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夢を見ていた。懐かしい王宮の夢を。
王宮には様々な人がいたけれど自分は第三王子として、母と乳母に守られて育った。
だけどここには母も乳母もいない。ここは自分達の為に作られた鳥籠だ。
懐かしい王宮には、まだ帰れない。
全ての危険から守られるように、全ての知恵を学ぶように、全ての力を今からつけるように、・・・そうして自分達はこの鳥籠から出る日を待っている。
(それは嘘。ここから出られるのはきっと青龍兄上だけ)
部屋に明るく射しこむ朝日で眠りが浅くなっていたのか、一度は意識が浮上したものの、そんなことを思いながら白龍は深い眠りに再び入っていった。
「白龍様、お目覚めですか。どうぞお目覚めになってください。・・・起きろっつってんだろーがっ!!」
「・・・うぎゃっ」
敷布団ごとひっくり返された白龍は、穏やかな眠りをいきなり破られたことにびっくりして悲鳴をあげた。
掛け布団をどけようとわたわたしても、絡まって目の前が見えず、どたばたと暴れまくる。そうしてやっと布団や枕やクッションやシーツなどの間から顔を出した白龍は、全く威厳のないみっともない様子で叫んだ。
「てめっ、このクソボケもぐらっ! 何すんだっ」
「誰がモグラですか。・・・寝相が悪い白龍様にも困ったものですね、寝ながら布団ごと落ちてるだなんて。さ、早く起きてください。朝ですよ」
「ちょっと待て。人をひっくり返しといて何を人の寝相のせいにしてんだコラ。しめっぞ」
「夢でも見たのでしょう。恐れ多くも身分高き王子様が、取るに足りぬ臣下に向かって朝から罪をなすりつけて脅すなどとは、なんて嘆かわしい。変な言葉づかいを覚えてくるのも結構ですが、体格差的にも不可能なことを言うのでは、使い方が間違ってるとしか言いようがありません。さ、寝ぼけておいでにならず、顔を洗って着替えてくださいませ。あ、その布団もちゃんと片付けておくのですよ」
まるで教師のようなことを言って出ていく霧生を恨めしそうに睨んでも振り返りもしない。
(肩が笑ってんだっつーのっ)
こうして白露に邪険にされても本気で怒ることができないのは、白露がそれでも自分と共にいてくれるからだ。青龍、黒龍という兄王子を持つ白龍は、どちらかの兄王子に子供が二人以上できたらカンヘルの印を失うだろうと言われている第三王子である。
抜け出そうとしたら更に布団が絡まった白龍は、ジタバタと芋虫のように暴れてからやっとそこから這い出た。
青龍第一王子18才、黒龍第二王子17才、白龍第三王子16才。
彼らに与えられたこの宮殿で暮らしている王子達だが、日中は大人の使用人や講師がやってきて勉強を教えたり、生活全般の世話をしてくれる。しかし、彼らは一日おきにしかやってこない。
あくまでこの宮殿では王子と各領から出された子供達とが生活の協力をし合い、その集団生活を通して絆を深めるとされていた。
様々な領から出された子供達に囲まれて生活する兄王子達に比べ、ほとんど一人ぼっちの白龍王子。そして白龍に唯一ついた霧生白露は21才。
初めて白龍がこの宮殿が並ぶ場所に連れてこられてから、六年が経過していた。
その夜、白龍は月明かりだけを頼りに第二宮殿の最上階へ窓から忍び込んだ。風と共に宮殿の屋根へと飛び移り、そしてバルコニーに着地すればいいだけのこと。自分達にとっては造作もない。
「コンコン。黒龍兄上、起きてるー?」
「口でコンコンと言ったからって、扉を叩いたことにはならないんだぞ、白龍」
とっくに身軽な服装に着替えていた黒龍は、隣室や廊下に響かぬよう小さな声で応えた。
「えへっ、良かったぁ。青龍兄上だと恋人ばっかり優先してすぐ約束を忘れちゃうんだもん。そりゃ第一宮殿の女の子達はみんな可愛いけど。黒龍兄上は大丈夫って信じてたよっ」
「へぇ。だそうだ、青龍兄上」
「ひどいな。そんなに約束を破ったか?」
「青龍兄上っ。うわぁっ、こっちで待っててくれたんだ」
それぞれ母親が違う三人の王子達だが、所詮はカンヘルの印を持つ人間である。夜中にこっそりと抜け出して遊んでいた所でばったり出会い、周囲の人間が知らない間に仲良くなっていた。日中は全く交流がないが、実は三人、こういう秘密というのを気に入っている。
何故ならワクワクするからだ。
「ほら、行こう。まずはここを抜け出してからだ」
青龍とよく似た風貌の黒龍がそう言い、片手でひょいっとさほど身長も変わらぬ白龍の腹部に手を当てて持ち上げるようにし、窓の外に出ようとする。
自分の体重全てがその黒龍の手に集中することになる白龍も、全く苦しそうな顔を見せず、「わーい」と喜んで手足を伸ばした。
三人が揃えば重力など関係ない。カンヘルの印を持つ者は、揃えば力が相乗効果をもたらすからだ。
瞬く間に三人の姿は闇に紛れ、宮殿の外側に広がる森へと消えていった。
今日の教師から習ったことを白龍は二人の兄に聞かせた。
「訊いてみたら、沙岸領はね、だから水分を含ませても土がどんどん流されていくから、風を止めてもらいたいんだって。そうして緑を増やしたいらしいんだ。だけど、どうしても沙岸領はね、お金があまりないのと、お世辞が言えない人が多くて、だから今までも王子の側近に入りこみにくくて、仕方ないから美女を多く出してきてたんだって」
「言われてみればなかなか沙岸の女は・・・」
「えっ!? 青龍兄上、そこを詳しくっ」
「黒龍兄上っ、何言い出してんのっ。どスケベッ」
「えっ、いやっ、それを言うなら一番スケベなのは青龍兄上だろっ、なっ?」
「えっ!? 青龍兄上って・・・」
ががーんとショックを受けた白龍の様子に、青龍はにっこりと笑った。
「美人で気後れするぐらいだって言おうとしたのさ。何だと思ったのかな、白龍?」
「ううんっ! そうだよっ。青龍兄上って誠実なお付き合いする人だもんねっ」
兄への幻想が昂じすぎて、ほとんど聖人君子だと思いこみたい白龍の頭を青龍は撫でて、黒龍に無言で合図した。黒龍も目で頷く。そういうのは弟のいない場所で語り合うものだからだ。
「とはいえ、俺達には都合よく操る為にどうでもいい授業しかせず、白龍ばかりにきちんと授業するとはふざけてるな」
「それは言える。俺だって青龍兄上の格落ちなんだし、少しはまともにやってくれりゃいいのに、まさに遊びの域だ」
青龍が不満を風に乗せて打ちあげれば、上にあった木々の梢が千切れて落ちてくる。黒龍によって粉砕されたそれは四方八方に弾き飛ばされ、彼らが汚れることはないが、白龍も困ったような顔で二人を見た。
「だけど僕だって教えてくれるのはすぐに追い出されるからだよ。カンヘルの印をなくしたらタダの人未満になっちゃうから。ちゃんと勉強しておいて、まだどこかにお情けで働かせてもらって養ってもらえるといいねってことなんだもん」
そこで青龍が溜め息をつく。
「白龍についているのは霧生が一人だけなんだろう? 信用できるのか?」
「僕はどうにでもなるよ。だからどうでもいいんだ。どっちかっていうと、外に出てふらりと旅してみたい。カンヘルがなくなれば自由になれるんだしさ」
「青龍兄上が子供を一人に留めておけば、白龍のカンヘルの印は失われないだろう。白龍が旅してみたい気持ちは俺にもよく分かるが、カンヘルの印を失ってはただ人となる。意味がない」
「そんなことないよ。どうせ僕のカンヘルの印はあるかないか分からない程度だもん。それに兄上達はちゃんと子供を作った方がいいと思う。そうじゃないと帰れないし」
三人は懐かしい王宮を思い出した。
父王と何人もの妃がいるエフリート王国の宮殿。煌びやかで、優しい大人達に囲まれていた日々。
「お前は本当にそれでいいのか、白龍?」
「うん。うちの母上からも言われていたんだ。兄上達の邪魔にならないようにって、さっさとカンヘルの印を失って普通の人になりなさいって。そして僕は母上と静かに暮らすんだ」
「白龍は一番小さいからか、欲がないな。だが黒龍、お前の方はどうだ?」
「すっげぇよ。日替わりって感じで、
『お情けをくださいませ』
だもんな。だけど今までずっと一緒だったんだぜ? なのにいきなり知らない人の顔してそんなことを言うんだ。やってらんねえよ。ま、食うけど」
「そうだな」
二人の顔にいささか自嘲が走るのに気づいた白龍だが、それには何も言わなかった。
(ごめんね、兄上達。僕はカンヘルの印をなくすことだけが目的だから)
本当は二人とも精力的な夜をこなしていることも知ってる。だけど気づかない、知らないフリをし続けよう。二人が白龍に罪悪感を抱いていることを知っているから。
それでも二人の兄王子達は自分を取り巻く環境を拒めない。
10才から彼らを取り巻いていた各領の付き人達は、大きな影響力で二人を雁字搦めにしている。
(本当は僕こそが一番多く付き人をつけられる存在だったと、・・・知られないままカンヘルの印をなくすこと。それが母上の涙ながらの願いだから)
白龍は、二人の兄にねだった。
「ねえ、青龍兄上、黒龍兄上。朝ね、僕を起こそうとしてキリューが布団ごとひっくり返したから、僕ね、兄上達が前に知らない小父さん達に言ってた、
『ふざけんなコラ、しめっぞ』
っていうアレ、言ってみたんだ。けど、
『体格差的に不可能なら寝言でしかない』
って言われちゃった。だからさ、キリューにぎゃふんって言わせる言い方、教えてよ」
青龍と黒龍は、自分達より小柄な白龍を見た。白龍の「キリュー」は21才。白龍自身は16才。
そりゃ体格から何から歴然とした差がありすぎて、脅しになんてなっていないだろう。
「相変わらず、お前の所の霧生は王子を王子と思っとらんな。それでもただ一人、お前の所についてくれたんだから悪い奴じゃないんだろうが」
「そうだなぁ。青龍兄上の所にしても、俺の所にしても、白龍の所は行きたがらないし。どうしてあいつら、俺達が接触するのを嫌がるのかね」
「こうして僕が兄上達に泣きついたら困るって思ってるんじゃない? だって兄上達が手を組んだら無敵だもん。カンヘルの印を持つ兄上達が揃ったら、きっと毎日がてんやわんやになっちゃうよねっ。森とか湖とか、すっごい状況になったりしそう。キリューはね、いつも言うんだ。こぉんな口調で、
『兄王子様方は、こうしている合間にもこの国へ実りを届けてくださっているのですよ。白龍様、あなたがこうして、・・・中庭を滅茶苦茶にしてしまっている間にっ! なーんてことしてくれんですかっ、この出来損ない王子っ!!』
ってさ。兄上達は、色々な領に人々が幸せになる風を届けてるんだって」
白露に白龍が言われていることは不敬でしかないのだが、楽しそうに語る白龍に、青龍と黒龍も苦笑するしかない。
「さ、そろそろ戻るか。黒龍はともかく、白龍が寝坊しすぎると怪しまれるだろう」
「うん、ごめんね兄上達。僕ももっと兄上達の役に立てるといいんだけど」
「お前はいいんだ、白龍。カンヘルの印に左右されず、穏やかに生きていけ。な、青龍兄上」
「ああ。白龍、いつかお前がカンヘルの印をなくしても、俺達がお前を抱えて旅に連れて行ってやる」
「ほんとっ? 約束だよ、青龍兄上、黒龍兄上っ」
たまにこうして一緒に抜け出しては空を飛び、互いの情報を語り合う。
それは三人が誰にも内緒の交流だった。
白露は、さて、帰省の予定をどうするべきかと考えこんでいた。
(白龍王子は一人でも留守番できるし、問題はないんだが、ああも笑顔で言われるのもな)
もしかしたら霧生領にある程度戻らねばならないかもしれないと伝えたら、ちょっと寂しそうな顔はしたものの、一転して笑いかけてきたのだ。
――― そっかぁ。キリューもたまには父上とか母上に会いたいよねっ。だけどキリューってさぁ、そんな恰好じゃ会ってもキリューって分からないんじゃない?
目以外は全て、覆面頭巾やポンチョ、手袋で覆っている格好では息子だと分かってもらえないのではないかと、純粋に疑問として感じたらしい。
――― 別に家でもこういう格好をしているわけじゃありませんから。
――― えーっ。ずるいよっ、そんならここでもおうちと同じ格好してよっ。
――― 嫌です。
――― なんでだよっ! この陰険モグラッ、けちんぼっ、根性悪っ、ドケチ野郎なクソジジイッ。
誰の会話を盗み聞きして覚えたのか、教えてもいない悪口を駆使してブーブーと文句を言う白龍の言葉を、
「霧生は、よそではこういう格好って決まってるんです」
と、そう黙らせ、白露は何となくムカムカするものがあった。
(別に、一人で留守番できるのはいい。どうせここに賊は入らない)
そう、そこに問題はない。だが、白龍はまだ16才だ。しかも一日おきに通いの教師や使用人は来るとは言え、ずっと二人きりで暮らしてきたのだ。
(なんで笑顔なんだよっ。寂しいなら寂しいって言えばいいだろっ)
寂しいと言われたところで白龍などここに打ち捨てて帰るが、そういう問題ではない。
自分の表情が分からないであろうことだけが救いだろうか。
全身を茶色い布で覆っている白露に、
「キリューってさ、まさに土竜が立って歩いているみたいだよね」
と、何かとモグラ呼びをしてくる生意気な王子。
兄王子達よりも小柄な16才。
だけどころころと変わる表情は感情豊かで、何かと駆けたり跳ねたり転がったりしては色々な物に心を揺らして感動している。素直で、人の影響を受けやすくて、すぐに落ちこんでは浮上して、笑ったかと思ったら拗ねて、雨上りの空が好きだけど、雨で花が散ってしまうと悲しそうな顔になる。
見ていて飽きない。
(ああ、嫌いだ。あんな天真爛漫に生きてる奴なんて)
だから自分の手で壊したくなる。
あの存在を、誰にも譲りたくない程に。
――― キリューッ。来てよっ、子猫が産まれたんだよっ。かっわいいんだぁっ。
白露を見つけると、嬉しそうに大きく手を振って自分を呼ぶ王子。その前に人を陰険だの、モグラだのと悪口を言っていたことはもう忘れ去っているのだろう。
――― はいはい。今行きますよ。
ああ、そうだ。だからこそ青龍王子と黒龍王子についた従兄弟達に馬鹿にされようと平然としていられる程に、あの笑顔を自分だけの手で滅茶苦茶にしたくなる。
霧生領に戻ったのは、刺青を追加する為だ。
体が大きくなるに従って、刺青はどうしても密度が低くなり、鮮やかさが失せていく。だから追加して入れていかねば薄くてみっともないことになった。
それでも成長期なので、体の大きさが落ち着くまで待っていたのだ。
「おお、白露様。お帰りなさいませ。大きくおなりになりましたな」
「どうかな。鍛えてはいるつもりだけど」
見知った彼に体を見せれば、
「で、契約はしておられないのですかな?」
と、そんなことを言われる。
「ああ。どうせすぐ失うと分かってるし、あまり情を移したくないんだ。どうせ青龍王子が産ませた子供と契約することになるんじゃないか?」
「青龍王子と黒龍王子はかなりやんちゃがすぎるようですな。カンヘルの印を持っている以上は仕方がないのかもしれませんが、こんなにもつけることになるとは」
「そうだな。気に入らないとすぐに遠ざけるらしい。昨日まで寵愛していた娘すら、気に障る一言があったとか、そんな程度のことで遠ざけられるそうだ。・・・何か、言ってたか?」
「はい。やはり刺青の追加で戻っておいででしたから。契約数を増やさなくてはならなかったのも、あまりに契約の印が薄くなってしまうからのようです」
「そうか。その点、白龍王子にそこまでの気まぐれさはないが、うちの場合は契約したところで、最初から俺以外誰もいないものだから、本人が執着してくれないって問題が出てくるだろうな」
「白露様お一人だけなら執着してくださるのでは?」
「そうでもない。この帰省すら、何とも思われなかったぐらいだ。ま、契約する価値もないが、この生活も練習と思えば耐えられる」
「なかなか難儀なことです。ですが青龍王子が子供を作ってくださり、今度の王子か王女がそこまで奔放な性格でなければ良しとしたもの」
「だな」
白露はその筋肉がそれなりに緩やかな隆起をみせる体を、一糸纏わず彫り師の前に晒した。
「ふむ。いい体つきです。これなら映えることでしょう」
「俺は男だからいいが、女でやるのは辛いだろうな」
「はて。紅雨様はなさらないとお決めになったようです」
紅雨とは、白露の妹の名だ。紅雨もやはり刺青を入れて、いざとなったら契約できるようにするものだと、白露は思っていた。実際、伯父の襲は、自分の九人の子供達全員に刺青を入れていた筈だ。
「どうしてだ?」
「お従姉妹様方とライバルにならないようにと、そうお考えになったのではないでしょうか」
「ああ」
白露は僅かに苦味を滲ませて頷いた。
付き人とは王子の側近と言えば聞こえはいいが、それが女なら愛妾といった扱いになる。
「更に色鮮やかになるように、さあ、こちらから始めますよ。ああ、いつか白露様にとって本当のカンヘルの契約がなされる時が楽しみでなりません」
彫り師の言葉に、
「そうだな」
と、消極的な同意を示し、体を突き刺していく痛みに白露は耐え始めた。
何日もかけて刺青を入れていく。一針毎につぷっと血の玉が肌に浮かび、そしてそれを拭い取っていく布はやがて血に染まる。
(やっぱりどうしても発熱はするんだよな)
誰もが眠りにつく夜。
上半身には何も身につけないまま、白露はふらりと外に出た。腰には膝までの布を巻きつけていたが、それはナイフを腰に差しておく必要があったからだ。
(ここで賊がいるとも思えんが、やっぱり夜だ)
そんな時刻に出歩くなと言われたらそれまでだ。けれども今は風に吹かれて体の熱を冷ましたい。
体に異物を入れたことで火照った体が苦しかった。
(この先に、開けた場所があった筈だ)
彫り師の屋敷から庭に出たものの、庭を渡る風では全く足らず、もっと涼しい風を欲して白露は屋敷から少し歩いた所にある野原へと歩いていった。
(今日は外で寝ようか。寝台だなんて熱がこもる。冷たい草の上で寝た方がよほどいい)
月と星が明るい夜だ。けれどもその野原に、白露は自分が普段纏っているのと同じ覆面頭巾とポンチョを着た人間が、手に灯りを持って立っているのを認めた。
(え? 今、あいつら四人で帰ってきてる奴はいない筈だ。 ということは、襲伯父さんの娘か。・・・誰だ?)
伯父の襲には四人の息子と五人の娘がいる。その内、四人の息子は青龍と黒龍、それぞれに二人ずつついているのだが、どちらも霧生に戻っている筈がなかった。何故なら白露は、彼らと帰省が重ならないように気をつけたからだ。
ここにいるということは自分と同じく刺青の修正で戻ってきているのだろうが、そうなると気にも留めていなかった五人の娘の誰かだろう。
「・・・えっと、花凛か? それとも夢蔓か? いや、誰でもいい。こんな夜に出歩くもんじゃない。さっさと部屋に戻れ。何かあったらどうする。領主の娘として、霧生の彫りを持つ価値は分かってるだろう?」
その言葉に首を傾げた様子をみせたが、白露が動かないそれに苛立ちを見せようとした途端、口を開いた。
「えっと、・・・・・・シラツユ、だっけ?」
聞き覚えのない声だった。花凛でも夢蔓でもない。いや、五人の従姉妹の誰でもない。
けれどもその刺青を隠す為の衣装を纏えるのは、霧生の彫りを持つ人間だけだ。
(シラツユだっけ? って何だよ。俺の顔なんて、霧生ならいつも出してるだろが。まあ、あまり戻っちゃこねえけど)
しかし領主の甥である自分を呼び捨てにできる人間は限られている。
「まさか・・・。襲伯父さん、まだ娘がいたのかっ?」
あり得ると思い、白露はくらりと眩暈を覚えた。
(そういえば、紅雨が彫りを入れないって決めたって言ってたが、・・・この子に遠慮したって奴か? どこまで伯父さん、うちにライバル心バリバリなんだよっ)
自分よりも小さいが、警戒心もなく近寄ってきて灯りを白露の体に近づけては刺青を見ている。
その覆面頭巾に手を掛けて勝手に取れば、可愛らしい少女だった。だが、顔に刺青はまだ入れていないようだ。もしかしたら今から入れるのかもしれない。
いきなりフードをむしり取られたことに、きょとんとしている。
「お前、名前は?」
「・・・えーっと、輝映?」
まだ精神的にお子様だからなのか、それとも従兄だと思って安心しているからなのか。
警戒心もなく、ペタペタと剥き出しになった白露の刺青を触ってくる。もしかしてまだそこまで彫っていなくて、だから好奇心が強く出ているのかもしれない。
「えーっとって何だよ。キエイってどんなキエイだ?」
「輝くのと、映るのとで、輝映」
「幾つだ?」
「16才」
初めて聞く名だ。今度はどこの女に産ませていたのだろうと思いつつも、自分がついている王子の白龍と同じ年であることに気づけば怒りもこみあげる。
(要は襲伯父さんっ、この子を白龍王子につけたくないってんで隠してたのかっ!)
つけるのが娘なら、確実に王子のお手付きになる。そりゃすぐ用無しになる王子に娘を差し出すより、もっと違う使い道を誰しも考えるだろう。青龍と黒龍があんなにも浮気性でなければ、襲とて五人の娘の内、何人かは他の領に嫁がせたに違いない。
(だから顔に刺青は入れさせていないのか。もしかしたら体も最低限の模様程度にとどめているのかもしれない)
霧生の彫りは独特の模様を描くから、カンヘルの印を持つ人間と契約できるのだ。それは霧生の外には出せない。
「痛そう」
「まあな。だが、女の子なら無理して入れることもない。輝映って言ったか。拒めるものなら拒んでおけ。どんなに持ち上げられても、結局は汚れ仕事をする為のもんだ。痛みに耐えてまで入れることはない」
こくっと輝映が頷く。そうして白露を見上げてその頬に手を伸ばしてきた。
輝映の黒髪が流れるようにまっすぐ落ちている。暗いからか、その瞳は漆黒にすら見えた。
「顔、痛い?」
「しょうがない。契約する以上、きちんと彫りこんでおかなきゃいけないしな。ま、契約していない俺が言うのもおかしいことだが」
「? 契約、してないの?」
「ああ。白龍王子はどうせすぐに印を失うからな。しかも力も弱く、印だってあるかないか程度のもんだ。なら、契約なんてする必要ないだろ」
「・・・ふぅん、そうなんだ。じゃあ、白露は誰と契約するの?」
「さあな。しないですみゃそれに越したことない。だが、カンヘルの印を持つ者は危険すぎる」
「そうなんだ?」
「ああ」
そこで白露は輝映に帰るよう促した。
「白露が先に帰ってよ。一緒にいるの、見られたくない」
それもそうかと思い、白露は先に帰ることにした。
「じゃあ、輝映もすぐ戻れよ」
「うん」
地面に灯りを置き、白露によって外された覆面頭巾をかぶろうとしている輝映は、すぽっとかぶっているポンチョのせいか、とても愛らしく見える。
(俺は別に年下趣味はねえ)
そう思いながらも、白露は自分にかなりの意志を総動員して踵を返した。
襲の娘になど手は出せない。どんな騒ぎになることか。
だけど本当は、その可愛らしい赤い唇に口づけたかった。
次の日の夜、輝映は白露と会った草原で灯りをつけずに星を眺めていた。
がさっと音がして誰かがやってきたのが分かる。誰かだなんて、分かってはいたけど。
「輝映。あれ程、夜には出歩くなと言ったのに」
「白露も出歩いてる」
「俺はいいんだ、男だから」
それでも白露は、輝映の隣に腰を下ろした。
「今日は、服、着てるの?」
「俺が毎日服を着ていないようなことを言うな。今日は下半身に入れたからな。上半身は隠しとかなきゃ、誰かに彫りの模様なんぞ見られたくないだろ」
「そう? 綺麗なのに」
「そりゃ綺麗だが、誰にでも彼にでも考えなしに見せまくって、よそに流れちゃ困る」
今日は太腿から足首にかけて彫りを入れた為、ポンチョと腰だけ覆う下穿きのみをつけていた白露だ。
「お前は? 今日はどこを彫ったんだ?」
そう言いながら覆面頭巾を勝手に取り去れば、特に刺青は入っていない。
「私は・・・」
「ああ。土壇場で怖じ気づいたか? まあ、いいさ。どうせ彫り師にしても、本人の決意が定まるまでは無理には入れん。それに、年齢的にも輝映の子供に彫りを入れて、青龍王子か黒龍王子の子供に付けさせる可能性の方が高いしな」
慰めるように白露が輝映の頭を軽くぽんぽんと撫でると、輝映は白露の方に頭を寄せてきた。
「針を体に刺すなんて、・・・痛い。一つ、試しに針を刺したの。ぷくって血が出た」
「そうだな」
「あんなの、したくない」
「そうだな」
その肩を抱き寄せるようにすれば、自分よりはるかに細い。
白露は天を見上げた。瞬く星が夜空に溢れ、宝石箱をひっくり返したかのようだ。
「ほら見ろ、輝映。星が川を作っている。そしてもうすぐ水が溢れる季節がやってくる」
「うん」
「霧がこの地を覆い、恵みがもたらされるだろう。・・・お前が領主の娘として役立たずだなんて思うことはない。今の王子達に仕えることはなくても、それだからこそ違うことで霧生に貢献できる筈だ」
返事はなかった。
だが、白露とて馬鹿ではない。たかが刺青の一刺し程度で痛いと涙ぐんでいるような娘では、伯父の襲も失望したことだろう。
あの競争率の激しい王子達に付けられなかった、その理由が分かる。
役立たずだと判断されたのだ、輝映は。
「白露は、霧生が好き、なんだね」
「そうだな。どっちかっていうと大嫌いだ」
「・・・・・・」
輝映が黙りこんだ。白露も、つい吐露してしまった本音に慌てて言い訳をする。
「いっ、いやっ、そのあんまり戻ってこないしっ。別に嫌いって程じゃないからなっ。単に、ほらっ、白龍王子につくってことで、無理矢理追い出されたようなもんだったってだけでっ」
「・・・別に、何も言ってないけど」
領主の娘としては聞き捨てならなかったのだろう。輝映の口調がいささか低くなる。
「なら、戻ってくればいいのに。別に白龍王子についてる必要なんてないんでしょう?」
「え? やだよ、こんなとこ」
「え?」
「あ?」
輝映が、呆れたような顔になる。
「だって白龍王子の為に追い出されたから、白露、霧生が嫌いになっちゃったんでしょ?」
「いや、だから、別に俺は・・・」
別に俺は、・・・その後は何と続けようとしたのだろう。
白露には分からなかった。
ふと、白龍のことを思い返す。
(何やってんだろうな、今頃あの王子は)
自分がいないことをいいことに、きっと毎朝寝坊しているのだろう。二日に一回は通いの人間が来るから飢え死にはしていないと思うが、少しは寂しいと思ってくれているのだろうか。
「そんなんじゃないんだ」
「え?」
「そんなんじゃないんだ、輝映」
「何が・・・?」
何がそんなのではないのかを説明しきれず、白露は押し黙った。
すると、輝映が白露の頭をいい子いい子と撫でてくる。
「白露は、頭いいけど馬鹿なんだね」
「誰が馬鹿だ」
それでも心が落ち着く。
(こんな年下の女の子に・・・。情けないな)
白露は目を閉じた。
何も分かっていないくせに、自分の頭を撫でてくる輝映。
だけどずっとこうしていたいと、白露は思わずにいられなかった。