10話 わんことホラー映画
「これで満足……?」
「ごめんて。ちょっと調子に乗っちゃったんだよ」
涙目で言うネコさんは、鼻を鳴らすと忌々しげに空になったコップを遠ざける。そして、私の前に置かれたアイスコーヒーをぶんどり無言で啜る。
つい普段と違うネコさんが見れたので弄ってしまったが、少しやり過ぎたかな。写真も撮りたかったのだけど、そんなことしたら本気で蹴られそうだ。
「……悪いと思ってる?」
じろっと睨むネコさんに私は平伏して答える。
「思ってます。ええ、本当に」
「ワンコもこう言っているし、許してくれないか? そもそも、間違えたのは私のせいだ。彼女のせいではない」
「……そう言えばそうだった。反省して」
「ふぃまへん」
オオカミさんの頬をひっぱるネコさん。そんなことをされてもかっこいい気がするから美形ってすごい。
左右の頬を引っ張って満足したのか、ネコさんはいつもの眠そうな目に戻ってリモコンに手を伸ばす。地上波放送の番組だけでなく、映画専用のチャンネルも観れることにオオカミさんは感心した声を上げた。
「映画も見れるのか。本当になんでもあるんだな、ここは」
「便利だよね。シャワーもあるしご飯もあるし、ここに住めるんじゃないかな」
「そうだな、手狭な部屋だが君となら悪くなんっ!?」
喋ってる途中に変な声を出したオオカミさんは、先生に叱られた生徒のような目をネコさんに向ける。そのネコさんは、素知らぬ顔でリモコンを弄り続けていた。
「どうしたの?」
「いや……ネコの足とぶつかっただけだ……」
「ああ、炬燵の中ちょっと狭いもんね」
けど、わざとぶつけよとしない限りはぶつからない程度の広さはあるはずだが、はて?
私が首をひねっているとネコさんが、
「観たい映画はある?」
そう訊ねてくる。私は表示されたラインナップを一瞥するが、これと言って観たいというものはない。
「なんでもいいよ。二人が好きなのにして」
「……なんでもいい」
「うん、なんでも」
「確かに言質を取った。そうさせて貰う」
……ニヤリと笑うネコさんの横顔に、何だかよくないものを感じた。こう、袋に追い込まれている途中のネズミになったような、進む先が崖っぷちのような、そんな感覚を。
このままだとマズイと、私はオオカミさんを指して言う。
「ええと、オオカミさんにも聞いたほうがいいと思うんだけど」
「私もなんでもいいぞ。二人が楽しむものを楽しもう」
「そう言ってるけど?」
「じゃ、じゃあそうする……」
あっさり牽制は躱されてしまい、そうなると私に出来ることはない。首根っこを掴まれているような感覚に襲われながら、楽しそうにリモコンを操作するネコさんをじっと待つしかなかった。
映画のジャケットが右から左へスクロールしていき、
「じゃあ、これ」
心なしか弾んだ声と共にそれが止まる。その映画は――。
「待って」
決定ボタンを押して再生しようとしたネコさんの腕を掴む。彼女は、不思議そうに私の手を見やっていたが、絶対にわかってやっている。
「ワンコが真顔だと……」
オオカミさんは戦慄していたが、それを気にする余裕はない。問題なのは、これから流そうとしている映画だから。
私は大きく息を吸い、吐く。そして、テレビ画面を指差しながら確認するように訊ねる。
「これはなに?」
「映画。古いけど名作」
「知ってる。観たことのない私でもあらすじを知ってるから」
「ちなみにどんなあらすじ?」
「呪いのビデオを見たらテレビから化物が襲ってくる」
「正解。けど大丈夫。名作はストーリーがわかっていても面白いらしいから」
「そういう問題じゃないのー!」
私は身を乗り出してネコさんの肩を揺する。恥も外聞もなく必死だった。必ず死ぬなら誰だってそうする私だってそうする。
「なんだ、ワンコはホラー映画は駄目なのか?」
「駄目! 無理無茶無謀! 観たら死ぬ触れたら死ぬ感じたら死ぬ!」
「そんなにか……」
若干引き気味なオオカミさんだが、私にとっては大袈裟ではない。
好きな人にはごめんなさいだが、ホラーの一体何が楽しいのか。何故わざわざ時間とお金を使って怖い思いをしなければならないのか。あの心臓が跳ね上がり続ける嫌な感覚にどれだけの価値があるというのか。
グロテスクな怪物が血を撒き散らすハリウッド的ホラーは視覚に訴えかけてきて記憶にこびりつく。
じわじわと真綿で首を絞めるように状況から逃れられなくなるジャパニーズホラーは、想像力に訴えかけるくるからもっと質が悪い。考えたくないのについ『ひょっとしたらあの暗闇に……』なとと考えてしまう。
そして、そしてだ。何故ハッピーエンドを迎えそうな雰囲気を作っておいて、ラストに卓袱台返しをするのか。それが一番簡単に衝撃的な展開を作れるからという理由なら、それは制作側の単なる怠慢ではあるまいか。完成したものをひっくり返すだけなら誰にだって出来るのだから、安易な手段に頼るべきではないだろう。
まったくなっちゃいない、なっちゃいないぞ。
「オオカミさんもそう思うよね!?」
「えっ、お、おう。そうだな」
「ホラー観ない言い訳を並べてるだけだから聞くだけ無駄。オオカミは平気でしょ」
「まあ、私は平気だが……ワンコ、なんて顔をしてるんだ」
「ホラー……平気なの?」
信じられないという私に、オオカミさんは頬をかいて答える。
「私からするとそこまで怖がるのが不思議だが……映画は映画だろ?」
「それはわかってるよ! わかってるけど、もしかしたらって思うじゃん! ベッドの下に何かいるかもって考えて眠れなくなったときもあるでしょ!?」
「ああ、なるほど。私もベッドの下に割った食器を隠そうとしたら母が待ち構えていた時は殺されると思ったものだ」
「……なにそれ」
懐かしむように笑うオオカミさんに対して呆れた顔をするネコさん。ジョークなのだろうが、あいにく面白いとは言えない。
それよりもだ。何とかホラー鑑賞などという凶行は阻止しなくては……。
私はこっそりリモコンに手を伸ばす。が、ネコさんはそれを見逃さず遠ざけしまう。
「では、開始」
そして、無情にもその指は核スイッチに等しいものを押してしまうのだった。
「ねえどうしてこの人は暗いのに電気をつけないの……」
「その方が雰囲気が出るからだろう。考察するなら、そんなことも思いつかないくらい追い詰められていると考えれば納得できるぞ」
「マジレスありがとうオオカミさん……」
頬杖をついて映画を見るオオカミさんは、余裕そのものといった調子で返してくる。ビデオなんて今じゃ骨董品だな、と笑ってさえいた。
私はと言えば、ネコさんの背中に隠れるように窺うので精一杯だった。
「……あ、後ろに何か映りそうなアングル」
「ネコさん、メタな展開の予想するのやめて……ひぃ!」
テレビから響く絶叫に心臓が跳び上がる。体の中から滲み出す冷や汗に水分はもっていかれ、口の中はカラカラに乾いていた。
最後にホラーを観たのは小学生の時だったし、今ならいけるのではという希望は無謀であり蛮勇だった。やはり怖いものは怖いのだ。
「こわい……もうだめ……」
「怖いなら目を閉じていればいいんじゃないか?」
ネコさんの背中に縋り付く私にオオカミさんは言う。
そう、目を閉じてばいいと平気な人は言うのだ。しかし、本当に駄目な人というのはそれでは耐えられない生き物なのである。
「音だけだと……どうなってるかわからなくて……嫌な方に想像しちゃうから……」
例えば"ぐちゃっ"という音が聞こえたとして、画面を観なければその正体がわからない。わからないせいで、"無残に殺害されたんだ"と嫌な方に考えてしまう。もしかすると、落としたトマトが潰れただけかもしれないのに。
その一片の希望を持って、薄目かつチラチラと画面を観るのだ。大抵は裏目出るとわかっていても、答えがわからないままよりはマシ……だと思う。
「そんなに怖いなら、手を繋ぐ……繋げばいいんじゃないかネコと」
後半部分を早口で言うオオカミさん。その理由はわからないがその提案は名案である。
「ねねねネコさん手ぇ離さないでね絶対に離さないでね!」
ネコさんの答えを待たず、私は背中から回した手を彼女の手に重ねる。少し冷たい体温が嫌な熱を持った体を冷やしてくれそうだった。
振り向いた彼女は、さもわからないというように首を傾げながら言う。
「……それはフリ?」
「フリじゃない! フリじゃないからね!?」
「そう、残念」
そう言いながら、ネコさんは重ねた私の手を握り返してくれる。それだけで、とても安心した。ちゃんと直ぐ側にいてくれるんだと思うと、ざわついた心が静まってくる。
相変わらず画面を見続けてはいられないが、さっきよりは数十倍マシだ。そして、覚めない夢がないように終わらない映画も無い。
「後味は悪いが……これで終わりか。なかなか新鮮だったな」
オオカミさんが呟いた通り、本編は終わりスタッフロールが流れ始めていた。ここで油断するとエピローグで襲い掛かってくる映画もあるが、幸いそんなことは無く映画は終わりを告げた。
「はぁ……終わったぁ」
どっと疲れが噴き出した私は手を離して、そのまま後ろに倒れ込む。冷や汗で服が随分重くなったような気がしてくる。
「名作と言っても、やっぱり古いところが目立つ……」
「そこはしょうがないだろう。大事なのは最初に考えて形にしたということなのだから」
「そういうものか……」
満身創痍な私と違って、二人は映画の感想を言い合う余力があるようだ。
演出やらストーリーを考える余裕もなかった私は、それを眺めながら呟く。
「すごいなぁ……私なんて窓に人の顔が映ってるところで頭が真っ白だったのに」
そう言うと、オオカミさんは不思議そうな顔で答える。
「うん? そんなもの映っていたか?」
「悪い、ワンコ。からかうつもりは無かったんだ。そのシーンは偶々よそ見をして見ていなかったんだ」
「私は観ていたから……本当、ちゃんと映っていたから」
「だから炬燵から出てきてくれ、なっ?」




