9話 ネコさんとネカフェ
夜が近づいてきた街並みは、そこらかしこに影が落ち始め、剥き出しの手に刺すような風が吹いていた。
平日であれば解散を考える時間だが、今日は試験最終日で明日は休みだ。まだ家路につくには早いと、私達の意見が一致した。
そして、次なる目的地は――。
「ほう、ここが日本のネットカフェ……」
オオカミは、個室のドアを開けると興味深そうに中を見渡す。
4人でも十分広いスペースの中央には炬燵が置かれ、その向かいには大型のTV、隅にはデスクトップPCが用意されている。
なかなか快適そうな空間だ。とくに炬燵があるのがいい。
私は上着や鞄を端に放り、いの一番に炬燵に飛び込む。冷えた足にぬくもりが心地よく、腰まで体を突っ込んだ。
「ロシアにもネカフェってあるの?」
「ああ、もちろんある。ここまで綺麗ではなかったがな」
それにわんことオオカミが続く。そして、誰ともなく息を吐いた。
やはり炬燵はいい。北の大地では暖房効率が悪いため使われることの少ない炬燵だが、布団に足を突っ込むという感覚は唯一無二である。
出たくない動きたくない。その感覚に身を任せ、私は天板に突っ伏す。見ると、向かい側のわんこも同じように溶けていた。
オオカミも緩んだ表情をしていたが、はっと覚めたように炬燵から抜け出す。
「いかんなこれは……このままで終わってしまいそうだ。飲み物を取ってこよう、何がいい?」
「じゃあ、私はコーラ」
「アイスコーヒー」
「了解した。すぐに戻ろう」
部屋から出るオオカミに私は手を振って答える。
相変わらず気が利く奴だ。これなら普通にしていれば友人は出来るはずなのに、何故出来ないのか不思議だ。
そんなことを考えていると、ドアの外からバサバサと本を落としたような音が聞こえてきた。私は体を伸ばしてドアの隙間から様子を窺う。
「ご、ごめんなさい余所見をしていて」
「いや、こちらこそすまない。怪我はないかな?」
恐縮しきって頭を下げる女学生に、落ちた漫画を拾って手渡したオオカミは薄く微笑む。
「だ、大丈夫です! ありがとうございました!」
「うん、次は気をつけて。せっかく綺麗な手をしているのに、傷ついてはもったいないからな」
では失礼、と言ってオオカミはドリンクバーに向かう。残された女学生は、頬を赤く染めてその背中を見送っていた。
「ネコさんー? どうかした?」
「なんでも。タラシのオオカミが歩いてただけ」
「ふーん?」
前言撤回だ。自分の顔の良さを自覚していない奴があんなことをしていれば、友人が出来るわけがない。それも疎まれ僻まれでなく、一目置かれてなのだから質が悪い。
体を引きずって炬燵に戻った私は、組んだ腕の上に顎を乗せる。そして、何をするでもなく同じようにしているわんこに目をやった。
普段から笑っているような彼女の顔は、炬燵の暖気のせいか余計にふわっとして見えた。ふかふかした髪も数割増しで膨らんでいるような気がする。
「……へへっ、やっぱりゆっくり出来る時間はいいよね」
目があったわんこは、そう言って笑う。
何もしないをする。勿体無い時間の使い方といえばそうだが、それもたまには悪くない。
いや、"勿体無い"という定義が"その場で出来ることをしない"というのなら、時間のあるときにしか何もしないことは選択できないのだ。それはつまり、勿体無い使い方ではないということになるのではないだろうか。
「とやー」
ぼんやりしていると、気の抜けた声とともに伸ばした足に緩い衝撃があった。子犬がじゃれついたようなそれに顔を上げると、わんこはそっぽを向く。
しかし、その顔が笑っているせいでまるで隠しきれていない。隠す気もないのだろうが。
「……」
「っだ!?」
私は無言で足を蹴り返す。少々強かったかもしれないが、構わないだろう。わんこはマゾの気があるので、これくらいのほうが喜ぶのだ。
「ネコさん失礼な事を考えてない?」
「無い。わんこはいじめられるのが好きだとか考えてない」
「考えてるじゃん! 痛いのは嫌いだからね!?」
「本当? 今だって笑ってるのに」
「これはネコさんが構ってくれて嬉しいだけですしー」
「ふぅん。私に構ってもらえれば痛くてもいいんだ」
「そういうわけじゃない……あれ、そうなのかな……いや違う違う! あくまで構ってくれてことが嬉しいだけ! それだけだから!」
必死になって主張するわんこに、私は笑いを噛み殺しきれず、つい溢れてしまう。
しかし、私に構ってもらえるのが嬉しいか。なるほど、そうかそうか。君はそういう奴だったんだな。
「わんこ、こっち来て」
「え、なんで?」
私は隅に寄って空いたスペースを叩く。わんこは疑問の声を上げていたが、素直に言うことを聞いて隣に座った。
「何するの……って、わっ」
私はわんこの肩を抱くように引き倒す。彼女の頭は、私の太腿に軟着陸した。
天井と私を見上げる形になったわんこは、目を白黒させていた。それがおかしくて、つい噴き出してしまう。
「な、なに? どうしたのネコさん?」
「構ってもらえると嬉しいと言ったのはわんこ」
「い、言いましたけど、こういうこととは予想をしておりません」
妙な口調になった彼女の髪に手櫛を通す。しっかりと手入れしてあるのか、一度も引っかかりを感じること無く終点まで通りきった。
初めは恥ずかしさに身を捩っていたわんこだが、二度三度と繰り返すうちにこちらに身を預けてくる。それが嬉しかったとかそういうわけではないのだが――つい滑った指が偶然首元をなぞってしまう。
「ひゅう……もう、私を弄るのはそんなに楽しい?」
「楽しい。とても楽しい」
「なんていい笑顔……」
「わんこだって嬉しいくせに」
懐いてくる犬にしてやるように頭を撫でてやると、彼女は口を尖らせて言う。
「そうだけどさぁ……むう、ネコさんって急に優しくなるよね」
「私はいつでも優しいよ」
「そうだけど……ずるいなぁ」
ブツブツと呟くわんこだが、口元が緩んでいてはどうしようもない。なので、構わず私は撫で続ける。
そうして何のためにここに来たのか忘れそうになった時、
「っと、すまない遅れたな。ドリンクバーの場所がなかなかわからなくて――」
そう言えば3人で来たんだっけと、コップを乗せたトレイを持ったオオカミを見て今更思い出した。
彼女は、気持ちよさそうに寝転ぶわんこと、その頭に手を乗せた私を交互に見る。そして無言のまま炬燵にトレイを置くと、極めて真剣な顔で言う。
「私も混ぜてくれないか」
「断る」
「そうか……」
オオカミは残念そうに言うと炬燵に座る。私は熱くなった頬を隠しながら、わんこの頭を叩いて起こす。
彼女は渋々と言った風に起き上がると、元いた場所に戻っていった。
「ネコさん横暴……。あ、オオカミさん取ってきてくれてありがとう」
「気にするな、これくらいはお安い御用だ。ワンコはコーラだったな。ネコはアイスコーヒーと」
「ありがと」
私は黒い液体に突き刺さるストローに口をつけて吸い上げる。
まったく、少し調子に乗りすぎた。これで頭を冷やそ――。
「っ!? んっ、ごほっ! つぅ……!」
「ど、どうしたネコ!?」
心配そうなオオカミの声に答える余裕はない。舌と喉が焼けるような刺激と弾ける泡の感触にむせ返る。
この刺激と甘ったるい味は……!
「オオカミさん、こっちがコーヒーじゃない? そっちがコーラで」
「似ていたから間違えたな……すまない、ネコ」
「い、いや……なんてことない……」
ようやく刺激は収まり、私は勝手に涙で潤んだ目を拭う。そんな私をわんこはニヤついた目で眺めていた。
「……なに」
「そういえばネコさんって炭酸が駄目だったなぁって。辛い料理も駄目だよね」
「ほう、それは意外だな。そういうのは平気だと思っていたが」
「平気、平気だし。今のはたまたま」
「じゃあ、このアイスコーヒーは私が貰うね」
えっ、と零しかけた口を慌てて噤む。
目の前のコップには、まだ泡が浮き上がるコーラが一杯注がれている。
これを飲みきれと? 炭酸で舌を焼いてくる悪魔的な飲み物を?
「ほら、炭酸が抜けたら美味しくないよ? その前に飲もう?」
先程の意趣返しとばかりに笑顔で言い詰めるわんこ。オオカミは何も言わないが、面白がっているのは口元を見れば明らかだ。
「……おぼえておけ」
精一杯の負け惜しみを口にした私を、二人は微笑ましそうに眺めていた。