23話 ネコさんと印
冬の休みが終われば、次にやってくるのは短い春の休みだ。とは言え、まだ積もった雪が溶け出したばかりの道を見ても、冬の残業が続いているようなものだが。
それでも春には違いない。だから、こうして世間は平日でも私達は昼間からゲーム勝負なんてことが出来ている。
「あっー! もう少しだったんだけどなぁ」
画面で倒れているのはわんこ――が操作するキャラ――で、右手を突き上げ誇らしげにしているのは私。ちなみに私の体力は4割は残っているので、それが『あと少し』に定義されるかは議論が必要だ。
ともあれ、これで私の5連勝。いつものわんこなら『次はこれ!』と言い出す頃だが、
「次は負けないから! 一回くらいは勝つし!」
今日は珍しくコントローラーを握り直し、再戦の構えをとっていた。表情もやる気十分と真っ直ぐモニターを見つめている。
「そんな力入れてコントローラー握っても意味ないけど」
「はっ! ひょっとしてコントローラーが悪いんじゃない!?」
「道具のせいにするのは二流」
軽口を返してみるが、わんこは聞こえていないのか唸るようにコントローラーをひっくり返したり、叩いたりして調子を整えようとしていた。
珍しい、と思ったがそうではないか。妙だ、と言ったほうが正しいかもしれない。どうも肩に力が入りすぎている。ムキになることはあったが、ここまでのは見たことがない。
「そんな顔真っ赤にしたら負ける気はしないね」
「い、いや!? 別に顔赤くなんて無いし!?」
「……?」
『ムキになったら勝てない』という意味だったのだが、わんこは怪しい踊りの如く手をわたわたと動かして顔を隠す。やっぱり変だ。
「わんこ、何か隠してない? うん、嘘だね」
「まだ何も言ってないじゃん!?」
「言わなくてもわかる。目を見るまでもない」
「な、なにを……」
これは半分カマかけだったのだが、わんこは案の定落ち着き無く視線を彷徨わせ始めた。時折赤い顔でこちらを見たかと思うと、すぐさま逸らす。
ふむ、と私はコントローラーを置き、彼女の肩をぽんと叩く。
「怒らないから言ってみなさい」
「悪いことした前提なの!? しかも妙に優しい口調だし!」
「…………違うの?」
「違うよ!? なんで本気で驚いてるのさ! 私はただ――」
捲し立てて反論するわんこだったが、言い切る前に拗ねた顔で私を睨みつける。まあ、自分では見えないけど意地悪い顔をしていたんだろう、私は。
とりあえず深刻な話でもなさそうだ。なので、こういうときは突っついて遊ぶに限る。
「私は? ただ?」
「っつ……私は……」
「んっ?」
「もうー! 言わせないでよ恥ずかしいからー! 私は! オオカミさんと二人で旅行してきたのが羨ましくて寂しかったです!」
湯気を幻視しそうな程に顔を赤らめたわんこは、開き直ったように叫ぶと勢いよく背を向ける。良すぎて肘をテーブルに強打していた。
ぶつけた肘を抑えて悶絶する彼女に、私はしばし考え、
「羨ましかったのはどっち?」
言ってから、困らせる質問だったと思わず自省するようなことを口にしていた。適当な質問を重ねて打ち消そうと息を吸ったところで、
「オオカミさん。私もネコさんと温泉で一泊してみたかった」
それよりも早く、ため息混じりの答えが返ってきた。あまりにも率直な言葉を受け止めるには、私の用意は整っていなくて、
「……そう」
出てきたのはそっけない言葉。むず痒い頬と背中に少し居心地は悪かったが――まあ、悪い気分じゃない。
丸めた背中を向けるわんこの頭をゆっくりと撫でる。へそを曲げた子どもを落ち着かせるように、或いはしょぼくれた犬を元気づけるように。
「随分ムキになってたのも対抗心?」
「……うん。オオカミさん、すごい楽しそうに話してくれたから」
「そっか」
ぐしぐしと強く頭を撫で、そのまま彼女の体を抱き寄せる。抵抗する気もなく、されるがままに私の胸元に収まった彼女に腕を回した。
寒い日に心地よかった体温は、日溜まりが濃くなりつつある今でも熱を感じさせる。手を動かせばふわふわの髪にくすぐられ、薄くシャンプーの匂いがする。鼓動に合わせて緩やかに聞こえる呼吸が、どんな音よりも落ち着く。
私が一番好きな温もりを抱いている。こうするのもされるのも、好ましいのは彼女だから。だから、心配しなくても良い。忘れたりはしないから。
それを言葉として表現するには、私には役者不足であり思い切りも無い。なので、こうして無言の行動で示す。それでもわんこにはきっと伝わる――。
「……でもさ。オオカミさんにかなり気ぃ許してなかった?」
……一瞬体が跳ねたのはバレてない。顔を上げたわんこがジト目で見ているのもきっと気の所為。
しかしわんこは目を逸らさせてくれない。ぐっとこちらの顔を正面に向けさせ、強引に目を合わせさせる。
「随分と気持ちよさそうに寝てなかった? 前だったらもっとそっけなくしてたと思うけど」
「あれは切り取り報道であって、真実の全てではない。僅かに油断した瞬間を永遠へと加工した悪辣な手法」
「本当に?」
「本当。疲れていたから体は許したのであって心までは許してない」
「その言い方はちょっと……」
まだ疑わしい視線を向けるわんこ。どうして私が浮気者のような扱いをされなければならないのか。あれは気を抜いた隙をついたオオカミが悪いのであって、私はあるがままにしていただけだ。
だから、だ。そんな目をするのはやめないか。気を許すのは誰でもいいわけじゃないし、自分からこうするのはわんこだけだ。それだけは断言できる。
「……なら、いいけど」
不満が解消されたわけではないようだが、力を抜いたわんこは一層私に体を預ける。しかし、体に回した腕は、どこにも行かせないというようにがっちりとロックしていた。
「私がオオカミに取られると思った?」
「取られるっていうか……オオカミさんと遊んでばかりは、嫌だなって……」
「結構寂しがり屋ね」
「そうかも……ネコさんは、呼んだら来てくれるところに居て欲しい」
「そう」
私は、わんこを抱いたままゆっくりと体を横たえる。90℃傾いた彼女の頬を突くと、くすぐったそうな声を上げた。
「眠い……」
「春だからね……んっ、その撫で方気持ちいい……」
抱き寄せた彼女の髪を梳くように指を通していく。緩やかな指通りと滑らかな感触に目を細めるわんこを眺めていると、ベッドでくつろぐ犬を思い出させた。
零れそうな欠伸を噛み殺しながら、私は暗転しつつある視界で曖昧な言葉を紡ぐ。
「居なくなるのが心配なら……印でもつければ……」
そこまで言ったところで目を開けるのは限界だった。自然と落ちる目蓋を閉じ、ぼんやりとした意識の中で間近にある熱を感じる。
そうしていたのはどれくらいか。そこまで長くはないと思うが、何しろ夢現というのに相応しい微睡みにいたせいで、感覚は曖昧過ぎた。自分の手が触れているのが、自身がわんこの体かもわからない。
「――――」
ただ、じっとしていたわんこが体を擦り寄せたような気がした。小さくこそばゆい呼吸が首筋を撫で、一息置いてから鎖骨の辺りに柔らかい感触と小さな痛みが走った。
「んっ……」
軽く爪を立てたような痛みに思わず声が漏れる。同時に、抱いていた熱が何処かへと行ってしまった。宙ぶらりんになった腕は何もない床に落ち、こつんと床を叩いた音に目を開く。
「お、起きちゃったネコさん? な、なんでもないから……あ、あはは……」
真っ赤な顔でそういうわんこは顔を真横までそむける。何かを隠すように口元を抑え、落ち着かない様子でこちらを見ては目を逸していた。
「……涎でも垂らした?」
「ちがっ! あ、いや、そ、そうかも……そ、そうなの。だから離れただけで……」
「……?」
それは恥ずかしいだろうが、そこまで恥ずかしがる必要もないと思うが。服を確かめるが、とくにシミはない。無意識に動いていたのか、シャツが少しはだけていたが。
何となくはだけた辺りを撫でる。微睡みの中でそこに何かが触れた――気がしたが、自信はない。何だったのだろうと考えていると、わんこが勢いよく立ち上がる。
「喉乾いたでしょ? お茶、持ってくるねっ」
返事も待たずわんこはばたばたと足音を立て、部屋から階下へとせわしなく降りていく。別に気にしないが、私の家でお茶汲みをしなくてもいいだろうに。
「変なの……」
呟き、私はもう一度首元を撫でる。部屋にいるのは私だけなのに、すぐ近くにわんこがいる。むず痒い首元を撫でていると、何故かそんなふうに思えた。




