聖騎士の姉さん
「じゃあねイリス。お母さんのことお願いねぇ」
「姉さん! 剣忘れてるよ!」
「あ、あらぁ?」
朝夕に涼みを覚える季節。
王都に近いとある村では聖騎士達が集まり戦いに備えていた。
そんな中おっとりした雰囲気の女性は恥ずかしそうにしながら妹から剣を受け取った。
彼女はイリスの姉にして国に認められた聖騎士のひとり、名を『モルテ・マルヤム』という。
この村の生まれであり、16歳にしてこの国の聖騎士に選ばれる精鋭。
これからある重大な任務へと向かうのだ。
今から50年前、突如として現れた通称『虚怪』と言われる存在達。
彼等の生態系は謎が多く、高名な魔術師達でさえ今尚正体の解明が出来ていない。
虚怪達が悪さをすると周囲の物や獣が魔物化したり、人の精神に酷い影響を及ぼしたりする。
イリス達が住む村の付近にもそれが現れたというので、国が聖騎士達を300人ほど収集し討伐へと向かわせた。
「じゃあ行ってくるわね!」
「姉さん! 絶対、……絶対戻ってきてね!!」
彼女は妹の『イリス・マルヤム』、当時10歳。
村人達の歓声の中進軍していく聖騎士達の中のモルテの背中を見守った。
虚怪は村から少し離れた丘に現れるという。
雲が舞い降りてその中で悪さをするのだとか。
少ない情報の中、聖騎士達が魔力によって十分に補正を受けた鎧と武器を携えながら進んでいった。
「隊長……空から雲が……」
「ん? 雲が降りてきている? 虚怪があらわれる前兆かもな。よし、このまま注意して進むぞ!」
丘に登ろうとしたとき、灰色の雲がゆっくりと聖騎士達に向けて降りてきた。
だがそのまま彼等は進軍していく。
「なに……あれ……?」
その一部始終を実はイリスは村の外れにある木の上から見ていた。
灰色の雲の中へと聖騎士達が進んでいく。
モルテは列の前の方にいたからすでにあの中へ入っているだろう。
そう思った直後、イリスの心の中に忌まわしい暗黒が広がる。
その中で咽び泣きこちらに助けを求める姉の姿が嫌でも思い浮かんでしまった。
「姉さん……姉さんッ!!」
木から降り丘の方へ駆けていこうとしたそのとき、イリスは驚愕の存在を目の当たりにした。
まるで警鐘音のような音を鳴り響かせながらそれは姿を現す。
灰色の雲の中に薄っすらと見える蹄のついた巨大な2本の足。
大きさはまちまちだがそれでも数え切れないほどにある生き物の口。
それ等がまるで灰色の雲から伸びているように、張り付いているように存在している。
あの灰色の雲はなんだ?
まるで生き物ではないか。
山羊にも見えるが見ようによってはドラゴンにも見えるあの不定形のアレは、モゾモゾと灰色の雲の中から目のような器官を露わにし、イリスの方をギョロリと見据える。
イリスはその場にいすくみ動けなくなった。
恐怖を越えた感情に身体が本能的にブレーキを掛けたのだ。
そう、きっとあれが虚怪だ。
丘の上に現れる悍ましき存在。
彼奴の目玉と無数の口がけたたましく動き始める。
『ミィ~ツケタ』
『ミツケタミツケタミミミミミミツケミミミミツケケケケタタタタタタタ……!』
壊れた人間のような言葉を吐きながらイリスをせせら笑う。
そして山羊か馬かも判別出来ないような雄叫びを上げながら虚怪は霧散していった。
イリスは暫く呆然としていたがすぐにモルテのことを思い出す。
姉は……聖騎士達はどうなったのだろう、と。
「姉さぁああんッ!!」
大声を上げて丘の方へと走る。
丘からは爽やかな風と昼の陽光が心地よく降り注いでいた。
さっきまで曇っていたのが嘘のようだ。
丘の上まで駆け上がり、イリスは姉の名を何度も叫ぶ。
しかし探せども叫べども姉も他の聖騎士達の姿も見つけることが出来なかった。
目の前に広がるのは穏やかな自然の光景だけだ。
大勢の人間がいた形跡すら見当たらない。
この日以来、あの虚怪が丘に現れることはなかった。
「姉さんが……虚怪に……さらわれちゃった」
虚しく吹き抜ける風の中、イリスはこの日から絶望に苛まれることとなった。
そしてある決意をする。
────姉を探す、虚怪から姉を取り戻す。
その為には虚怪のことや世界を知らなくてはならない。
この日から、イリスの進むべき方向が決まった。