不思議な少女
次の日は土砂降りの雨天だった。
ザアアアァァァ!!!っと雨粒が地面を激しく叩いている音を響かせているのが聞こえる。
形成された水の絨毯の上を車が通る音も同時進行として聞こえた。
バイトが休みなのは僥倖と呼ぶべきかもしれない。
僕は大学のレポートをこなし始める。
「はぁ~…終わった…。」
気づけば時計は17時を指し示していた。
外は相変わらずの土砂降り。
「あの子はどうしているのかな…。」
不意に、そんなことを呟いた。
昨日は流石に付け回されている気がして、妙に怖かったから帰ってしまったけれど、仮に付け回しているのだと仮定したら…。
こんな土砂降りの中でも佇んでいるのだろうか…。
もしそうならば、風邪をひくかもしれない…なんて呑気な、それでいて奇妙な思考を巡らせてみた。
僕は今の今までまともな他人との接触をした記憶がない。
少なくとも、親しく接した記憶がない。
相手がどう感じるのかはともかくとしても、僕から見れば相手は居ても居なくてもどうでも良い、そんな存在にすぎないのだ。
他人に無関心なのは、幼いころから全く変わっていない部分として考えていた。
でも、ここ数日間であの少女のことが気になっている自分がいる。
海と同化するほどの透き通った海水色の髪と、深海のように深い瑠璃色の瞳を持つ少女。
僕はとりあえず傘を手に、外に出ることにした。
傘を差して商店街の方に足を進めていく。
アーケードの前。
そこに居た。
やはり居た。
そこにただただ佇む影。
海と同化するほどの透き通った海水色の髪を腰まで伸ばし、瑠璃色の瞳を持つ、白色ワンピース姿の少女。
まただ。
また同じ服装。
何一つ変化は見当たらない。
ただ、一つだけ変化があるとすれば…。
彼女は僕の家の方角に近いところで佇んでいるということ。
昨日は八本車道の国道とアーケードの前に佇んでいたはず。
それが、今はアーケードの出口で佇んでいた。
まるで少女の居る周囲の空間だけが時を止めたかのように…。
ただひたすらに佇んでいた。
しかし、その視線は僕の方には向けられておらず、無数の小さな粒を落とし続ける空に向けられていた。
濡れた髪は艶やかに光を反射し、滑らかさをここぞとばかりに主張している。
彼女の白いワンピースは雨粒をそのままの形で維持させ、水を弾いていた。
ワンピース兼レインコートといったところだろうか…そんなものが存在していたなんて知らなかった。
というか、そうなると常から彼女はレインコートを着ているということに…。
いや、そんなことはこの際、どうでも良い。
華奢で儚く細い体に、膨らみといえるほどの膨らみがない平坦な胸、力を入れればいとも容易くポキリと折れてしまいそうな四肢を持つ少女に歩を進める。
なんて声を掛ければいいのかな? 今まで殆ど初対面の存在に此方から話しかけたことなんてないから、困惑する。
とりあえず僕は、傘を彼女の頭上に傾けた。
「こんなところで居たら、風邪引くよ?」
僕の問いかけに、少女は視線を空から僕に向けた。
「………。」
無言無表情。
その圧力に一瞬だけ怯んでしまう。
別に殺気を向けられたわけでも、敵意を向けられたわけでもなく、警戒されたわけでもない。
ただ純粋に見つめられただけで、少し違うのは人間離れしたほどの無表情さといったところか。
「え、えっと…家はどこなのかな? お父さんやお母さんは?」
とりあえず、迷子に対する定型文を吐いてみる。
(……)
彼女は無表情で見つめてくる。
「……? おーい、聞こえてる?」
(コクン)
僕の問いに少女は答える。
「えっと…言葉は分かる?」
(コクン)
何かしらの障害があるのでは?なんて思いながら問いかけてみると、少女は首を縦に振る。
「じゃあ、何を言ってるのかは分かるんだよね?」
(コクン)
「耳は? 聞こえる?」
(コクン)
「なら…改めて聞くけど…君の家はどこにあって、お父さんやお母さんは何処に居るの?」
(……)
またもジッと、ただひたすらジッと僕を見つめてくる。
「え、えぇっと…言葉の意味自体は分かるかな?」
(コクン)
理解していると示した。
何を聞きたいのか、何を聞いたのか、内容を理解していると示した。
あくまで「示した」だけ。
言葉として「口に出した」訳ではない。
それはつまるところ…。
「もしかして、声を出せないの?」
(……コクリ)
僕の問いかけに暫し考えた後に、頷いた。
確かに首を縦に振った。
「そっか…なら質問に答えられないのも無理がないってことだね。
……とりあえず、体が濡れているし…今日はウチに来る?」
こんなところでずっと話しているのもなんだし、周りの人も気にし始めているみたいだった。
まぁ、僕のような大学生が少女に話しかけていればそうなるか。
体型からして、中学生くらいかな? 高校生とは言えないだろうし、妹が生きていれば彼女くらいの体型だろうと思う。
「それじゃあ、ついてきて…。」
(……。)
傘をなるだけ彼女の方に傾けさせてあることするところで、少女は僕の服の裾をクイッと引っ張る。
その手は小さくて儚くて、握れば壊れるガラス細工のようだった。
小刻みに震えている。
顔を見ると、仮面が張り付いたように変化のない無表情。
だけどその頭はほんの僅かに震えていた。
体も震えていた。
全身から冷気を発しながら、寒そうに体を震わせていた。
「…寒いの?」
(!…コクコク)
僕の問いかけに僅かに目を大きく開いて、どこか訴えかけるように首を数回縦に振る。
そんな少女の様子を見た僕はなるだけ早足で、彼女の負担がないように早すぎずに歩き、降り続ける冷たい雨粒から彼女の小さな体を護るように傘を傾ける。
僕たちは家にたどり着く。
「ふぅ…ちょっと待っててね…。」
僕の半身の大多数は被害甚大。
対する少女の全身が全滅状態。
海水色の髪から止めどなく雫が滴り落ち、玄関の床にポタポタと音を立てながら濡らす。
僕は傘を直して、すぐさま靴を脱ぐと、そのまま洗面所のタオルを取って少女の元に戻る。
彼女は興味深そう(?)に僕の部屋を見渡していた。
そんな少女の頭上にタオルを被せ、恐ろしく滑らかな髪から水気を吸い取る。
一通り水気を取ると、少女を部屋の中に招いた。
玄関のすぐ右横が台所で、その奥の部屋が風呂場になっている。
この際、多少床が濡れようが気にしない。
とりあえず、髪から落ちる雫の量がおびただしかったから拭いただけだし。
僕は少女をさほど広くもない脱衣所まで連れてきた。
「着替えはこっちで用意するから、適当にシャワーを浴びてくれ。」
(…?)
僕は用件だけ言って出ようとして、少女の反応を見て固まる。
なんだ? なんだ今の首の傾げは? 何に対して分からないと意思表示したんだ?
「え、えっと…シャワー…シャワーって…知らない?」
恐る恐る聞いてみる。
まさか…いくらなんでもそれは…
(コクン)
…あった。
平然と、無表情で、さも当然のことのように、即答するように頷いた。
『バカな…。』
まず浮かんだのは疑念。
目の前の少女の意思表示がイマイチ信じられなかったけれど、ひとまず信じながらことを運ぼうと無理やり結論付ける。
「え、えっと…シャワーっていうのは…。」
風呂場の扉を開く。
床は石畳のような模様のタイル。
左手には白い浴槽、壁は一面白一色でところどころに小さな黒い斑点のようなカビが生えている。
奥は鏡で、鏡の左側にプラスティック製丸型シャワーヘッドを搭載したシャワーが壁に掛けられている。
僕はシャワーヘッドを手に持ち、すぐ下にある蛇口に手を添える。
「…これがシャワーで、これが蛇口っていうもので、これを上に上げるとシャワーが出るんだ。
えっと…ここまでで分かるかな?」
(……コクリ)
一つ一つ丁寧に説明した。
シャワーの水が出る穴を湯船に向けながら、蛇口を上に上げる。
各部位の説明も滞りなく行う中、まるで少女は初めて見るような…珍しいものを見るような目でジィッと見つめ続けていた。
その表情は限りなく無表情ではあったけれど…。
「見ててね?」
(………。)
頷く少女を尻目に、僕はシャワーの蛇口を捻った。
シャアアァァァっと幾線もの水の筋をシャワーヘッドの穴から出し、タイルの床を濡らす。
(…!!!!)
少女は深海のような瑠璃色の瞳を大きく見開いて、シャワーと床を交互に見詰めていた。
「驚いた?」
(コクコクコクコク…)
少女はこれでもかというほどに首を縦に激しく振る。
無表情のままで頭と胴体が千切れるのではないか、と思うほどに頭を振る少女に僕は苦笑した。
「あー、分かった分かった…驚いてくれて何より。」
僕は何を言ってるんだろう。
寧ろ、シャワーくらいで驚いている少女に対して、僕の方こそ驚くところなのに…。
というか、そもそもこんなセリフを吐く瞬間が来るとは思ってもいなかった。
「よし、じゃあ…あとは一人で入ってね。」
(コクコク)
無表情のままで頷き、僕はシャワーの蛇口を捻って水を止める。
そして風呂場から出ようと入口に目を遣り…。
「…って!待て待て待て!!!」
濡れた服を僕が居る前で脱ごうとする少女に、思わずストップをかける。
腹筋一つないイカ腹を露出させながら、少女は固まって僕を見つめた。
当然僕はその隙に風呂場から退散する。
「男の僕が居る前で服を脱ごうとしちゃダメだろ…。」
独り言のようにボソッと呟く。
(…?)
「…じゃ、じゃあ…着替えは僕が用意しておくから。」
男である僕の前で脱ぐという行為に対して、何ら違和感がないと言いたげに首を傾げる少女。
ひとまず気を取り直して告げると、彼女の反応を待たずに脱衣所から退いた。
そして向かったのは居間にある一つのタンス。
ここには子供の頃の僕と妹の服も入っている。
さすがに妹の服は入らないだろうから、僕の服を与えたら何とかなるだろう。
時計は19時を指示していた。
僕は着替えを風呂場に置いて、夕食を作るべく台所に立つ。
とりあえず、僕が感じた彼女の印象は「不思議」の一点のみだった。
この言葉に尽きる。