27話 わんこと夜
冷たい風が頬を撫でる。だけど、熱を奪うような冷たさじゃない。むしろ体の熱を整えてくれる心地よい冷たさだ。夏が過ぎて残暑となり、そこから秋へと移り変わる僅かな間だけに吹く風。出歩くのが億劫になる冬までのご褒美か、或いは賄賂かもしれない。
「変な感じ。ちょっと前は暑くて倒れそうだったのに、もう秋になってくなんて」
夜の道路の傍らで灯台みたいに明るいコンビニ。その壁に持たれながら、同じようにもたれるオオカミさんは答える。
「暑さも寒さも彼岸まで、だったか? 腑に落ちなくてもそういうものなんだろう昔から」
そう言ってオオカミさんは、缶コーヒーを啜って香りと暖かさに目を細める。壁に持たれてコーヒーを飲んでるだけなのに、妙に似合うというか絵になる姿だ。そのまま雑誌の表紙になりそうなくらい様になっている。
私が、よくブラックで飲めるなーなどと思いつつ紙カップのカフェオレを啜っていると、
「ところで、大丈夫か?」
「うん? なにが?」
「時間だ。門限を気にするほどではないだろうが、とくに用もなく過ごすには遅めの時間だ」
「わっ、綺麗」
左手ごと差し出された腕時計に思わず感嘆の声が出た。言われたオオカミさんは、首をかしげる。
「そうか? 大した時計では無いと思うが」
「えっ? あーうん、そんなことないよ? この文字盤? とかいいよね」
綺麗だと思ったのは時計ではなく彼女の手だったのだけど、改めて口にするのはなんだか気恥ずかしい。適当に応えて、私は話題を戻す。
「で、時間ね。まあ、20時だね。怒られるような時間じゃないけど、普通なら用事もなくここにいる時間でもないね」
家から遠いわけでもないし、特別物騒でもない。だからといって、意味もなく過ごすのは推奨されないだろう。むしろ、家が近いのなら帰るべきだ。離れた人と会話をするのは、超能力でもなんでもない時代なのだから。
オオカミさんが気にしているのはそういうことだろう。けど、それは意味がないのなら話だ。
「私は、もうちょっとオオカミさんと話したいな。だめ?」
「そんなわけがないだろう。何だったら夜明けまで付き合ってもいい」
手にした缶――スチール缶のはずだけど――を軋ませながら、オオカミさんは身を乗り出して答える。夜明けまで付き合う気概は頼もしいけど、それは流石に怒られるのでやめておこう。
苦笑交じりに私が返すと、彼女は誤魔化すように咳払いしてから訊ねてきた。
「そ、それでだ。話すなら電話でも何でも出来る。しかし、敢えてこの場でなければ話せない重要な話だと私は見るが、そうだろうか?」
「うーん、そうだね……オオカミさんは、狐と鹿ってどっちが好き?」
「私は……鹿のほうがいいな。ロシアで暮らしていた頃はよく食べていた」
「鹿料理かーこっちでもたまに見るけど中々食べられないよね」
「機会があれば一緒に食べてみたいものだな。ワンコは、どっちが好きなんだ?」
「私は狐かな。冬毛で膨らんでモフモフになってるの可愛いよね」
「だが、ワンコには負けるな」
「ふふっ、どうも」
お互いにひとしきり笑ったところで、
「……ところで、これは重要な話なのだろうか」
オオカミさんは、はてと腕を組んで言う。それはもちろん、
「全然。どうでもいい話だよ」
「やはりそうか。では、なぜ今それを?」
「何故ってほどじゃないけど……敢えて言うなら、ドキドキするからかな」
星を見上げながら私が言うと、隣から硬いものが大きく軋んだような音が聞こえた。そちらを見やると、オオカミさんがむせてしゃがみこんでいた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……そういう意味じゃないのはわかってる。どういう意味かは把握できていないが」
落ち着ききっていないのか、オオカミさんの返答はいまいち私にはわかりかねた。まあ、わからないというのがわかったので、その辺を話そうか。
「小学生の時はさ、暗くなる前に家に帰らないといけなかったし、こんな風にコンビニで買い食いも大っぴらには出来なかったじゃない? だから、当時の私はそういうのに憧れていたの」
急いで家に帰らないとお母さんに叱られる。そんなことを考えながら家路を走る私は、塾や遊びの帰りにコンビニに寄る同級生はルールを守らない悪い子であり、自分の知らない世界を知っている憧れの対象でもあった。
結局私は中学生になるまでそういうことはしなかった。それは今までそうしてきたという意地もあったし、中学生ならセーフだという勝手に追加したルールのせいでもある。
それが間違っていたとは思わない。けど、あの子たちはもっと早くこんな楽しい思いをしていたのかなと思うと――ちょっとズルいなとも思ってしまうのだ。
「だから、こうやって私はその時を取り戻しているってわけなの。大した用もないけど友達と夜を過ごすっていうね」
「なるほど。そういうことか。子ども心には夜の街というのは、妙に魅力的に見えるものだ」
「オオカミさんもそうだった?」
「そうだな、夏が終わって今くらいの夜の風が好きだった。涼しくて体に染みるような風と星のために、よくベランダに居たな」
「へえ、なんかかっこいいな」
「大したものじゃない。実際は煩い兄達と距離を取りたかっただけだ。ああけど、一度だけ本当に気持ちの良い夜があった」
オオカミさんは、遠くの星を見上げながら懐かしむように言う。
「その日は両親がまだ帰っていない夜で、とても静かだった。僅かに風が吹く透き通った空気と満天の星空で、ふと私は思ったんだ。走ったらとても気持ちが良さそうだと」
人も喧騒も無い、見ているのは星だけで聞こえるのは自分の息遣いと足音だけ。肺に取り込んだ空気は冷たさと心地よさを満たしていく。家を抜け出した罪悪感と高揚感がどこまでも背中を押していく。
だからだったんだ、とオオカミさんは小さく息を吐いて苦笑いをする。
「気がつけば家からかなり離れてしまって、慌てて家に戻った時には両親は帰ってきていた。『何をしていた』と聞かれて正直に『気持ちが良さそうだから走っていた』と答えたら、母に『では次の日も好きなだけ走りなさい』と言われたんだ」
「理解あるいいお母さんだね」
「…………次の日は、前日が嘘みたいに荒れた天気だったんだ」
「えっ」
走ったの?と訊くことは出来なかった。さっきまで輝かしいものを語っていた顔が、どこか青ざめて震えているように見えたから……。
国と人が違えば色々あるんだなと半ば無理やり自分を納得させ、話を戻す。
「ま、まあそれはともかくとしてさ。やっぱり夜の空気は好きだな、私。さっきは取り戻しているって言ったけど、それだけじゃなくて今も『楽しい』を積み上げてる途中なんだよ」
「楽しい、か」
「うん、楽しい。夜はちょっと怖い時間で、それ以上にワクワクする」
家々の向こう、今は見えない駅から聞こえる電車が線路を踏みしめる足音が微かに聞こえてくる。昼間は聞こえないそれが夜に聞こえるのは、単にそれくらい静かだからっていうことを今の私は理解している。
けど、幼い頃の私には聞こえないものが聞こえるのなら、見えないモノが見えるんじゃないか。そうだったら怖いと思うと同時に、もしもそうなら楽しいだろうなと矛盾した憧れを持っていた。
しかし、そういうものはいつの間にか飲み干してしまうものだ。熱や苦さにビビりながらもちょっとずつ啜っていれば、気がついた時にはぬるくなって苦くもなくなっている。憧れもわかってしまえばなんてことはない。
「夜は夜でしかなくて、太陽が沈んだからそうなるってだけ。草木は眠ってもお化けは起きてこない」
昔はコーヒーが入ってるからと飲めなかったカフェオレの紙コップをゴミ箱に捨てる。出来なかったことが出来た引き換えに、代わりに何かを捨てているんだろう。
だけど、
「やっぱり夜には自分の知らない何かが起きている、これから起きるんじゃないかって漠然と思っちゃうんだよね。そんなはずはないんだけど、そうだったらなって今でも思う」
飲み込んで捨ててしまったものであっても、それを持っていた事実に変わりはないのなら、思い出すことは出来るし想うことも出来る。それ自体が大したものでなかったとしても、それに憧れたということはたぶん大事なことだから、たまには拾い上げてみてもいいはずだ。
……まあ、ネコさんにそう言ってみたら『ロマンチスト』の一言でばっさりだったけど。いいじゃん、夜なんだから夢見たって。
「……ふぅ。そう言ってたら結構話しちゃってたね。飲み終わったし、そろそろ帰る?」
「そうするとしよう。うん、確かにこうして話すのもいい夜の過ごし方だった」
オオカミさんは、飲み終わったコーヒーをゴミ箱に捨てる。からんと鳴った小さな音は、帰宅を促すベルのようだった。
「……」
離れる直前、横目にさっきまで立っていた場所を見る。本当はもう少し話したくもあったけど、これ以上は微妙な時間とは言えなくなってくる。子どもじゃないんだから、それくらいの分別だってついている。
「ところでワンコ。水分を摂った直後に走ったりするのは良くないそうだ」
突然そんなことを言うオオカミさん。その意図がわからなくて、そうなんだ?と気の抜けた声を返す。
そんな私の顔を見て、彼女は真面目な顔で――けど唇の端を緩ませながら言う。
「だから、少し歩くのがゆっくりになるのは仕方ないんじゃないか?」
「――それは、仕方ないね」
そう、もう子どもじゃない。だから、敢えて注意するよりも乗ったほうが良いことがあるとも知っている。彼女が察して気を使ってくれたのなら尚更だ。
「あ、そうだ。この間の夜にネコさんが愚痴ってたよ。『暑い時にまた変なこと言って』って」
「それはお互い様と……ああいや、何でも無い。思い出すと確かにそうだったかもしれない……」
「何言ったの? それは教えてくれなかったんだけど」
「それはその、機密だ。猫とはNDAを結んでいる」
「えぬでぃーえー?」
足取りと口は軽く、けれど歩みはゆっくりと。あの時より大人になった特権を味わうように、私達は夜を歩んでいく。




