26話 ネコさんと夏の夜
夏は嫌いだけど、夏の夜は嫌いじゃない。
太陽と一緒に暑さが引っ込み、窓から涼しい風が差し込むベッドの上。シャワーを浴びて汗を流した体を撫でる風に目を細め、夢うつつで時を過ごす。それが出来るなら、嫌いじゃない。
逆に言うなら、それが出来ないのなら――夏は嫌いだ。
「あっつ……」
何度目か、たぶん100回以上は口にした愚痴をこぼす。暗い室内を照らすのは、窓から差し込む僅かな街灯の明かりだけ。極稀に微動するカーテンに虚ろな目を向ける。
いつもと変わらない夏の夜。ただ一点、死ぬほど暑いということを除けばだ。そして一点は、ワインに混じった泥水よりも致命的だった。
「ふざけるな……なんだこの……これは……」
暑いのは数日。それを過ぎればいつもの夏が来る。そんな甘い予測はとっくに崩れている。あと一週間はこの茹だるような夜に付き合わなければならない。
枕元に置かれたスマホに手を伸ばす。時刻は12時間近を表示している。そんな時間でも消えない熱に呪詛の言葉を吐き、天井を仰ぐ。
そのまましばらくぼうっとしてから目を閉じるが――暑さに追いやられた睡魔は、中々帰ってきそうにない。ベッドの傍では健気に扇風機が首を振っているが、力不足と言ったところだ。
私は、天井からスマホへと目線を移す。静かな風景、安眠の環境音。思いついたそれらを検索し、試してみるが自分には合わなかった。薄暗い部屋でスマホの明かりは目にキツい。状況に合わない水音を聞いても落ち着かない。
目を閉じていても良く、耳障りじゃない音。そんなものは――あるにはあるか。私は、通話画面を前に少し逡巡してから、通話ボタンをタップする。
コール音は三回。それが鳴り止むと同時に応答があった。
『ネコか。珍しいな、こんな時間に君からとは』
僅かに弾んだ透き通るような凛とした声。眠たそうで無いことに安堵しつつ、私も応える。
「ん、ちょっと眠れなくて。少し話せる?」
『いいとも。私も暑さにやられていてな。気を紛らわせられるなら願ったりだ』
「……暑いのはどこも一緒か」
『そうだな……こんなに暑いのは初めてだ。それが続くのもな』
「本当に……外に出るたびに汗が吹き出る……どこにも出たくない……」
拭っても拭いきれない汗のベタつきは、本当に嫌だ。汗を吸って肌に張り付く服も嫌いだ。だから部屋でゆっくり過ごしたいと言うのに、異常な暑さは、それも許してくれない。
昼間に漂っていた泥のような熱気を思い出し、鬱々としていると、
『ところで、ワンコはもう寝ていたのか?』
そんなことを訊くオオカミ。
「さぁ。けど、寝てると思う。いつもどおりなら」
『そうなのか? 先に電話したと思っていたが』
「ああそういう……別に仕方なくってわけじゃない。オオカミは起きてるかもと思ったし、あんたの声は……涼しそうな気がしたから」
『声が涼しいとは……冷たいということか?』
オオカミは、露骨に声を沈ませる。違うから、と私は溜息交じりに続ける。
「単に声質を褒めただけ。素直に受け取っておきなさい」
『そうか。それなら、嬉しいな。うん』
うんうん、と反復する彼女に苦笑する。適当に言っただけかも知れないのに、疑いもせず真に受ける単純さはわんこと少し似ているかもしれない。
「はいはい。はぁ……本当に暑い……」
『確かにな……けど、悪いことばかりじゃない。冷たいものはいつもより美味しく思えないか? 前に食べたパフェはとても美味しかったぞ』
「あの時は今日ほど暑くなかったし、パフェ自体はいつでもおいしい」
『季節で補正は掛からない?』
「あまりね……美味しい思いのために苦労するって、矛盾してる」
『そうか……では、夏の話をしても面白くないな』
ではこうしよう、と自信アリげにオオカミは言う。
『いっそ冬の話をしよう。暑いよりは好きだろう?』
自信の割に単純な提案ではあったが、
「……まあ、そうかも。夏場のアイスより冬のアイスの方が好きかもしれない」
『ほう、それは面白いんじゃないか? 熱を下げたい夏にこそ冷たいものが恋しくなるというのに、実際には熱を上げたい冬こそ好きというのは』
「言われると……アレかな、夏にアイスを食べるのは熱を下げたいっていう生存の意思。けど、冬のアイスは余裕の表れだから」
『余裕か。それはあるな。万全の状態で敢えて口にするのと、決死の思いで流し込むのではメンタルに大きな差がある』
「きっとそれ。涼しくなりたいのになれないのが嫌なんだ」
『では、クーラーの効いた部屋で暑いものを食べるのは?』
「……それはどうかな。汗かくのは好きじゃない」
『そうか。まあ言っておいてなんだが私も好みじゃないな。アイスのほうが好きだ……なあ、また食べに行かないか?』
こちらの反応を探るように切り出すオオカミ。さっき話したパフェのことを言っているのだろう。それ自体は良いが、そこまでの道中と帰りを考えると――うん、どうしようもなく億劫だ。日差しとアスファルトに挟まれて両面焼きになるのが目に見えている。
オオカミは、呆れと消沈をブレンドした息を吐いた。
『……ネコはこう、根本的に出不精なんだな』
「普通でしょ。暑い日は日を遮れる部屋に居たいし、寒い日は暖を取れる部屋に居たいのは人類の願い」
私は寝返りを打って、扇風機へと顔を向ける。なんとなくだが、吹いてくる風は冷たさを増したような気がする。オオカミの声が聞いたとすれば、中々エコな冷房だ。
『否定はしないが主語が大きいな……私は、君となら出掛けたいと思っているんだが。暑い日も寒いもな』
そう思っていた矢先、憂いを込めた囁きが耳に置くようにしていたスマホから響いた。思わず震えた頭から、スマホが滑り落ちる。
「…………忘れてた」
『何がだ? ひょっとして出掛ける約束をしていたのか!? いつだった!?』
「そうじゃない。都合の良い勘違いしないで」
そうじゃなくて、と私は自分を落ち着かせるべく繰り返す。
「そういうことを不意に言うやつだって、忘れてた」
暑い日も寒い日も何時だって君となら出掛けたい。陳腐でありきたりで歯が浮いて抜けてしまいそうな台詞。テレビから聞こえたなら鼻で笑い飛ばしていた。
だっていうのに、それが聞こえたのは触れるくらい近い耳元で、暑さに溶けた脳には震えるくらい効いた。暑さを紛らわせたかったのに、顔が熱くて仕方ない。
「ああもう、せっかく涼んだと思ったのに。オオカミめ」
『私が悪いのか……?』
「悪い。そうやって臆面もなくカッコつけたこと言って」
『確かに格好はつけているが……ネコだって、普段なら流しているじゃないか』
「暑さで弱ってた。寝込みを襲うのと同じくらい卑劣」
『そこまでか……けど、私だってネコにドキッとすることがあるんだぞ』
「そんなつもりはない」
『なら、なお悪いじゃないか。自覚なしに言うか、とはネコが私に言っていることだ』
拗ねた口調で指摘されたそれは、まあ……一理はある。では、私の何が無自覚に動揺させたというのか。
訪ね返した私に対して、オオカミはしばし無言だったが、
『……ワンコの代わりではなく、最初から私に電話してくれたのは――かなりドキッとした。思ったより好かれていたのか、と勘違いしそうなくらいに』
照れくさそうに、けれど満足気な声が耳朶を揺らす。電話越しでも、笑顔だというのが確信を持てた。
私は、
「…………そう。じゃあ、付き合ってくれてありがと」
「ああ、また――」
オオカミが言い切るのを待たず、電話を切る。そのまま枕に顔を突っ伏して、ぎゅっと目をつむる。熱いのは暑いせいだ。それだけであって、自分が彼女と大差ないことをしていたとか、喜ばれていたことがどうとかは――関係ない。
だというのに、熱さは中々引かない。いつの間にか室温は下がっていたというのに顔は熱いままで、結局寝付けたのはそれから数時間後だった。




