第五章 -1
「お兄ぃ、まだ寝てる?だいじょぶ?」
「あ゛ー……」
いかん、本気で眠い。所々で意識が完全に飛んでる。
朝飯を食うのも自動的だ。そもそも、ナニ喰ってるのかもよく分かってない。
あの後、部屋に篭もって夜明け近くまで、あーでもないこーでもないと考えてたんだが。
どーにも結論が出なかった。不確定要素が多すぎる。
下手すると、直接、花畑を問い詰めた方が早いかも知れん。小一時間くらい。
まともに意識が保てない。ただ徹夜したのみならず、脳みそフル回転させてた所為だろう。結果として最悪のコンディションで月曜の……満月の朝を迎えてしまった。
「お兄ぃ?」
食卓の向うで心配そうな顔の小鳥に、適当な相づちを打つこともできない。
「……」
「――お兄ぃ、今日休んだら?。なーんか、歩いてる途中でも寝ちゃいそうだよ?」
「うー……。自信あるなー、それ……」
あるんだ、自信……とか、ちょっと愕然としてる様子の小鳥。
「あー……今日はちょっとなー……」
「……休め、ない?」
頷いたつもりが、がっくし、と首が落ちる。ねむ……。
だが、休めない。
休んでなど、いられない。
今晩がタイムリミットならば、それまでにやるべき事をやらなければならない。
問題は、何をすればいいのか、すら、俺には分かっていない、という事だった。
……致命的だな、おい。
「ちょっと本当に大丈夫?」
ごちそうさまーと食器をシンクに漬け、戻って来てまた呆れる小鳥。
「うーん、もう。ほんっとに……」
しょうがないなぁ、お兄ぃは……とか呟きながら、俺の脇までてとてと歩いてくる。
「お兄ぃ、ちょーっと、歯ぁ食いしばってて。じゃないと怪我するよ?口の中」
と、小鳥は思いっきり剣呑なセリフを吐くと、大きく右の平手を後ろに振りかざし……。
気づくと、俺は床に転がっていた。左の頬と首がジンジンと痛む。
きーんと耳鳴りが聞こえる。
引っぱたかれて倒れたんだろう、というのは、何となく分かる。
だが、頬を叩かれた音すら記憶に無い。眠くて意識が飛んでたにせよ、よっほど強烈な一撃だったのか。
「――ん、立てる?お兄ぃ。……無理か」
差し伸べられた小鳥の手を取り、立ち上がろうとしてフラつく。とっさに、わっ、とか、小鳥に支えられて……。
「……痛っ」
俺を椅子に下ろした小鳥が、右手首をさすりながらシンクへ向かう。大丈夫か、と立ち上がろうとして、またフラつく。
「もう、座っててよ、お兄ぃ」
そう言いながら小鳥は蛇口の水で右手を冷やしている。ハンカチを濡らして手首に巻いて、軽く振りながら、よし、とか呟く。
「目ぇ、覚めた?」
微笑みながら振り返る小鳥。
ああ、と返すのがやっとだった。
――何やってんだ、何バカやってんだよ、俺は。
大切な妹に、叩いた手の方を怪我させてしまうほど、思いっきり引っぱたかれなきれゃ……目すら覚めないのか。
「目ぇ、覚めた。大丈夫だ。……ありがとな、小鳥」
「ん、じゃあ先行くからね?」
壁の時計に目をやると、もう俺の足では完全に遅刻の時間だった。というか、小鳥でもギリギリな時刻だろう。ここまでボケてたのか。
――自分が、心底情けなくなった。
「んー……なんか不安だなぁ。それじゃあ、もう少し。目覚まし」
小鳥は無事な方の左手を降り上げながら、ゆっくりと近づいてくる。俺は歯を食いしばり、目を閉じて待ち構える。そして。
びっくりして目を見開き、振り返った俺の目前からすぅっと身を翻す小鳥。
呆然としていると、行ってくるからねーっという声は、既に玄関の外から聞こえた。その後に、バタン、とドアの閉まる音。
確かに、強烈に目は覚めた。
待ち構えていた右の頬ではなく、最初に引っぱたかれた左の頬に残る、ジンジンと響いていた痛みすら消えてしまうほどの、優しく柔らかな感触。
頬に、まだ小鳥の吐息が触れている気さえした。
――これで目が覚めなかったら、大馬鹿野郎もいいところだろう。
俺は両の掌でバチン!と自らの両頬を叩き、気合いを入れ直す。
そして左頬から改めて生じた強烈無比な痛みに、しばしうずくまって悶絶した。
*
登校すると、一時限目の授業には大幅に遅刻な時刻だった。
今から授業に参加するより、やるべき事を片づけるべきだと判断した俺は、一階の職員棟脇をすり抜け、昨日も訪れた保健室へと向かう。
「ちーっす」
ガラガラと保健室の扉を開ける。薬品臭に混ざって独特の甘い香り。
良かった、何とかなりそうだ。
「ああ、君か。昨日、来てたらしいね。いくら保健室の主たる君でも、わざわざ休みに登校して仮眠するほどヒマだったのかな?」
本人は寝癖だと主張する、ふわっと広がったセミロングの髪、大きな丸メガネ。美人というより可愛らしい系統の顔立ちに似合わぬ、ややキツめの目付き。
紫煙をくゆらせている細葉巻と灰皿を生徒の前で隠そうともせず、机に腰掛け膝を組んだ養護教諭の摩耶先生が、ゆったりと声を掛けてくる。
かすれ気味なのに柔らかい、独特の声質が心地良い。その声を聴きたくて保健室を訪れるファンも多いとか。
「私への用件だったなら、無駄足を踏ませて悪かったね。……どうしたんだい?その、真っ赤な頬っぺの治療かな?」
いや、これは別件で、と誤魔化すと、苦笑しながら、掛けるといい、と椅子を勧められる。
幸い、室内には先生以外には誰も居なかった。
ちょっと相談というか、確認したい事がありまして、と、丸イスに腰掛けつつ春休みの件について話を振る。
「ああ、彼女の事か……確かに、退学した」
個人情報だし言葉を濁されるかと思っていたら、意外にあっさり教えてくれた。
「なんだ?別に友達や知り合いじゃなかったんだろう。好意でもあったのかい?」
「そういう訳でも無いんですが……」
「――まぁ、気になるのも無理は無いか」
ふーっと吐かれた紫煙が、甘い香りを撒いて消える。
*
春休み直前、三学期も終わりのあの日。
終業式を終え、悪友たちと遊び終えての帰宅途中、教室の机に小鳥から借りた漫画を入れっぱなしだったと気づいて歩を翻し、夜の校舎へと戻った。
何しろ翌日からは春休みで、わざわざ休日に学園に出て来るのも億劫だった。その日のうちに済ませてしまおう、と思ったのだ。
教室へ向かう途中、一階から二階へ上がる中央階段の踊り場で、意識もなく倒れていた女生徒を見つけた。
強い月の光が、白く辺りを照らしていたのを覚えている。
……一昨日の、プラットホームのように。
すわ事故か事件かとも思ったのだが、特に怪我も制服の乱れも見当たらず、足でも滑らせて気を失ったのかと担ぎ込んだ保健室の机上には、摩耶先生の離席札が置いてあった。
とりあえず誰も居ないベッドに意識がないままの女生徒を寝かせ、まだ帰宅した様子は無い先生を待っていて……。
彼女が、目を見開いた。
とたん、大音声の絶叫が全身を貫いて抜けた。
――人は、これほどの叫び声を上げることができるのだ、と、どこか他人事のように感じていたのを覚えている。
耳がキーンと唸るほどの、凄まじい悲鳴。
怯えさせてしまったのかと思ったが、その目は俺を見ていない。
いや、俺どころか何ひとつ見えてない。
その瞳を、真っ正面から覗き込んでしまった事を思い出すと、今でもぞっとする。
瞳の中にあったのは、文字通りの空虚だった。
何一つ浮かばない瞳に何が見えているのか。
絶叫を上げ続ける女生徒を前にして、急ぎ戻ってきた摩耶先生や警備員のおっちゃんにも気づかず、俺はそのまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
*
「結局、彼女どうしたんです?」
湯飲みになみなみと淹れてもらった緑茶を啜りつつ、できるだけ何気ない様子を装って訊いてみる。
「……何もないよ。特に怪我もないし、乱暴された様子も無かった。そうじゃなかったら今頃、退学していたのは、どこかの素行不良な保健室の主、あたりだったのかも知れないね」
……笑えないが、あながち冗談のつもりでも無いのだろう。紫煙をくゆらせながら、摩耶先生は続けた。
「あの場に居た君も知っての通り、すぐ救急車で総合市民病院へ連れて行った。身体に異常が無いこともそれで分ったんだが、とにかく最初の数日は喉が嗄れても寝ても覚めても叫び続けだったらしい。その後も話が訊ける状態じゃあ無くて、ちょっとしたきっかけでパニックを起こしていた、とか」
先生はふぅーっと一息、煙を吐くと吸い殻を灰皿へもみ消し、次の細葉巻を取り出して火を点け直す。
「最近になってようやく落ち着いたとは聞いていたんだけれど、ご両親がかなり強く自主退学を申し出られていてね。彼女は成績も優秀だったし、校長も休学を勧めていたんだが……そうだ、退学が受理されたのはつい先日だぞ?どこで聞いてきた」
「まぁ、ちょっと」
「ま、副会長辺りか。彼も変に血族主義的というか、身内に甘いというか、妙な所で義理堅いな。ともあれ、彼女、よほど怖い目に合ったみたいだね。幽霊話でもないんだろうけど」
全校生徒の交友関係をほぼ完璧に把握していると噂の摩耶先生には、ネタ元も思いっきりバレていた。
――それはそうと、怖い目、か。
「そうだ、彼女をあんな風にしたのは、君じゃ無いんだろう?」
何があったんだろうか、とか、少し考え込んでいて……ふいを突かれた。
顔をのぞき込むようにしてズバっと斬り込んで来た摩耶先生に、まさか、と、思わず素で返す。
「ま、そうだろうね。それならあまり気に掛けない事だよ。好奇心は猫を殺す、と言うよ」
哀しそうな瞳で、好奇心を煽るような事を先生は最後に付け加えた。




