリンお姉さまぁ〜……』
取り巻きたちの絶叫が響く。
あたしも両手で顔を掩っていた。その指の間から、そうっと様子を窺う。
「刺さっちゃった……」
麻袋には、竹槍が深々と突き刺さっていた。その竹槍はユメミの手から離れて、ぷらぷらと上下に揺れている。
『ああ、キャサリンお姉さま……』
取り巻きの一人が卒倒した。それが引き金となって、他の取り巻きたちもバタバタと倒れていく。野次馬たちも一様に絶句したまま固まっていた。
それもそうよね。恐ろしくも壮絶な椿事を目撃したんだから。しかも、その被害者は超大物の大精霊だから、衝撃はなおさらだ。
「じゃあ、あとの管理は任せるわね」
「お任せください」
宴会に集まってきただけの精霊たちは論外として、あたしたちは後始末を下級精霊たちに任せて、気象室本部のある天上界へ戻ることにした。
「きゃあ〜、払い戻しが一〇三倍ぃ〜! きゃぁ〜、どうしましょう〜」
あたしたちから少し離れたところで、コズエちゃんが狂喜乱舞していた。払い戻された商品券の束に頬ずりしている。商品券には、いろいろな種類があるみたいだね。
そのコズエちゃんを数人の精霊たちが取り巻いている。その精霊たちが、
「コズエ。あたしたち、お友だちよね」
なんて言っていた。あの商品券はみんなにたかられて、消滅する運命にあるようだ。
まあ、楽しく騒げるんだから、コズエちゃんも文句は言わないだろうけどね。
「ミリィさま。キャサリンお姉さまの具合はいかがでしょうか?」
「あのぅ、おケガはされてませんか?」
キャサリンさんの取り巻きたちが心配そうに尋ねてきた。何十人という数だ。
あたしにとっては迷惑な相手だけど、キャサリンさんは本当に人望があるのね。
「気を失っているだけよ。あと数分もすれば、また騒ぎ始めると思うわ」
キャサリンさんを気遣う取り巻きたちに、あたしは軽い口調で答えた。
竹槍事件のあと、あたしは恐る恐る麻袋を開けて中を確かめた。竹槍はキャサリンさんの服を破ったけど、身体には傷をつけてはいなかった。
まあ、竹槍はユメミの手から離れたあと、ぷらんぷらんと揺れてたもんね。刺さってないとわかる状況ではあったけど……。
当のキャサリンさんは、あまりの恐怖で気を失っただけみたい。額にタンコブができてたけど、これはひょっとしたら、あたしがユメミをたたいた時のものかな?
ちなみに一度開けられた麻袋だけど、キャサリンさんの額に絆創膏を貼ったあと、再び固く閉め直した。あれで何もなかったのは、奇跡としか言い様がない。
まさかユメミ、こんなことを練習してないと思うけど……。
そのユメミは問題の麻袋を引きずっている。袋には封印用の御札がベタベタと……。
でもねぇ、御札の文字が『危険物』『有害物』『天地無用』『積み重ね厳禁』『取り扱い注意』『なまもの』って……。
たぶんユメミの趣味ね。しかも麻袋には今も竹槍が刺さったまま。
ノーラが残ってたら、何を言われたことやら……。
「それじゃ。またね!」
見送ってくれる精霊たちに手を振って、あたしは雲を蹴った。それに下級精霊たちが、手を降り返してくれてる。
地上を離れる寸前、あたしは地上に目を移した。
雨は無事にやんだけど、地上はまだ水浸しだ。屋根に登って難を逃れた人たちが、オリーブ色の救助ボートで助けられる光景が目に飛び込んでくる。
これでも一応、災害を治めることには成功した……のかな?
「ミリィ。何してるのぉ。置いてっちゃうよぉ!」
「あ、ごめん」
あたしはユメミを追って大気圏を脱した。向かう先は月と地球の重力共鳴点だ。
そこには地上世界と精霊世界をつなぐ、亜空間通路の入り口がある。
精霊世界側の出口は天上界にある大きな湖の上。その湖畔に作られた水の都に、気象室の本部がある。