14話 わんことラムネ
「もうさ、夏だよね」
「それが?」
「だからこう、なんか夏っぽいことしたいなって」
「いや。この状況だけで夏っぽさは十分」
ネコさんはそう言うと、ベンチにもたれかかり空を仰ぐ。木漏れ日に目を細めてダレる姿は、暑さにやられる猫そのものだ。
かくいう私も暑さには参っている。膨らんだ髪が熱気を吸うせいで、首から背中がサウナみたいだ。纏めてあげているものの、それでも暑いものは暑い。
そんな暑い日の外にどうして居るのかと言えば、間近に聞こえる祭り囃子が理由である。普段は少年野球がボールを追いかけるグラウンドには、町内会による縁日が所狭しと並んでいた。
「騒がしいのは苦手……」
「いいじゃん、せっかくテスト終わりだったんだし。こういう地域密着感あるお祭りもさ」
「くっつきすぎると暑い……」
おもちゃを振り回しながら走り去る子供の声に、ネコさんは鬱陶しげに溜息をつく。
喧騒から離れたこちらでは、ひっきりなしに訪れる子供たちの自転車が停められている。ここだけ見ていると、少子化が実は嘘じゃないかと思ってしまうくらい。
「けどさ、懐かしくない? 焼きそばとかたこ焼きとか、あとりんご飴。ノスタルジーを誘うっていうか」
「ノスタルジーに浸るような歳じゃない」
「でも好きでしょ? お祭りの食事」
「原価を考えなければ」
「夢も希望もないことを……良いんだよ、あの値段は空気代なんだ」
「空気にお金が掛かるなんて、素晴らしいディストピア」
ううむ……完全に暑さにやられているのか、出てくる言葉の尽くがネガい。いつもならもうちょっと付き合う態度を見せてくれるんだけど。
まあ、涼しい家に帰らずこの場にいるというだけで、気力を使い果たしているのかもしれないか。うん、だったらここは労いの一つでもくれてやろう。
私は、ダレるネコさんからそっと離れて賑わう縁日へと向かう。目当てのものは、氷が浮かんだ水槽を泳ぐ夏の定番だ。
二人分のそれを両手にベンチへ戻ると、気がついた様子のないネコさんの背後に静かに回り込む。そして、
「ひゃっ!?」
キンキンに冷えたラムネを首筋に当てられたネコさんは、可愛らしい声を上げて飛び上がる。
きゅうりに驚く猫ってこんなだったなーと微笑ましい気持ちになっていると、振り返ったネコさんに睨みつけられる。耳まで真っ赤なのは――うん、暑さのせいということにしておいてやろう。
「なぁにを余裕ぶっているのかこの駄犬」
「ふぃまへんゆふぃてきゅださい」
頬を引っ張るネコさんに許しを請いつつ、献上品のラムネを差し出す私。ネコさんは、ラムネを引ったくるように受け取ると、何もなかったように勢いよくベンチへ腰を下ろした。
まあまあとそれを宥めつつ、私も隣に腰を下ろす。
「こういうのはお約束なんだって。むしろしないのはラムネに失礼」
「ラムネの尊厳よりも私の尊厳を優先すべき」
「それは、まあ、ほら。ぬるくならないうちに飲もう?」
「なんて雑な話の切り替え……」
ブツブツ言いつつも、ぬるくなるのは嫌だったのかそれ以上ツッコまれることはなかった。彼女は軽く振ってからキャップを外していく。
私も封を切って外したキャップから、押し込むためのプラ製の道具を外す。そう言えば、このビー玉を押し込むやつって、何か正式名称とかあるんだろうか?
しげしげと眺めていると、水が吹き出す心地良い音が聞こえた。横を向くと、ネコさんのラムネの口からは、多めに炭酸が溢れている。口を抑え込まなかったため……と見るのは素人である。
「ほう、炭酸抜きラムネですか……大したものですね」
炭酸を抜いたラムネは刺激が極めて弱いらしく、夏季には愛飲するネコさんもいるくらいです。
それに、頬を流れる一筋の汗と木漏れ日。これも夏の風物詩です。しかもセミの鳴き声も聞こえて視聴覚バランスもいい。
「何をしょうもないこと考えながらじろじろと見ているのか」
「いやぁ、夏だなぁって。ってしょうもないって決めつけるのはひどくない?」
「決めつけではなく理だから」
「なんて横暴な……神にでもなったつもりかー」
「そう。今のうちに和解しておくべき」
「えー。じゃあ、りんご飴とたこ焼きどっちが良い?」
「たこ焼き」
「和解成立」
がっしりと握手を交わす私とネコさん。こうして世界は救われた。
「それと、馬鹿言ってないでラムネ飲んだら」
「切り替え早いよねネコさんって」
そこが良いところはではあると思うけど。そんなことを思いつつ、私はビー玉を押し込む奴を瓶の口に当てる。ここでのコツは、瓶を垂直ではなく傾けること。そうすると吹き出しにくくなるのだ。
ふん、と気合を入れて押し込むと軽い音をたててビー玉が沈んでいく。吹き出した量も最小限、これは完璧ではないか。
「かんぱーい」
「何に?」
「この世界に?」
「範囲が広すぎる」
そう言いながらも、ネコさんは差し出した瓶に自分の瓶をぶつけてくれた。涼しげな音に目を細めて、お互いに口をつける。
特別でもない有り触れた味だけども、夏の日に飲む瓶ラムネはそれだけで特別なのだ。青みがかったガラスに透ける日差し、人と同じように汗を掻く瓶、からからと鳴るビー玉。どれもが今が夏だということを教えてくれる。
「暑いのは苦手だけど、こういう時は好きになれるんだ」
木陰に吹き込む風が項を撫でていく。それだけで今日の暑さを許してやっても良いくらいに、この瞬間が心地よい。
「……ふぅ。まあ、同意しておく」
ダレていたネコさんも、少し活力を取り戻したのか控えめな肯定を返してくれた。
あとは、ラムネを飲みきってエネルギーを補給して、屋台を回って食事をしながら他愛ないことを話して……うん、やりたいことはまだまだある。
そうと決まれば、エネルギーを補給してしまおう。私は、ラムネ瓶を傾け――。
「むっ」
「何してるの?」
「ビー玉が飲み口に……これって不便だよね」
飲み口を塞ぐビー玉を舌で押し出し、再び瓶を傾ける。しかし、すぐに塞がってしまい残り半分を飲み干すことが出来ない。
「まあ、この不便さも醍醐味だよね」
そう私が言うとネコさんは、とても残念なものに向ける目と顔をしていた。まるでマドラーでカレーを食べている人を見たかのようだ。
そんな目を向けられる心当たりのない私が首をひねっていると、ネコさんはラムネ瓶のへこんだ部分を指して言う。
「ここって、何のためにあると思う?」
「ここ? えーなんだろ……オシャレポイント?」
「……」
「あー冗談じょうだん。わかってるってば、ここは持ちやすいようにするための工夫だよね」
確信を持った答えに、ネコさんが向ける目の温度がさらに生暖かくなっていく。ハンガーを付けたまま服を着ている人に向ける目はこんな感じかもしれない。
そんな顔をしたまま、ネコさんは外気よりも生ぬるい調子で言う。
「……へこんだ部分を下にして」
「うん」
私が言われた通りにすると、
「その部分にビー玉が来るように傾けて」
さらにそのとおりにして、
「で、飲む」
そうすると――。
「ハッ! ビー玉が引っかかって口を塞がない! そうか、だから職人さんは瓶をへこませていたんだ!」
「…………」
「……あの、うん。はい……毎年ラムネ飲んでたのに知らなかったです……」
「…………」
「だからそんな目で見ないで……恥ずかしくて死んじゃう……」
「毎日新しい発見がありそうで楽しそう」
トドメの皮肉に私の頬がさらに焦げていく。真夏の太陽だって今なら肩を叩いて慰めてくれそうだ。
だが、まだ、まだだ。まだ私は終わっちゃいない。
『オオカミさんってラムネ飲んだことある?』
取り出したスマホに打ち込んだ文面は、この場には居ないオオカミへのメッセージ。彼女なら、きっと私を……!
「……それ、望んだ答えだったとして意味がある?」
「仲間が居て独りじゃないって思える!」
「……虚しい人」
ええい、そんなことはどうだって良い。紙風船のごとく薄っぺらでスカスカだろうと、仲間意識があれば人はどうだってなるんだ。
返信を待ったのは十数秒、すぐに返事が来た。
『いや、ないな』
『じゃあこれってなんのいみがあるとおもう?』
写真と共に送ったのはラムネのへこんだ部分。スマホを握りしめ、画面を睨みつけて待ったのは先程よりもさらに短い。大して迷わずに答えたのだろう文面は、
『たぶんビー玉を引っ掛けるんじゃないか』
文句のつけようがないほどに正解で、私に出来るのは『あたり』と三文字を打つことくらいだった。
落とした肩がそっと叩かれる。もういいんだ、と言うようなそれに泣けてしまいそうだ。
「……私は独りだったよ」
「悲しいね、わんこ」
「うん、とっても悲しい……」
自身が思っている以上に自分は無知なのだということを知った夏の日であった。




