20話 ネコさんと年の瀬
さむい、と数え飽きた呟きと白い息がもれる。夏のときも似たような事を言っていた気がするが、それも随分前だ。
足元に広がるのは日に焼けたアスファルトではなく、真っ白な雪の絨毯であり、上等なそれは足を吸い込んでいく。ちっともありがたくないが。
「結構積もったね。あちこち真っ白だ」
だというのに、隣を歩くわんこは何故か上機嫌だ。こっちは歩く度に靴の中に雪が入って嫌だというのに、何がそんなに楽しいというのか。
左手をポケットに深く突っ込みながら歩く私に、わんこはそこまで?と首をかしげる。
「いやまあ、綺麗だし? それに雪降ってるときって静かでいいじゃん」
「素人め……除雪車が来たらそんなことも言っていられないのに」
「ずっとここ生まれここ育ちなんだけどなぁ」
わんこはそう言って苦笑いをする。それこそが不思議だ。雪と一緒に育って嫌にならない方が珍しい。
そして私は大多数派なので、コンビニから帰ったらさっさとストーブの前に座りたい。そしてアイスを食べたい。
「そうそう。アイスが溶ける心配しなくてもいいじゃない。夏だったら汗かきながら走って戻らないといけないのにさ。つまりお得だよ」
「良いとこ探しが上手いね……わんこは」
「でしょー? というか、アイス食べたいって言い出したのネコさんだよね?」
「そうだっけ」
「そうだよ!? しかも最初は私一人に買いに行かせようとしたよね!?」
「散歩になるかと思って」
「なんて無責任な……」
ブツブツと不満を口にするわんこだが、こんなことを言っても私が強く頼めば断らなかっただろう。だからこそ、こうして付いてきたわけだが。
「それにしてもさ、時間が経つのは早いね。春が来て夏が来て、短い秋が終わったらすぐに冬。それで一年が終わっちゃうってさ」
「本当に……時間は忙しない」
「でも来年もいい年だよ。良いことばっかりじゃないけど、トータルで見ればいい一年だったって言えるような」
今は曇天に覆われている空を見上げて彼女はそう笑う。それは都合のいい理屈だが……否定するようなものではない。そう望んでいないと、叶わないこともあるだろう。
ただ、否定はせずともからかいたくはなる。
「いい言葉。似たのを競馬場とパチンコ屋の前で聞いたことがある」
「それはさー! そういうんじゃないでしょー! せっかく名言を残したというのにネコさんは……」
私が予想した通りに頬を膨らませてむくれる彼女に思わず笑い声が溢れる。彼女には悪いが、やっぱりからかい甲斐がある。天気よりもよく変わる表情は、見ていて飽きない。
「そうやって人をからかってばかりだとバチが当たるよ!バチ!」
「そこを強調する意味はわからないけど、バチが?」
「そう、当たる。太鼓みたいに良い音で鳴らされるよ」
そのバチは罰であって枹とは関係ないのだが、わかっているんだろうか。時折くるくると無意味に回ってこちらを見る姿からは、とても思えないけれど。
そして、冬の道でそんなことをした奴の末路は決まっている。わんこがスケート選手でもない限り。
「はっ!? えっ!?」
新雪に隠れていたアイスバーンに足を取られた彼女は、驚愕の声を上げて体を盛大に蹌踉めかしていた。
わたわたと必死に両腕を振り、覚束ないステップを踏んでバランスを保とうとする彼女だが、それも無意味――。
「えっ」
溺れる者は藁をも掴む。そう、危機的な状況のとき人は掴めるものなら何でも掴んでしまう。きっと先人はそれがわかっていたのだろう。
それをわかっていなかった私は倒れかけたわんこにしがみつかれ、次の瞬間には首筋にぞわっとする冷たさを感じながら曇天を見上げていた。
「……」
「……わ、わざとじゃないよ」
「知ってる」
彼女の言い訳も顔もすぐ近くにあった。新雪の上に押し倒された形になるので、それも当然だが。しかし、ドギマギするような余裕も風情も何もない。雪は冷たいし、触れているのが首筋となれば余計にだ。
「バチが当たる、なんて考えるのがバチの元だったね」
「うう……悪いのは私だけどなんか理不尽……」
体を起こした私とわんこはお互いに雪を払い合う。ベタ雪でなかったのは不幸中の幸いか。
雪化粧とは言うが、これをずっと維持できるのは雪女くらいだろう。逆だったらもっと大変だったとわんこの長い髪を見て思う。
「怪我してない?」
「平気。体は冷えたけど」
「ごめんってばぁ」
謝るわんこを尻目に、私は手にした袋の中身を確かめる。少し雪が入ってしまったが、これくらいは大丈夫だろう。
家に帰って温まる理由が増えたところで私は立ち上がろうとし――じっとわんこが私を見つめていることに気がついた。
「どうかした?」
「ネコさんの左手。手袋してないなって」
「ん……ああ、片方は家に忘れてきた。ポケットに入れたと思ったんだけど」
「そっか……あっ、じゃあ」
わんこはそう言って自分がつけていた右手の手袋を外しだす。貸してくれるのはありがたいが、寒空の下で素手を晒させるのは申し訳――右手?。
「はい、それじゃあ早く帰ろう。やっぱ外は寒いしね」
疑問の答えはすぐに出た。わんこは、手袋を外した右手を私に差し出して笑っている。
私はその手をじっと見つめてから、自分の両手を使って立ち上がる。
「ああちょっと!? そこは手を取るところじゃない!?」
「右手を左手で掴んで立ち上がる身になって」
「……あっ、そうか。掴みづらいね確かに」
納得してくれたようで良かった。じゃあ、さっさと家に帰って、
「じゃなくてさーほらほら私の手あったかいよ?」
「いや。子どもじゃあるまいに」
「子どもの心を忘れてないんだよ。何が嫌なのさ」
「そういう誰かに見せつけるようなのは嫌い。見世物じゃない」
「ふーん。見られるのが嫌なの?」
だったらさ、とわんこは私の左を強引に取る。そして、自分のコートの右ポケットに突っ込ませると、その上から自分の右手を重ねた。
「ほら、コレなら見えないしいいんじゃない? こっちのがあったかいと思うし」
「そういう問題じゃない……」
そうボヤいてみるが、わんこは全く気にすること無くニコニコと私を見つめていた。重なった手が剥がれることも無さそうで、私にできるのは観念して並んで歩くことだけだ。
しばらくの間、二人無言で歩く。いや、正確に言うなら無言なのは私だけか。隣のわんこは気分良さそうに鼻歌を流していた。
「ネコさん」
「なに」
「来年もさ、良い一年だといいね」
ただ二人並んで歩いて手を重ねているだけだというのに、彼女はそれが幸せだというように弾んだ声をあげる。そんなふうに思える気持ちは……まあ、少しくらいは、わかる。
寒い、と私は呟いてポケットの中にある彼女の右手を握りなおす。歩みが遅くなる真っ白い絨毯も、今は少しだけ心地よかった。




