眠りの夜が近づいて
宿の代金と食事の代金とを合わせてもまだ余る額はある。
子供と食べるということで、少しでも腹のふくれるものがと思ったがこの時期はほとんどが満席でとてもじゃないが2人も入れない。
「……ここもダメね」
「そうだね……大人のヒトがいっぱい」
「パンとリンゴを買いましょう。部屋で一緒に食べるの」
「うん」
2人並んで人ごみをかき分けながら宿まで歩く。
離れないようにとマーロウはイリスのローブの中へと入った。
「歩きにくいんだけど。というか暑くない?」
「ぼくこの方が落ち着くってコトに気付いたの。……ちょっと暑いです」
「暑いならやめなさいってばホラ!」
わちゃわちゃと会話をしながら街を抜けていく中、路地裏で妙な影が動いた。
「おやおや~? なにやら面白いのがいますねぇ~」
街の光が通らぬ闇の中で、燕尾服を着たピエロメイクの男がこれ以上ない笑みをこぼす。
「あれは確か人斬りの母と言われた女剣士。……イリス? ん? ヴェニス? ま、どっちでもいいでしょう。あの女のローブの中にいた少年……ん~匂いますね匂いますねぇ」
ローブの中のマーロウの気配を感じ取り、自らの考えを巡らした。
ただの寄り道程度で来ただけのこの街でとんでもない存在に出会えたのは僥倖とも言える。
「間違いない……ワタクシの嫌いな気配を感じる。あれが……あ・れ・ぐぁッ! "精霊"と言われる存在ですか~。……ケッ、まだガキンチョじゃあないですかぁ~。……まぁ殺せば問題ない、か」
舌なめずりをしながらヤモリのように平然と路地裏の壁をよじ登る。
その奇抜さと機動力はただの人間でないことの証。
「もっと暗くなってから……そう、もぉっと暗くなってからがワタクシの独壇場。────かつて戯曲王とまで言われ虚怪によって魔物化した超越人間こと、この『リヒャルド』様が戯曲的にぶっ潰して差し上げましょう」
リヒャルドという名の男は屋根の上で不気味な嗤いを上げた。
その声も街の灯りと喧騒で掻き消され、夜の闇の方へと消えていく。
一方、買い物も終わり宿へと戻った2人は部屋で食事を楽しんでいた。
この季節のこの地方のリンゴは他と比べて瑞々しい仕上がりだ。
違う地方だと土やら天候やらで砂をかじるような食感で贅沢こそ言えないがやはり食べれたものではない。
そう言う意味ではマーロウも目を輝かせて食べようとしたが。
「おごご……ッ!」
「アンタに丸かじりは無理。ほら、切ったげるから貸しなさい」
まだ顎の力がそこまで強くないのか食べるのに一苦労。
仕方なく小刀を取り出して小さく切り分けた。
そう言えば小さい頃、こうして姉にリンゴを切ってもらっていた気がする。
小さなリンゴをふたりで分けて食べていた。
(そっか……もうアタシも19なのよね……)
感慨にふけりながらもささやかな食事を楽しんだ。
パンもリンゴも瞬く間に食べ終えたマーロウは欠伸をしながらウトウトし始める。
出会ったときからの騒動やここまでの道中もあって、疲れが溜まったようだ。
「下の階に顔を洗う場所があるからそこで歯磨きしてもう寝なさい」
「……まだ、大丈夫」
「大丈夫じゃないから言ってんの。はよ行けホラ」
眠気でフラフラしているマーロウを見送りながら、イリスはふと窓の方に目を向ける。
街の通りから人が減ってきており、扉を閉じる店も多くなった。
賑わいは消え、眠りの夜がこの街に訪れる。
深い夜の時間は注意せねばならない。
虚怪はどこにでも現れるのだから。
御伽噺のように住処が決まっているものもいるが、自由に動き回るモノもいる。
真夜中の街をいいことに悪さをする虚怪だってこの世には存在しているのだ。
この街ではそう言った話は今までに聞いたことはない。
だが、イリスは夜になると常にこの考えに憑りつかれてしまう。
────虚怪が街や村に悪さを仕掛けにくるかもしれない、と。
「……ん? やけに遅いわねアイツ」
少し心配になって見に行ってみる。
顔を洗う場所にはやはりマーロウがいた。
だが、様子がおかしい。
イリスはハッとする。
「歯ブラシを咥えて立ったまま寝てやがる……ッ」
マーロウの妙な特技に呆れながらもゆっくりと歯ブラシを出してやり、そのままおんぶして部屋まで運んだ。
2人の夜は続く。
……恐ろしい影と共に。