「存在しない子」
朝になると、既に雨が上がっていて、眩しい陽光が射していた。
昨日の雨の影響で矢鱈とジメジメしているし…。
それはそうと、僕が起きた時、隣で寝ている深海ちゃんは目を閉じ、小さな小さな寝息を立てていた。
その寝顔が何となく妹に似ていて、微笑ましい気持ちになる。
しかし、そんな深海ちゃんとももうすぐお別れ。
警察に届けて、その後はもう会えないかもしれない。
そう考えると、少しだけ寂しい気持ちになった。
未練ってほどじゃないけれど、ちょっとした心の傷が出来そうな、そんな気がした。
たった一日だったけど、名前が判明した時の達成感は凄まじかったし。
なにより、また独りの生活に逆戻りすることになる。
一人暮らしは慣れてはいたけど、一度こうして誰かを招き入れてしまうと、途端に寂しさも出てくるというもの。
気を取り直して、自分の分の布団を仕舞うと、僕は台所に立つ。
基本的には昨日の残りである、カニカマのサラダ、ご飯と味噌汁くらいで充分かも知れない。
深海ちゃんは小食らしいし、僕もさほど食欲旺盛という訳でもないから。
特に朝は辛いから…正直言えば食べたくはない。
それでも朝食は大事っていうから、困ったものだ。
残り物という事もあり、すぐに朝食の支度が出来た。
二人分の朝食を作るのは、妹がいた時以来かも知れない。
もっとも、妹が居た時の僕の料理の腕なんて、酷いとしかいいようがなかったけど…。
僕はちゃぶ台の上に出来上がった二人分の朝食を並べ、深海ちゃんの傍まで歩み寄る。
「深海ちゃん、朝だよ。
ご飯も出来てるから、早く食べよう。」
(パチッ……コクリ)
目を開けた深海ちゃんは布団からムクッと身体をおこし、よちよち歩きで食卓が並ぶちゃぶ台の前に正座して座った。
僕は彼女の前に腰掛け、胡坐をかく。
「それじゃあ、いただきます。」
(…ペチ。コクリ)
無表情で手を合わせ、軽く会釈するように頭を下げる光景は、なんともシュールだ。
そんな深海ちゃんは、昨日と同じように、口に運ぶ毎にビクッと身体を震わせ、摘まんでいった。
昨日食べたものと同じなんだけどなぁ…。
朝食を終えた僕たちは洗顔し、着替えを済ませ、乾燥機で乾かした。
彼女のワンピースを返してあげた。
その後は昨日の夕食と今日の朝食で使った食器を一通り洗い、身の回りの整理整頓を済ませる。
いよいよ、交番に向かうべく外に出た。
痛いくらいの陽光と、ジメジメの嫌な湿気。
それに負けないくらいに賑やかな商店街。
僕と深海ちゃんは商店街のアーケード前にある交番にやって来た。
この交番の人は人格者だという噂が絶えなかったりする。
本当かどうかは定かじゃないけれど。
僕は深海ちゃんの手をギュッと握り締め、白い交番のガラス張りの戸の前に立つ。
取っ手に手をかけ、横にスライドさせて中に入ろうと足を踏み入れた。
「おはようございます。」
中は冷房が付いていて、物凄く涼しい冷気がフワッと体を包んでくれる。
物凄く心地良い。
そして、深海ちゃんはこんな時でも表情一つ変えることはない。
「あぁ、おはよう。
今日はどうしたのかな?」
「実は、迷子を届けに来て…もしかしたら、親御さんが探しているんじゃないかと思ったんですが…。」
そう言うと僕はスッと横に避けながら、お巡りさんにも深海ちゃんが見えるように立つ。
僕とお巡りさんを隔てるのは腰よりやや下くらいの高さがある机と椅子だけ。
「なるほど…それで、その迷子の子は何処に居るんだい?」
お巡りさんは窓の外を見つめながら言う。
まるで僕の隣に誰も居ないと言いたげな様子で。
「え?……どこにって…僕の…隣…に…。」
「隣? というと…君の、隣という事かい? ここには私と君以外の人間は居ないというのに…何を言っているんだ? 君…大丈夫かい?」
「……ぇ…と…。」
衝撃的且つ予想外の答えに、僕は言葉に詰まった。
顔の血の気が引いていくのを感じた。
ここに居るのはお巡りさんと僕だけ…確かにそう言った。
何を言っているのだろう? 深海ちゃんは僕の隣に居て、僕と手を繋いでいる。
どうして? 見えないって…? 意味が分からない…。
だって、どこからどう見ても僕と手を繋いでいるから。
見えないなんてことがあるはずがない。
あり得ない。
僕は混乱と困惑で頭が真っ白になった。
意識が飛びそうになるのを何とか気力で押し留まる。
確かに僕の手の中に、深海ちゃんの熱を帯びた手がある。
熱という名の体温があり、僕と手を繋いでいる。
姿もハッキリと見えるし、シャワーを浴びさせて、共に食事を摂って、二人分の食器も洗った。
寝息を立てながら寝ていたし、白いワンピースを洗濯して返した。
それが…目の前に居る深海ちゃんが、他の人に見えないなんて…そんな事…。
まるで幽霊のように言うお巡りさん。
彼は街でも有名な人格者のはずで、小さな子を幽霊のように、居るのに居ないかのように振舞ったりなどしないはずだ。
「今日はいつもより暑いからな。
最近はまた熱中症になる人が増えているらしい。
ここはそんなに広くはないが、ゆっくりして行かないかい? 冷たい水でも持ってきてあげるよ。」
そう言ってお巡りさんは奥に歩を進めていく。
そんな馬鹿な…。
思考が混乱して、まともな考えが出来ない。
僕が一緒に居る深海ちゃんが……幽霊?
(……。)
唐突に、深海ちゃん(みう)がギュッと強く握ってきた。
その手は微かに震えている。
その表情は凍り付いたように変化がないけど、手は震えていた。
まるでそれは、僕に対して幽霊じゃないと訴えかけるかのような…。
何かに怯えているような…。
「…お待たせ。
さぁ、これを飲んで少し元気を取り戻すと良い。」
お巡りさんは水が入ったコップを一つ、僕の目の前の机に置いてくれた。
二つじゃない。
やはり彼には、深海ちゃんのことが見えていないらしい。
無視するような人じゃないからこそ、余計に信憑性が高まってしまう。
僕は、平然を装いながら水の入ったコップを一気に飲み干した。
「迷惑掛けました! それでは、失礼します!!!」
僕は飲み干したコップを置いて、逃げるように交番から出て行った。
深海ちゃんの手を引きながら、アーケードがある方向とは逆方向に進む。
頭の中は相変わらずグチャグチャの混沌と化していて、何処に向かうべきか、何をするべきか、考える余裕なんて皆無だった。
「どうなってるんだ…。」
思わず口を割って出てきた言葉に、自分でも驚く。
しかし、本当にどうなってるのか。
交番に居たお巡りさんは、深海ちゃんの姿を全く認識していなかった。
知らないふりをしていた訳じゃなく、本当に何も見えないといった感じで…そもそも、そんな事をするような人ではない。
ではなぜ、僕だけが見えているのだろう? どうして僕ははっきりと深海ちゃんの姿を認識して、彼女の体温を感じるのだろう? そもそもどうして、深海ちゃんは食事が出来るのだろうか。
仮に、あくまで仮にだけど、幽霊だとすれば…食事もできないし、体温も感じないはず。
そもそも幽霊なんて現実世界に殆ど干渉できないはずじゃないのかな? 幽霊の情によっては干渉も可能だなんて聞いたことはある。
けど、せいぜい写真や映像の情報媒体上の話だったりするわけで、物理的に食事をしたり、睡眠を取って寝息を立てたり、手を握って体温を感じるなんて聞いたことがない。
人間にしてはあまりに限定的な周囲の認識で、幽霊にしては人間に近すぎる。
まるで、他の人がわざと深海ちゃんが「存在しない子」として、扱っているかのような態度。
でも、仮にそうだとしても全員が全員、「存在しない子」として見向きもしないなんてことがあるのだろうか?
少なくとも、この街に初めて来た人や観光できた人、違う街からの流れ者やこの街を経由しながら何処かに向かう人だって居る訳で、その人たち全員が「アイツを避けろ。見えない子を見るな」という風習を認めて実行するなんて考えられない。
「………。」
(……?)
深海ちゃんと握った手がクイクイっと上下に振られ、現実に戻った。
彼女の方に目を向ける。
海に同化するほどに透き通った海水色の髪と、深海のように深い青を帯びた瑠璃色の瞳を持つ少女。
深海ちゃんの表情は変わらない。
瞳の色も変わらない。
何も変わらない。
でも、何かが違う。
微妙だけど、確実に何かが違う。
それは、かすかに帯びた不安の色に見えた。
僕が彼女のことを幽霊じゃないのか、なんて考えたことが、顔に出ていたのかもしれない。
「ごめん…さっきの話を聞いて少し、混乱しただけだからさ。」
(……。)
僕の話を聞き、無表情のまま視線を足元に向ける深海ちゃん。
「あ…お、落ち込まなくていいからね! 僕はしっかりと、キミのことは見えてるし!!」
(………。)
慌てて励まそうとしたものの、あまり効果は期待できないらしい。
まぁ、他人から君のことは見えてる、なんて言われたら誰でもそうなるか。
というか、僕のこの行動は周りの人たちからも異端の目で見られる羽目になっている。
僕が独り言を呟いているように見えてしまうのだろうか。
なんとなく居た堪れない気持ちになり、僕は深海ちゃんの手を引いてその場を離れた。