12話 ネコさんとたい焼き
とくに理由らしい理由はない。ただ天気が良くて、今日は休日だった。それくらいの理由で――しかし、普段の私なら鼻で笑うだろう理由で目的も無く散歩へと出掛けていた。
休日の自然公園は、それなりの人通りがあり、楽しげな子供の声も聞こえてくる。けれど、面積に対しては余りにも少なすぎ、ベンチに腰掛けぼうっとしているだけで耳に届かなくなる程度のものだ。
人の多いところは好きではないが、これは嫌いではない。布団の温もりよりも直接的だが、差す日差しの暖かさと時折吹く冷たい風も心地が良い。
つまり、気まぐれを起こして正解だったのだろう。たまには違う場所でひとり時間を過ごすのも悪くない。
目を閉じ、ぼんやりとした頭で考える。そうして微睡んでいると、肩に何か掛けられた感覚があった。
「……」
目を開けるべきか考えていると、すぐ隣に誰かが座った気配が続く。出来るだけ音を立てないように座ったそれに、私は小さく溜息をついて目を開く。
「誰にでもこういうことしてるの、オオカミ」
声をかけられた彼女は、小さく声を上げると目を丸くしてこちらを見やる。
「起きていたのか? ああいや、起こしてしまったか?」
「起きてた。で、誰にでもこういうナンパをしてるの」
肩に掛けられたジャケットをオオカミに返して尋ねる。
「誰にでもじゃないし、ナンパでもない。風邪を引いたらいけないと思っただけで、他意は無い」
「そう」
至極真面目な顔で答えるオオカミに、私は適当に返す。
他意が無いというのは嘘ではないだろうが、勘違いされることは考慮していないだろう。誰にでもではない、というのも疑わしいところだ。
じとっとした私の視線に気がついたのか、オオカミは咳払いすると空を見上げながら言う。
「あーネコはどうしてここに? 一人で散歩なんて珍しいじゃないか」
「大した理由じゃない。ただの気まぐれ」
「そうか。まあ、そんな気にもなるいい天気だ。やっと春が来たというところだな」
「オオカミは?」
「私か?」
尋ねられた彼女は、気恥ずかしげに頬を掻く。
「桜が咲き始めた、と聞いたので花見でも……と思ったんだが、それはもっと南の話だった。ここはまだまだ先のようだな」
オオカミはそう言って辺りを見渡す。時期が来れば花見客で賑わうだろうが、今は葉が茂るばかりで僅かに蕾がある程度だ。
「そうなる。月が変わる頃には咲くだろうけど」
「そうなるか……ロシアほどでは無いが、ここも広い大地だということを失念していた」
「結構抜けてる。わんこほどじゃないけど」
「はは、そうだな。彼女は中々の天然だ。だがそれが良いというか……だから気に入ったというか……とにかく、愛らしい。あんな妹が欲しかった」
「妹?」
「そう、妹だ」
うんうんと力強く頷くオオカミ。聞いても居ないのに、彼女は熱の入った口調で続ける。
「大体うちの兄共は脳筋が服を着ているようなものだ。暑苦しいし愛らしさなど欠片もない。しかしそれでも彼らは兄なのだよ。先に生まれたというだけで『お兄ちゃん』と呼ばれ、頼られる。何とも不公平な話ではないか」
「何が?」
「つまりだ、末っ子は頼られることは無いし甘えられることもない。私だって『お姉ちゃんすごい』なんて言われながら日々を過ごしたかったとも」
「……マウントを取れる相手が欲しかった?」
「おおっと、雑なまとめ方はやめてくれ。私を姉と慕ってくれる妹が欲しかったというささやかな願いだ。はあ、ワンコに頼んだら呼んでくれないだろうか……」
物憂げな溜息をつく横顔は、春の日差しにやられた妄言を吐いた人物とは思えないほどに整っていた。だからこそ、彼女を見下げることになるのだが。
「……いや、少し言い過ぎたというか調子に乗りすぎた。だけど、ネコだって一人っ子なら思ったことはあるだろ? もしお姉ちゃんだったらと」
「無い。部屋が狭くなる」
「なんて現実主義者だ……むしろその方が触れ合う機会が――やめよう、これ以上ネコからの評価を落としたくない」
「それが賢明」
まったく、末っ子はお姉さんぶりたがるというが、ここまであけっぴろに願望を垂れ流す奴は初めてだ。普段のタラシな態度も、年上のように振る舞いたい心の現れなのだろうか。
そんな呆れた私の目に危機感を覚えたのか、オオカミは焦った様子で屋台の一つを指さして言う。
「と、ところで口が寂しくはないか? あそこのたい焼きなんて会話のお供に最適だと思うが、どうだろうか?」
「……まあ、悪くない提案。オオカミにしては気が利いている」
「そうだろうそうだろう。では早速行こうではないか」
「すぐそうやって手を握ろうとするのは減点1」
そんなことを言い合いながら、私達は屋台へと近づいていく。距離が迫るごとに漂う生地と餡の甘い匂いもはっきりとしだし、実に食欲がそそられる。
「餡とクリームか。シンプルだな」
オオカミが呟いた通り、掲げられた簡素なメニューに書かれている品は、餡とクリームの二種類のみ。今どきにしては随分と少ないが、
「良く視て。あれは天然もの」
「天然?」
コンロに置かれているのは分厚い焼型だが、その大きさは一つ焼ける程度しかない。しかし、それ故に火の通りは大型の焼型を上回り、それによってカリカリの生地を楽しむことが出来る。手間も体力も掛かるからこそ、メニューも最小限に絞っているのだ。
「ネコは詳しいな……ということは、味にも期待できそうだ。さて、どちらにする?」
「餡」
「では私はクリームにしよう。店主、餡とクリームを一つずつたのむ」
オオカミは注文を店主に告げると、二人分の代金を手渡す。確認した店主は、頷いて型に生地を流し込んでいく。
その手さばきを興味深そうに眺める彼女に、私は言う。
「助かる。小銭切らしたところだったから」
「ん? ここは私が払うから気にしなくてもいいぞ」
「奢り? それは」
「悪い、などと言ってくれるな。これくらいの格好はつけさせてくれ」
また口説いてる、と私は呆れ気味に言おうとして、それは出来なかった。
オオカミが浮かべていた表情は、気取ったものではなく素のはにかみ顔だったから。
「君には少しくらい格好良く見て貰いたいんだ。皆が思ってるほど私は格好の良い人間ではないが、それでもだ」
「……見栄を張ってるつもり?」
「なんだ、その……友人には格好良く見てもらいたいだろ。今さら手遅れかもしれないが」
「それはその通り」
「はっきり言うな……ああ、けどそういうところが好きだ」
「……はあ、息をするように口説く」
結局口から出た言葉は呆れだったけど、少しだけ羨ましかった。私は、わんこやオオカミみたいに思っていることを素直に言うのは苦手だから。
だから、思っていても言ってはやらない。そんなことしなくても格好いい奴だってわかってる、なんて。
「はは、そういうつもりはないんだが……ああ、出来たみたいだ。ほら、ネコの分」
ただ、それでも感謝くらいは伝えるべきだろう。それは、絶対に必要なことだから。
「……奢り、ありがと。今度は私が出す」
たい焼きと引き換えの言葉に、オオカミは一瞬動きを止める。そして、ふっと微笑んで言う。
「ああ、楽しみにしているよ。そうだな、次はワンコとも一緒に過ごしたいな」
「節操なし……」
受け取った紙袋を開けると、閉じ込められていた匂いが湯気と一緒に立ち上る。突き出た頭に小さくかじりつくと、パリパリの皮から溢れた熱い餡が現れる。ほっとする甘い香りについ目が細まるのを実感する。
やはり、甘いものは良い。心を実に落ちかせてくれる。一刻早く食べたいが、生憎私は猫舌だ。少し冷ましてから頂くと――。
「……」
ふと視線を感じ、意識をたい焼きから外す。オオカミが、ぼうっとした表情でこちらを眺めていた。
「どうしたの?」
「ああいや……そういう可愛い顔もするんだなと思って」
ぼんやりとしたまま答えた彼女は、はっと目を見開くと、
「いや違う! 普段からネコは可愛いんだ! ただいつもより柔らかい顔をしていたからつい!」
慌てたようにそんなことを口走り始めた。
別に私は怒ったわけじゃないし、ただ疑問だっただけだ。むしろ、そんな大声で可愛いなんて言ってるほうが余程堪える。この場にわんこが居なくて良かった。
「だから、その、可愛さの種類の問題だ。どちらも私の好みではあるが、たまには違う顔も良いなという」
少し熱くなった頬を撫で、私は尚も弁解を続けるオオカミに尋ねる。
「頭と尻尾、どっちから食べる?」
「……? 尻尾からだが」
取り出したたい焼きの尻尾を指差すオオカミ。その尻尾に、私は食らいつく。
「なぁ!? 何をするネコ!?」
「おふぁえし」
まだ熱かったクリームに火傷しそうな口を抑えながら、一気に飲み込む。呆然とそれを見届けたオオカミは、次に尻尾の無くなったたい焼きを見て肩を落とした。
「口は災いのもとか……どうも駄目だな私は……」
「……そんなに尻尾から食べたかった?」
「そんなことはない……気にしないでくれ」
そう言うオオカミの顔は、気にしないで済ませるには随分と落ち込んでいるように思えた。私は拘る性格ではないので、頭と尻尾の食べ方なんて与太話程度に思っていたのだけど……彼女はそうでなかったようだ。
そんな顔をされるのは、本意ではない。ただ少しだけ仕返しをしたかっただけ。だから、つい動揺してしまったのだろう。
私は、自分のたい焼きを彼女に差し出し、
「……ごめん、私ので良かったら食べて」
断ろうとする彼女に向かって続けて、
「…………お姉ちゃん」
言った瞬間に後悔するような言葉を発してしまっていた。
「……」
「…………いや、今のは」
顔を背けて誤魔化そうとする私の手を、目にも留まらぬ動きでオオカミの手が捉える。彼女は、怖いくらいに真剣な顔でこちらを見つめていた。
「ネコ」
「忘れて。お願いだから」
「もう一度頼む」
「いやだから」
「頼む! 楽しみにしていた尻尾を食べられたなんて些細なことは気にしてない! いや今この瞬間は皇帝の勅命すら瑣末事だ!」
「やめて、恥ずかしくて死にそうだから」
「ならば私が救おう!」
「そのあんたに殺されそう」
「私も殺されかけた! 条件は五分だ!」
「意味不明な理論展開しないで。ほんとうにだめだから」
「とうに駄目になっている! 今更何を怯むか!」
たい焼きが焼けそうなくらい熱い顔を必死に隠そうとする私。ブッ飛んだ目でわけのわからない理論を口走り続けるオオカミ。
すれ違う人が見れば首を傾げるそれは、或いは春の浮かれた空気に似つかわしいものだったのかもしれない。そうでも思わないと、羞恥で焦げた体が崩れてしまいそうだった。
「気まぐれなんて……起こすものじゃない……」
その嘆きも、誰に耳に届くこともなく春の狂騒に紛れて消えていった。




