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イーストアイランドで葬式を

作者: たっくん

 たぶん僕はうすうす気づいていた。それはもしかしたら僕のうまれたその瞬間から。そうでなくとも、僕が僕自身としてこの世界に生きているのだと認知し始めたその瞬間には。だからチャイムが鳴ったとき、どうして、いったいどこの誰が、休日の深夜3時に僕の家のチャイムを鳴らさなければいけないのか、なんてことはいちミリだって考えやしなかった。それはもはやデジャブですらあった。手順はすでに知っていた。すみやかに玄関へむかい、ドアのロックを外し、それを開ける。そのたった3ステップを、僕はこの世界に生きる誰よりも素早く済ませることができた。

 玄関先にはひとりの少女が立っていた。少女は、僕の顔を認めると、やあ、とか、Hi、とか、たぶんそんなことを云った。唇は確かに動いていたから、きっとなにかしらの発語はしたのだ。けれど彼女の声はあまりにもか細くて、僕はそれをこの一対の耳で聴き取ることができなかった。だからもしかしたらまったく違うことを云ったのかもしれないし、なにも発語などしていないのかも判らない。けれどそんなことは些細な問題だった。僕はつぎに差し出される彼女のか細い右手を左手で握る。ただそれだけだった。

 僕たちは外へ出た。

「なにかやり残したことはないの」と少女は云った。

「そうだね」と試しに僕はそう呟いてみた。

 声は、息をひそめる夜の薄闇のなかにやけにおおきく響いたような気がした。たぶん、僕はすこしだけ敏感になりすぎている。

「この世界に対するお別れの言葉とか。あるいはそんなたいそうなものじゃなくても、ほら、大切なひとにおくる最後のキスとか」

「キスをする時間はある?」

「さあね」とぶっきらぼうに彼女は云った。「そんなのわたしにだって判らないわよ」

 風はなかった。いきものの気配も、熱量も、物音も、なにもかもがそこにはなかった。それはまるで宇宙が生まれる前の世界みたいだなと思った。なにもかもがない空間に、僕と、彼女と、ひとつの夜。それは、とても幸せな世界のかたちに思えた。

「君はキスをしたことはある?」と僕は尋ねた。

「あるわよ」とやはりぶっきらぼうに彼女は云った。

「誰と?」

 数秒の間をおいて、あきらめたように彼女は口を開いた。「……お母さんと」

 僕はそれについてなにも触れたりはしなかった。代わりに、最後にキスをしたのはいつだったのかを考えた。けれど、いくら考えても明確な答えは出てこなかった。いままでに付き合った恋人の姿を思い浮かべようにも、それはことごとく失敗して、割れた硝子の靴みたいに冷たい地面に粉々に散らばった。もしかしたら僕も彼女とおなじことを答えるはめになるのかもしれない。そう思うと、ちょっとだけおかしかった。

「それとフレデリカ」としばらくしてから彼女は、恋人のはじめての仲直りの言葉みたいにちいさく呟いた。

「フレデリカ?」

「うちで飼ってるペットのダックスフント」

 ダックスフント――と僕は思う。そういえば昔、僕の実家のほうでいっぴきのダックスフントを飼っていた。ミニチュアだという話であったが、その割にはやけにおおきくて、けれど臆病でよく吠えた。色は黒で、足が短いからか階段を降りるのが苦手だった。不思議とのぼることはできた。家族によく愛されて、5・6年ほどを生きたのち散歩ちゅうの心臓発作で亡くなった。

 ずいぶんと昔のことのように思えて、僕はきちんと彼女(そうだ、そのダックスフントは雌だった)のことを覚えている。だからこそ不思議だった。どうして僕は、いままでに付き合ってきた恋人たちのことを忘れてしまったのだろう? その問い掛けにこたえるための機能もまた、僕はどこか遠くへ忘れてきてしまったような気がした。それを取り戻すだけの時間はあるのかどうか、僕は一度彼女に問い掛けてみるべきなのかもしれない。



「着いたわよ」と彼女は云って、それからすこし遅れて立ち止まった。

 みると、そこはつい一時間ほど前に出た僕の住むアパートの目の前だった。なにかの勘違いだと思い何度か瞬きをしたりゆっくりと深呼吸をしてみたけれど、間違いなかった。そこは、僕のもう5年ばかし住み続けたアパートの目の前だった。

「それで、ほんとうにやり残したことはないの」と彼女は云った。

「そうだなね」と僕はため息交じりに呟いた。「イーストアイランドで葬式をしたい」

「イーストアイランド?」と彼女は聞き返した。

「べつにどこだって構わないよ。自分のきめた土地で、しっかりとしたかたちの終わりをむかえたい。なんとなく、そう思った」

「そう」と彼女はたいして興味もなさそうに呟いた。「……いかないの?」

「たぶん戸惑っているんだと思う。よく判らないけれど」

 それからどれくらいの時間がながれたのだろう? 僕らはなにひとつ言葉を交わさないまま、ただずっと、そこに立ち続けた。もしかしたら息をすることさえ忘れてしまっていたのかもしれない。鼓動も、その瞬間にだけ活動をやめていたのかもしれない。それくらいに、その夜は静かすぎた。だから、彼女が口を開いたとき、僕はちょっとびっくりして飛び跳ねた。彼女は、それをみて薄く笑ったようにみえた。

「でも、そういうものじゃない?」と彼女は云った。「誰だっていつか終わりは来るし、その終わりは、その誰かがはじまった場所であるべきなんじゃない?」

 そして終わりはなにもひとつじゃない、と彼女は最後に付け足した。

「そのときはまたむかえに来てくれる?」

「さあね」と彼女はちょっとだけ意地悪に笑って、踵を返した。

 遠ざかる彼女の背中が消える前に、なにか云うべきことがあるような気がした。けれど、それはなにもいまであるべきでないような気もした。

 ――終わりはなにもひとつじゃない。

 彼女はそう云った。そしてそれは、きっとそういうことなのだ。

 気が付くと空は青白く光っていた。

もうすぐ朝がやってくる。そしたらきっと、この日の夜は、もう二度とやってこない。

さよなら、と試しに僕は呟いた。

それが果たして誰に、なににむけた言葉なのか、僕にはなにも判らない。それがすくなくとも、僕の記憶から消えてしまった恋人たちにむけたものでないことだけは確かなのだけど。


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