17話 ネコさんと試験勉強
寒さもだいぶマシになり、春の足音が壁越しに僅かだが聞こえるような日――要するにまだ寒い日だ。
「一人で帰るところか?」
そんなこととは関係なくやってくるテストに備え、さっさと帰路へ着こうという私に掛けられた声に振り返る。
「そんなところ」
私は、靴を履き替えながら答える。連絡無しでオオカミと下駄箱で顔を合わせるのは珍しい。クラスが違うし、私達は駄弁ったりすぐ帰ったりで下校時間がブレるからだ。
「わんこはどうした?」
「図書委員の仕事。ついでにテスト勉強していくって」
「ん、そうなのか。二人でするものだと思っていたが」
「あの子は私と一緒だと遊びたがるから」
根は真面目なので最初はちゃんと勉強するのだが、ダレてくるとチラチラとゲーム機に目を向けだし、本格的に飽きてくると隣にやってきて『ちょっと休憩しない?』と甘えてくる。
そして、古今東西この手の『ちょっと』が『少し』という意味であった試しは無いわけで。なので、二人でテスト勉強は滅多にしない。
それを聞いたオオカミは、困ったように頬を掻く。
「むう、少し頼みづらくなったな……だが、ここは敢えていかせてもらおう」
「何の話?」
「つまりだな、良ければ私と一緒に試験に備えないか?」
「まあ、いいけど」
「えっ、いいのか!?」
何故か言い出しっぺのオオカミが驚いた声を上げる。周りから注目されているのでやめてほしい。
信じられないと私の肩を掴んだ彼女は、確認するように何度も繰り返す。
「いいのか、いいんだな! 言質はとったぞ!」
「そこまで必死だと断りたくなってきた」
「それは困る! そうなったら、浮足立った体が地の底まで沈むことになるだろう!」
「何言ってるの?」
それと。下駄箱に体を押さえつけるのをやめてほしい。私が迫られているみたいではないか。
「あ、ああ……すまない、少し我を忘れていた」
「これで少しって、我を持ちすぎじゃない?」
「そうもなろうというものだ。何しろ……っと、騒ぎすぎたな」
バツが悪そうな彼女の言う通り、結構な声を出していたせいか下校準備中の生徒たちが、何事かという目を向けていた。それがオオカミともなれば尚更だろう。
ともかく、この場は居心地が良くない。オオカミが何を考えているのかは知らないが、まずはここを離れよう。
「そうしよう……詳しくはネコの家で話す」
「うん……うん?」
ごく自然だったから流しかけたが、いつの間にか私の家ですることになっている。それも含めて話をしたいというのに、
「行こう、ネコ」
これまた当たり前のように私の手を引いて先導する彼女に掛ける言葉は出てこなかった。
「まあ、楽にして」
「お邪魔する」
結局なし崩し的に私の家へ向かうことになり、オオカミを部屋へ迎え入れていた。座椅子に彼女を座らせたところで、私もベッドに腰を下ろす。
「ネコの部屋……綺麗だな、ちゃんと整頓されている」
「物が少ないだけ」
「ふむ? それにしてはゲーム機らしいものが多いが。そのモニターも意外だな」
彼女の視線の先にあるのは、本棚の空きスペースに仕舞われたゲーム機とカセットロム。3世代前のものもあれば、その互換機まで混ざっている。傍に置かれたモニターも、学生が使うには贅沢と言われそうな大きさだ。
これらは自費で買ったわけじゃない。全てある人からの中古品だ。
「わんこのお姉さんがゲーム好きで、いらなくなったものをもらったの。捨てるのも勿体ないから」
「姉が居たのか…やはり妹というのは間違いではなかった……」
「あんたは間違った方に進んでない?」
「そんなわけないだろう、この気持ちが間違いであるわけがない」
酔ってる者ほど酔ってないと言う。爽やかな顔をするオオカミを見ていると、そんなことが思い浮かんだ。
まあ、それはいい。今更だ。とりあえず今気になるのは、
「オオカミ、どうして急に一緒に勉強しようなんて言い出したの?」
その問いに彼女は、一転して落ち着かない様子で目を忙しくなく動かしていた。悪戯がバレる前の犬というか、申し訳無さそうな雰囲気を出している。
どうしたものか、と考えていると、オオカミはおずおずと口を開く。
「その……怒らないか?」
「理由次第で」
「うっ……まあ、そうなるな。よし、なら正直に行こう。私は、別にテスト勉強がしたいわけじゃない」
「ふぅん」
「別になんだって良かったんだ。それこそ居残り掃除とかでもな。ただ、その……」
「要点を言って」
「気が短い……ええと、だからだな、その、私は……」
口どもっていたオオカミは、頬を赤く染めて絞り出すように言う。
「……寂しかったんだ。もっと私にも構ってほしかった」
「……」
「だって、ワンコとばかりずるいじゃないか。私だって、ネコとベタベタしたいのに……」
拗ねたように言って、いじけた上目でこちらを見やるオオカミ。普段の自信に満ちたキリッとした顔からは考えらない子供っぽい顔と態度。後半の物言いに引っかかるところがあったが、それでも――。
「……ネコよ、どうして顔を背ける」
「いや、不覚をとった」
オオカミが顔が良くて性格も――ズレてはいるけど良いのも知っている。けど、『可愛い』なんて思ったのは今日が初めてだった。それが妙に悔しい。
「よくわからないが、私からは以上だ。卑しい女と笑いたければ笑うが良い」
「そこまで卑下する必要ある?」
黙っていればかっこいい奴なのだけど。だから周囲に誤解もされるのだろうが。
私は小さく溜息を付きベッドから降りる。オオカミと目線を合わせると、彼女は気まずそうに視線をそらした。私は、彼女の頭にそっと両手を伸ばし、
「わっ、な、なにをネコ?」
ぐしゃぐしゃにかき回してやる。透き通るような銀髪は見た目通り手触りも良くて、ちょっと羨ましい。そんな髪をボサボサにするのは、背徳感と高揚感を覚えてしまう。
ひとしきり終えて満足した私は、呆けた顔をするオオカミに合わせるように乱れた髪に、つい吹き出す。
「構ったけど、これで満足?」
「あっ……ふ、ふふっ……ああ、良いな。こういうことをしたかったのだよ私は……」
「それは」
良かったと続けて離れようとした私の腕が掴まれる。突然第三者が現れるわけもなく、真剣な顔をしたオオカミが逃すまいと掴んでいた。
なにか、前にも、あったような。忌まわしい記憶から目を背けたいが、オオカミはずいっと迫ってくる。
「だが、満足はしていない。もっと、もっとだ」
「……それはどういう」
「具体的にはだな、あの棒状の菓子をお互い端から食べ合うアレをしたい」
「正気?」
彼女の言うそれは、構うの限度を超えている。そういうのは、酒の勢いや付き合ったばかりのカップルとか――要するに熱に浮かされた連中がするものであり、素面でするようなものではない。
「疑う余地もなく正気だ。仲の良い女性はするものだとネットで見たぞ」
けれども、目の前のオオカミは完全に浮かれている。友人の部屋に来ただけでこうとは、これだから一匹狼は。あと偏った情報を信じるんじゃあない。
ともかく、切り抜けなければ。肝心の菓子が無い……と言っても納得するまい。買ってこようと言われておしまい、私の家である以上逃げ場はない。
ならば、
「……その気は無くても勉強をすると言ったのに。嘘をついたの?」
若干本気の失望を込めた目でじっと彼女を見つめる。彼女の性格的に『嘘をついて乗り込んだ』と思われるのは辛いはず。
「むっ、それは……確かに」
目論見通り、オオカミの手の力が緩まる。よし、後はもう少し押せば……。
「オオカミはもっと真面目だと思ってたけど、違う?」
その言葉に、オオカミは頭を振って呟く。
「いや、違わない。君の言う通りだ、ここには試験勉強のために来たんだ。まずは勉強をしよう」
ああ、良かった。言ってわかる程度にはまだ正気だったらしい……うん? まずは、と言ったか?
「あの、オオカミ。勉強の次は何をするつもり」
「棒状の菓子を端から食べ合うアレを」
駄目だった。もう手遅れだ、手の施しようがない。人との触れ合いを求める餓狼と化している。そのまま飢え死んでくれないだろうか。
「ネコは嫌なのか?」
「当たり前……そういうゲームは好きじゃない」
「では、どういうゲームが好みだ?」
「もっと健全な……例えばテレビゲーム」
苦し紛れで放ったその言葉。しかし、それが呼び水となり閃くものがあった。彼女も納得せざるを得ず、尚且乗ってくるだろう条件が。
「オオカミ、私とゲームで対戦して勝てば……そっちの要求を飲む」
「なんと……本当かネコ」
目を見開き顔を近づけるオオカミを制しながら私は続ける。
「本当。けど、負けたらすっぱり諦めて」
「チャンスさえ貰えるならそれでいいさ。負けたら諦める、二言はない」
予想通りの言葉を返すオオカミ。私は心中でガッツポーズをしていた。勝負を呑ませた時点で、私の勝ちはほぼ決まっている。何故なら、
「勝負は、これで行う」
カセットロムの山から取り出したのは、私が生まれる以前に大ブームだったという格闘ゲーム。それを互換機に挿入し、コントローラーをオオカミに渡す。
「ふむ、対戦格闘ゲームというやつか」
オオカミは、デモ画面を興味ありげに眺めつつ、コントローラーをカチャカチャと弄る。その目と手付きに、このゲームは初めてだと確信する。彼女はまったくの素人だ。
「ううん、随分濃いな……兄たちを思い出してしまうな」
「そういう時代だったんでしょ。あっ、その巨漢がオススメ。ソ連だし」
「強いのか?」
「うん」
『近づいて一回転コマンドを成功させ続けられるなら』という言葉は飲み込み、私は曖昧に頷く。
「ネコは……なんだそれは、インドか?」
「ヨガだしそうじゃない?」
「ヨガは格闘技なのか?」
「火吹けるしそうなんじゃない?」
「ヨガは火を吹くものなのか?」
「さぁ」
まあ、そんなことはどうだっていい。重要なのは、私のキャラはオオカミのキャラにとても相性が良いということだけだ。卑怯と言われようとも、このタラシオオカミの牙から逃れなくてはならないのだ。
「じゃあ、始めようか」
「中々難しいのだな。触ることも出来ないとは」
一ラウンド目は私の圧勝で終わった。にも関わらずオオカミは楽しげで、苦々しさは一切見当たらない。わんこだったら、拗ねた目でこちらを見てくるところだが、性格の差だろうか。
けど、それはいいか。とにかく勝ちさえすれば――。
「しかし、楽しいな」
何気ないオオカミの呟きに、思わず動きが止まる。楽しい、と言ったのか。こんな一方的なゲームだったというのに。
「皮肉?」
「ん、そんなつもりはないぞ。というか、楽しいに決まってるじゃないか。ネコとゲームをしているのだから」
彼女は、本当にそう思っている。笑顔を見れば、そのくらいわかる――わかってしまう。
少し胸が痛んだ。私はただ勝つための勝負をしているというのに、オオカミは勝負そのものを楽しんでいる。最初から勝てない勝負だと知らずに。
「……オオカミ」
「だが、勝たせてもらうぞ。私だってネコとベタベタしたいんだからな」
真剣な顔で言い放った言葉は、私が抱いた逡巡を一気にぶっ飛ばすには十分すぎて、何を言おうとしたのか忘れてしまうほどだった。気を使おうと思った自分が阿呆らしい。
「…………オオカミ、必殺技を教えるの忘れていた。一回転プラスパンチでスクリューパイルドライバー」
……まあ、これくらいは良いだろう。何もわからない相手をボコボコにするのは、私の心に良くないものを残す。ただ、それだけだ。
「ほう、一回転か。一回転……どうやってもジャンプしてしまわないか?」
「そこは自分で考えて」
スパルタだな、と呟くオオカミ。手元でコントローラーをカチャカチャするが、画面のキャラは無駄に飛び跳ねるばかり。そこを攻めてもいいが、そこまで必死に勝ちにいく必要は――。
「ああ、着地したときに入力すればいいのか」
そう呑気そうに言うオオカミが眺める画面では、私のキャラが杭打機の如く頭部を叩きつけられていた。三割減る体力ゲージと眼の前の光景に理解が追いつかない。
いやこれは偶然、ラッキーに過ぎない。近づかれてしまったが故に起きた不幸な事故。いくらオオカミが天才じみていると言っても、二度目は無い。
私は、半ば言い聞かせるようにしながら必死にボタンを連打していた。そんなことをしても意味はないのだが、そうせずにはいられない。このまま負けるという疑念が纏わりついてくる。
「なるほど、起き上がりに攻撃をガードさせてから投げるんだな」
だが、オオカミは一回や二回やった程度では思いつかないし、実行も出来ないはずのテクニックを事も無げに見せつけてくる。もう疑念は確信に変わった。このままでは、負ける。
「おお、ネコもなんだかやる気だな。いい勝負になりそうだ」
姿勢を正した私にオオカミは楽しげだったが、こっちにはそんな余裕は無い。塩試合だ、チキンだと言われようとも勝たなければならないのだ。そうでなければ、自分から墓穴を掘っただけになる。
私は、強くコントローラーを握り直し、画面を睨みつけた。
「…………勝った」
「そして私の負けだな。惜しいところだったが」
爽やかな敗北宣言も、今の私にはどうでもいい。とにかく、疲れた。こんなに真剣にゲームをしたのは生まれてはじめてかもしれない。
はぁ、と息を吐いてベッドに背を預ける。どうしてテスト前にゲームで勝負なんてしているのだろう。
「テスト勉強だったはずなのに……なんでこうなった?」
「それは……済まない。少しはしゃぎ過ぎた」
少し? とは思ったが、口に出す余裕はなかった。気怠い目をオオカミに向けると、彼女は少し躊躇いながら続ける。
「しかし、それでも言わせてもらうなら……楽しかったな。短ったが久しぶりに思い切り遊んだ気分だ。ネコはどうだ?」
「私は……」
テスト勉強だと言ったのに騒ぎながらゲームして、その切っ掛けも熱に浮かされた言動で、挙げ句に疲れ果てるくらいに真剣に勝負して
――それが楽しかったか?
そんなもの決まっている。
「楽しかった。とくに勉強をサボってやるゲームは」
「ははっ、では私も共犯だな」
オオカミは、弾んだ声で言ってウインクをする。絵に描いたようなキザな真似だが、絵みたいに様になるから困る。
「さて、そろそろ勉強に戻る……どころか始めてもいなかったな」
「そうだった。仕方ないけどしよう」
十分遊んだし、オオカミの言う通り勉強は始めてもいない。さっさと気持ちを切り替えて、本来の目的を――。
「しかし、さっきの勝負は白熱したな。次にやれば勝つのは私かもな」
どこか得意げなオオカミの言葉に、カチンと音が鳴った気がした。発生源は私の頭。前にもこんなことがあったが、その時も同じ音が鳴っていた。
つまり、得意分野で素人に負けたくないという原始的な闘争心。それ故に抑え込むのは難しい。
「オオカミ、だったらもう一回。今度も私が勝つし」
「ん、勉強は」
「後でも出来る。明日でもいい」
「……! そ、そうかそうだな! 明日もすればいいだけだな!」
コントローラーを押し付けられたオオカミは、何故か嬉しそうに何度も頷いていた。ともかく、勝負する気があるならそれでいい。
「負けないから」
「こちらもだ! さぁ楽しもうじゃないか!」
妙にテンションが高いオオカミと画面に睨む私は肩を並べてコントローラーを握りしめる。
その間も時計の針は回り続けてることを思い出すのは、夕食に呼ばれる頃だった。
「……わんこ」
「私は一人で勉強してたのに、ネコさんはオオカミさんと遊んでたんだー、ふーん」
「いや、それは」
「『二人で居たら遊ぶから』って言ったのはネコさんなのになー」
「ええと」
「いいよいいですよ。私は一人で勉強するから」
「……今日もオオカミ来るから、わんこも来ない……来て欲しい」
「えっ、ホント? 行く行く!」
「…………チョロい」
「なにか言った?」
「何も」




