22話 ネコさんと温泉卓球
夕食を終え、大浴場で広い風呂を満喫して、部屋に戻ってゆっくりしようかと話していた時、
「ネコ、あそこにゲームがあるぞ」
オオカミが指差した先にあったのは、遊戯室と申し訳程度の札が付けられたスペースだった。
ぐるっと周囲を見渡すだけで全てが把握できるだろう小さな空間には、古めかしいゲーム筐体が待合室の老人のように立ち並んでいる。
「少し見ていく?」
「そうしたい。こういうのがノスタルジーというのだろう?」
「まあ、私達が生まれるずっと前のものだけど」
画面に焼き付きがある筐体を見ながら、私は答える。
この旅館も結構古そうだけど、昔からここにあったのだろうか。そう考えると、そこにはノスタルジーがあるのだろう。
とはいえ、
「しかし、こういうのも悪い気がするが……冷静になると今やりたいようなゲームではないな」
苦笑するオオカミが言う通り、ゲームセンターならいざ知らず旅館の本業は宿泊施設。メンテナンスだって良くはないし、そもそも人気がないから払い下げられたようなものもある。
けどまあ、それでいいんだろう。こんなところで本気になってゲームをする奴はいない。懐かしさに浸ることができれば、100円くらいの価値はある。子どもだったら未知の世界を楽しむことだって出来る。
けれども、今ここにいるのは女子高生が二人。懐かしさに浸る年齢でも無邪気に楽しむ年齢でもない。ちょっとした過去の記憶に触れて、それでおしまいだ。
部屋に戻ろうか、と言おうとした時、
「おっ、ネコ。卓球台があるぞ卓球台が」
何やらテンション高いオオカミが、部屋の端に置かれた卓球台に駆け寄る。こちらも周囲の筐体に負けず年季が入っていた。少なくとも本気の勝負には使えないくらいに、表面はスレているし剥げている。
そして、オオカミは輝かせた目をこちらへと向けていた。言わんとしていることはわかるが、
「パス」
「ええ!? どうしてだネコ!」
「そこまで驚くのがびっくりだけど……いや、普通に疲れるし、そもそも相手にならないでしょ」
私は運動神経が良いほうだとは思うが、オオカミと比べるのは風呂桶のお湯と火口を比べるようなものだろう。初めてだろうと関係ない。なんでも出来るんだ、こいつは。
「い、いやしかしだ。温泉で卓球というのは必ず行うルーチンではないのか? 温泉から上がったら牛乳を飲むような」
「もうそのルーチン崩れてるし」
「それは……そう、なんだが……」
唸りながら考え込むオオカミ。ここまで温泉卓球に情熱を燃やすやつなんて初めて見た。
そうしていたオオカミだったが、やおら置かれていたラケットを左手で握りながら宣誓するように言う。
「では私は左手でやる! これで互角だな!」
「どうかな……」
こいつだったら利き手じゃなくても普通に出来そうだけど。まあ、そうまでしてやりたいというなら……付き合ってやるか。こうでもなければ卓球なんてそうそうやらないし。
「いいぞいいぞ。やはり楽しまなくては損だろう」
ふんふんと鼻を鳴らすオオカミは素振りまでしてやる気十分といったところだ。そんなに気合い入れてするものだっけ、と思いつつ私は卓球台を挟んで向かい合う。
ピンポン玉を数回弾ませ、私は軽くラケットでトスする。利き手じゃない左手でラケットを握るオオカミだったが、ぎこちないながらも玉は返ってきた。
「やりづらそう」
「うん、実際やりづらい。しかし、これはネコもやりづらいということで結果的には有利なのではないか?」
「いや、勝負ってわけじゃないし」
温泉卓球なんて掃除中に男子がやるキャッチボールのようなものだろう。なんとなく楽しくできればそれでいいものだ。
そういう点だとわんこは中々上手い。程々に上手だが、いい感じに失敗もして笑いどころも作り出す。場を盛り上げる才能というのがあるのだろう。
そんなことを考えている間にも、玉はネットの間を行き来しその度に軽い音を響かせる。オオカミももう慣れてきたのか、返球のリズムも調子よくなっている。
じんわりと体も汗ばみ、心地よい熱が体を包む。食後の運動としては最適な――。
「っと」
つい力が入ってパターンから外れた玉は大きく弾み、オオカミは壁にぶつかる寸前まで下がってなんとか返す。
私の前にあるのは、がら空きになった卓上と打ち頃の玉。そうなると――つい、やってしまいたくなる。
コンパクトにラケットを振り抜き、浮いた玉が鋭い軌跡でオオカミ側の卓に突き刺さる。卓上から外れた玉はそのまま床へと落ちていき、
「おっと、いい玉だが甘い」
既にオオカミは復帰していた。玉は下から上へ斬るように跳ね上げたラケットに弾かれ、私の卓へと舞い戻る。輪郭をブレさせながら落下するそれが接地した瞬間を狙うが、
「っ!」
回転が掛かった玉は逃げるように卓から離れ、タイミングが外れたことであらぬ方向へと弾いてしまった。
なんとなく悔しさを覚えながら、膝をついて落ちた玉を拾う私は顔を上げ、オオカミを見る。
「……ふっ」
彼女は、誇らしげなドヤ顔でこちらを見下ろしていた。まだまだだね、と言いたげなそれにカチンと音が鳴った。
「今のは遊び気分だった。ここからが真剣勝負だから」
「ほう? それは楽しみだ」
不敵に笑うオオカミ。だが、その顔はすぐに悔しさで歪むことになるのだ。
私は卓球台に対して横向きに構える。そして、トスした玉を掬い上げ擦るように当てる。低い軌道でワンバウンド、そこからオオカミ側の卓上でバウンドし、待ち構えていたラケットに接触するが、
「おっ?」
しかし残念。回転が掛かった玉はそのまま当てるだけでは返せない。勢いの足りない返球は、ネットに引っかかりオオカミ側の卓上に落ちた。
これぞ初心者相手には厳禁の回転サーブ。ちょっと調子に乗ったわんこ相手に使ったら半泣きになった大人げない技である。
「すごいなネコ。いつも気怠そうなのに、こんな牙を隠し持っていたとは」
「ふん。甘く見られちゃ困る」
「いいぞいいぞ。やはり勝負とはこうでなくては」
ピンポン玉を跳ねさせながら、それと同じくらい上機嫌なオオカミは言う。不敵に笑う彼女は、私がしたように卓球台に対して横向きの姿勢を取り、
「確か……こんなふうに!」
掬い上げような奇跡を描くラケット。まさか、と思う間も無く鋭く自陣に侵入するそれをなんとか返すが、
「よっ、と」
ただ返しただけの浮き球はあっさりと捉えられ、次の瞬間には私の背後で虚しい音を立てていた。
「……なんでも出来るの、あんた?」
「出来ることだけだ。大抵のことは――まあ、出来るがな」
嫌味なく言って笑うオオカミ。私は、ふぅんと相槌をうって構える。
「ああ、友達は作れないものね」
がたん、と卓球台が揺れる。
呟きとともに放たれた緩い軌道のサーブだったが、オオカミは空振った勢いでそのまま卓球台に突っ伏した。
「……それを言うのはズルいだろう」
「さあ? これで私が1点リードね」
拗ねた目を向ける彼女に、私は笑い返した。
勝負事というのは、遊びであっても負けたくないと思うのが当然だろう。その程度の差こそあれどだ。
私だってそう思うし、オオカミ相手なら尚更そう思う。だからこそ、こうなったのも止むなしというか。
「…………つかれた」
風呂上がりの卓球に全力を出した結果、入る前よりも汗を掻いて体力も消耗し一歩も動けない。呼吸もゆっくりで、喉を通る冷たいお茶が沁みるように美味しい。
私は、なんとか部屋の風呂で汗を流し、そうしてから半日前と同じく座椅子に体を預け、
「だが、楽しかっただろう? 勿論私は楽しかったぞ」
やたらと上機嫌なオオカミに頭を撫でられるという恥辱を味わっていた。馴れ馴れしいことこの上ないが――丁度よい位置で預けた頭と髪を撫でる指が心地よいというのは、否定できない。
「……近い」
「これくらいは勝者の特権というやつだ。ふふっ、気持ちいいぞネコ……」
「なにいってんの……はぁ……」
いつもならまだ起きている時間だが、運動の後に風呂まで入ったとなればそれも崩れる。自然と落ちてくる目蓋を持ち上げようとするが、その元気も無さそうだ。
そうして、私は完全に目を閉じていた。時折頭を置いたオオカミの肩が揺れや小さな呟き声も、起こすには至らずむしろ適度な刺激となり、夢うつつを彷徨わせる。
「こうして……こう、か? 難しい……」
呟きにやや遅れて、くぐもったシャッター音らしいものが聞こえた。何をしているのかと考えようとしたところで、肩を叩かれた衝撃にそれは吹き飛んだ。
「ネコ、寝るなら布団を敷こう」
「うん……そう、する……ふわぁ……」
欠伸をした私は背を伸ばし、のそのそと立ち上がる。畳まれて置かれていた布団を引っ張って伸ばす。それをもう1回やったところで、どっちの布団で寝たいか訊ねようとオオカミに目をやった。
「ふふっ……むふふ……」
……何故かは知らないが、スマホを見ながら気持ち悪く笑っていたのでそっと視線を外す。お腹を撫でられる狼があんな顔をしていたような気がする。
そんなことを考えていると、テーブルに置いたスマホが通知音を鳴らした。わんこかなと通知を見ると、彼女からのメッセージと写真が添付されている。
『仲良しだねっ! ちょっと羨ましいな』
なんのことだと添付の写真を開き――深呼吸してからオオカミを見やる。
「ど、どうしたネコ? ちょっと怒ってないか? なんのことかわからないが、謝って済むならそうさせてほしいな!」
見るからに狼狽しているオオカミは、目を泳がせながら裏返った声で答える。もう自供したも同然の彼女の頬に私は手を伸ばし、
「ね、ネコ……?」
「勝手に写真を撮ったのは、まあ許す……いや、やっぱりそこから許せない」
「だ、だって『撮っていいか?』って訊いても絶対に断るじゃないか!」
「それは盗撮犯の理屈」
「わ、わりゅかった! すみゃん!」
頬を引っ張られたオオカミは面白い顔をしながら謝りだした。ちょっと溜飲が下がったが、すべすべした頬を触ってるとそれはそれで腹が立ってきたので続行することにしよう。
まったく、ちょっと気を許すとすぐこれだ。こういうのは他人に見せるものじゃ……いや、私も前に似たようなことしたような……。
これ以上は自爆になると本能で察した私は、頭を振ってそれを追い出す。が、その拍子に置かれていたスマホが視界に入ってしまう。
画面の中では、目を閉じた私と満面の笑顔のオオカミが肩を寄せていた。




