第七十九話 誰が為の沈黙
ヘレンの家で打ち上げを終え、翌日には帰ってきた彦乃と桜。
食事中ずっとヘレンに味覚がなくなっている事を悟られるのではないかと内心怯えていた彦乃だったが、どうやら気付かれる事無く終える事ができていた。
もちろん、桜にも気付かれてはいない。
本当は気付いているのかもしれないが、彦乃が感じ取る限りでは彦乃の異変に気付いた者はいなさそうである。
「ただいまー」
「ただいま…あれ?お爺ちゃんの傘ないや。 出かけてるのかな?」
家の玄関を開けていつもの下駄箱へ靴を入れようとした時、彦乃は下駄箱の隣に置いてある傘立てに目が行く。
彦乃用の傘がいくつかと、祖父用の杖は差さっていた。
だが、祖父が雨の度に愛用している古い傘が見当たらない。
外はどんよりとした曇り空だし、外出の際に持って出て行ったのだろうか。
「ま、いっか。 置手紙置いて行ってるだろうし…」
「彦乃ー、爺ちゃんの置手紙あったー」
「ほらね」
靴を適当に脱いで放り出したまま居間へ行った桜のかわりに下駄箱へ靴を直していると、居間の方から桜の声。
彦乃の思っていた通りだった。
「お爺ちゃんなんて?」
「集会行ってくるからお留守番よろしく、だって」
「集会…? 町内会の集会って月初めにあったよね」
「うん 爺ちゃん傘忘れて大慌てだった」
12月のはじめに行われた、定期的にやっている町内会の集会。
定期的に、と言いつつ次回日程はお偉いさんが決めてたりする、情報交換会と言う名の半ばお喋り会のようなものがあった。
でも今はまだ月末前で、次の町内会にはまだちょっと早い気がする。
違和感を感じていた彦乃だったが、それもすぐに諦めてしまう。
何故なら、これは嘘をついている時のパターンに似ているからだ。
「なーんか嘘っぽいなー」
「爺ちゃん、10月に同じ手使って飲みに行ってたよね」
「それかな。 まったく…ちゃんと書いて行けばいいのに…」
やれやれと言いつつ、彦乃はキッチンに向かう。
桜に何か飲み物を入れてこようと思っての事である。
いつも通りのキッチンなのに、今となっては少し気まずい。
嗅覚がなくなって料理の匂いが感じられなくなったのはまだいい。
料理に集中しだすと匂いなんて気にしていられない事だってあるからだ。
だが、味覚がなくなったのを悟られないようにするのはとても気を使う。
砂糖と塩とか、どっちも白くて小さな粒としか認識できないのだから。
振って音が違うとかならまだ判別しようはあったかもしれない。
でもそんな音の違いなんてないし、味が分からなければ舐め比べて判断する事もできない。
塩と砂糖そのものは無臭なのだから鼻で嗅ぎ分ける事も無理。
「桜ちゃん、何か飲み物いる?」
「んー…お茶!」
「はーい、ちょっと待っててね」
食器棚から取り出したコップに冷蔵庫から取り出したお茶を桜と自分の分を注ぐ。
試しに自分の分をちょっと飲んでみるが、やはりお茶の味なんてまったくしない。
舌の感覚が無いのかといえばそう言う訳でもなく、舌を水が通って行くのは感じられるのだが、その水に味を全く感じないのだ。
「……」
キッチンに置いてある塩を一つまみ手に取って舐めてみても、やはり味はまったくしない。
口の中に微量のジャリジャリした感覚が残るだけだった。
アサリの味噌汁を飲んでいたら、砂が混ざっていた時のような不快感だけが舌に残る。
「味が何も感じないの、バレないようにしないと……心配はかけたくないからね…」
余計な心配を掛けまいとして、自分の心の中にこの気持ちをそっと収める。
右目の激痛があった時、織姫は泣いてしまう程に心配してくれた。
匂いを感じなくなった時も、記憶をなくしてしまった時だって、誰かが彦乃を心配し、同時に防げなかった自分を責めて悲しい顔をしてしまう。
それを彦乃は見たくなかったのだ。
「…これから先、味見とかどうしよう…」
家の料理当番だった彦乃からすれば、味覚が無くなった事は想像以上に大打撃である。
料理はまだ簡単なものしか教えられてない桜や、料理をすると酒の肴ばかり作ってしまう祖父では内容が偏ってしまう事は火を見るより明らか。
「うーん……経験かな?」
味見をせずとも味の調節が出来るくらいに手慣れた料理を作っていれば、味付けを変えたかと思われる事はあっても味覚がないと悟られる事はないだろう。
そう結論付けた所で、彦乃は桜の待つ居間へ向かった。
「失礼するぜー」
「するぜー」
「ん? あぁ、ヘレンにターニャ、いらっしゃーい」
所変わって、ここはコンペイトウの社長室。
早朝から彦乃を家へ送ってそのままターニャと共にコンペイトウへ来たヘレンは、ある事を確認しに社長室を訪れていた。
社長室では朱莉が机に大量の書類を積み重ねて処理に奮闘している。
つい数日前には片付けたのではなかったのか。
「まだ終わってねーのかよ…」
「年末のお仕事って忙しいのよー?ヘレンだって忙しかったじゃーん」
「私のはまだ軽めだからいいんだよ」
書類仕事に追われる朱莉は口と手を同時に動かして、作業の手を止めず次々と作業をこなしていく。
会話が出来るならと、ヘレンの方も本題に入る事とした。
ターニャはと言えば、来客用のソファで試作品の菓子を漁っているようだ。
「んな事より彦乃だ彦乃」
「んぇ? 彦乃ちゃんがどうかしたの?」
「本当に検査結果は問題なしだったのか? って所が気になってしょうがねーんだよ」
まるで検査に不服があるとでも言いたげだったが、朱莉はそれをはぐらかすでもなく黙り込むでもなく黙殺するでもなくこう答えた。
「どうだったと思う?」
「は?」
「検査結果は異常なしだったよ? 前みたいに記憶が無くなったりするような事も無かった。 けれど、完全に異常はないとは言い辛いかな?」
「まあ大丈夫だろうけど確証はない、ってレベルの話か?」
「まあそんな所かな」
現に大丈夫だと思っていたら喪失していた事だってある。
だからこそ、大丈夫だと決定して不確実な確証を持ってしまう事の方がずっと怖い。
それはスターライトの管理者として、そしてスターライトでもある朱莉だからこそ行き着いた答えだった。
「ヘレンは彦乃ちゃん達と打ち上げしに行ったんでしょ? どうだった?」
「…客観的な憶測でも構わねえか?」
「いいよー。なんならターニャの感想と混ぜて報告してもいい。言ってみて?」
書類整理を一時中断して、朱莉はヘレンの報告を聞く体勢へと入る。
会社の書類なんかよりもずっと大事な案件だ、優先度の低い物は一時的に放置するのは当然だろう。
たとえそれが、確実性の低いものだったとしても。
「…分かった。 打ち上げやってる時、彦乃が料理してくれたんだけどよ…唐揚げとかサラダとか」
「えー、いいなー」
「真面目に聞けや… んで、その時一緒に喰ってたら一瞬だけ顔顰めてたんだよな」
「うん。 なーんか考え事し過ぎて味も分からないー、みたいな顔してたよね」
そこを見抜ける二人も二人だが、見抜かれてしまっているあたり彦乃もまだまだ未熟。
伊達に彦乃たちより長生きしてはいないというものだ。
「…それで?」
「要約すると、嗅覚の時みたいに今度は味覚あたりでも喪ってんじゃないかと予想した」
「したー」
すっかり見抜かれていた。
夜食の時に隠し切れていなかった彦乃に落ち度がある。
彦乃にそうなんじゃないかと伝えなかったヘレンたちもそうだが、確証がないのに不用意な事を言うのは言われた側を傷つけてしまう事になる事、ヘレンにはよく分かっていた。
「味覚かぁ……当社としては大損失だよ、コレは?」
「当社て……まあ用意してる菓子とか美味そうに食ってたけどよ…」
「うん、美味しーよ? ヘレンもあーんってして?」
「おう…騙されねーぞ? それ罰ゲーム用の激辛チョコだろ」
「あっはは、バレちゃったー」
ヘレンに食べさせようとしていたチョコを、ターニャはそっと開けた包みの上へ戻す。
色も匂いも全く一緒だというのに何故ヘレンはそれを見抜く事が出来たのか。
長い付き合いだからこそ、ターニャのやりたい事を理解していたからこそであると言える。
「わっかりやすいんだよお前は。 彦乃のがまだ隠すのうまいぞ」
「えー、でもあの子秘密にするとのか下手そうなのに?」
「それ絶対彦乃の前で言うなよ?」
流石に口が過ぎるターニャにデコピンを食らわせて黙らせる。
綺麗に入ったらしく大きくバシーンと音を響かせて、ターニャはその場に頭を抱えてうずくまった。
「うごご……へ、ヘレンのデコピン…進化してるぅ…」
「そりゃそうだろ。 私だって成長してんだ。 もう20だぞ」
「私も20だよー?」
「ぜってー嘘だろ」
ヘレンの二十歳宣言に乗る形で、朱莉も便乗してきた。
見た目は完全に小学生くらいの背丈に性格だというのに。
なお朱莉の身分証明書にはしっかりと年齢が記載されていて、そのとおり20歳と記されている。
運転免許証も持っているのだが、あの身長でどうやってアクセルを踏みながら前を見るのだろうか。
どこかで見た超大作映画では、車を運転する時にペダルを踏む役、ハンドルを回す役、周囲を見回す役、的確に指示を出す役、と別れて行っていたというのに。
まあ朱莉は流石にそんなおもちゃレベルの小ささと言う訳ではないが。
「ホントでしょ?」
「おー、免許証だー! ……社長ちゃん、写真と別人じゃない?」
「にゃにおぉ?! れっきとした私ですぅー」
出てきた免許証を見てターニャが最初に思った感想がそれである。
免許を取りに行った当時の姿なのだろうが、少し違和感を感じたのだ。
容姿は朱莉のそのままと言った感じなのだが、今より少し大人びて見える。
「メイクに力入れただけですよーだ!」
「メイクだけでこんなに変わるの?! すごーい!」
「それじゃ今度、ターニャにもしてあげよっか?」
「ホント?! わーい!」
果たして朱莉のメイクの腕とは如何に。
それから暫く雑談が続き、朱莉も徐々に仕事に手を付け始めた。
ターニャはすっかりヘレンにべったりとなり、ヘレンも鬱陶しそうにしつつも振りほどかず朱莉の書類整理を手伝っていく。
「…今度は味覚か……彦乃ちゃん…どんどんこっち寄りになってきたね…」
「…ん? なんか言ったか?」
「んーにゃ、なんにも?」
ごく小さい声で呟いただけにも関わらず聞き取ってくるあたり、ヘレンは本当に片耳の感覚が無いのかと疑いたくなることがある。
今回に限っては都合のいい難聴が発生してくれて良かったが、もし聞こえていたら面倒な事になっていたかもしれない。
一方、ターニャはと言えば置かれていた菓子の味見に熱中しているようだった。
美味しそうに食べてくれているあたり、朱莉も置いておいてよかったと思えると言う物だ。
そんなこんなで作業を続けていく朱莉たち。
すっかりバレてしまっていたとは知らず、彦乃はどこまで隠し通す事が出来るのだろうか。
つづく




