ある日の海で…
春の陽光が心地よく照り付け、肌を刺して来る。
白い砂浜と青い海、白い雲と蒼い空。
上下で似たような色彩があるのは、何とも不思議な光景だ。
夏になればここにはたくさんの人が行き来することだろう。
砂浜に集まるたくさんの人。
海を泳ぐたくさんの人。
でも、今はここに来ても誰もいないし、僕も水着には着替えないし、遊ぶこともないし、ただただ青い海を見つめていた。
夏になったとしても、僕は遊んだりなんかしない。
忘れられない記憶。
僕は荒林龍人。
僕の妹はこの海で、僕と遊んでいる途中で溺死した。
そのショックからか、母さんは精神的に可笑しくなり、酒を飲んでは父さんと喧嘩ばかりした。
まだ幼かった僕は、妹の部屋に入って過ごす時間が増えた。
妹の匂いが、妹の部屋の空気が、何とも心地よくて、ここに逃げていれば現実なんて何も怖くないと思った。
ある日、僕が遊びから帰ると家は炎に包まれ、消防士の人達が消火作業に入っていた。
その火事の所為で妹の部屋に行けなくなったのは勿論のこと、父さんと母さんが死んだ。
父さんは高熱で寝込み、母さんが自殺を図って火を放ったらしい。
独り残された僕は婆ちゃんの家に引き取られた。
父方は僕が生まれる前に祖父母とも亡くなっていて、母方は爺ちゃんが妹の後を追う様に死んだ。
だから、婆ちゃんしか居ない家だった。
婆ちゃんは僕を宝物のように、大切に大切に育ててくれた。
自分の娘が死んでしまって日が浅いのに、微笑みばかり浮かべていた。
「よかよか」と言うのが口癖で、色んなことを一緒にこなしてくれた。
余談だけど、口癖の意味としては「良いよ良いよ」という意味だ。
僕が欲しいと言ったものを「よかよか」と言って与えてくれて、僕が何をしても「よかよか」と言って怒ることはなかった。
いつも笑顔で、元気いっぱいで、歳の衰えなんて何一つない。
あと、婆ちゃんは持っている財産を僕の大学進学に充ててくれた。
元々は高級マンションに住んでいたらしいけど、僕が生まれると同時に家賃が安いアパートに住み替えて、持っている財産の殆どを使わずに貯蓄していったらしい。
婆ちゃんが遺してくれた財産は僕の家の中に隠されている。
いや、正確には僕の名義の銀行通帳の中だ。
その中に頭がクラクラするほどの大金が入っている。
でも、婆ちゃんは僕をアルバイトで稼いだものだけで生活するよう言ってくれた。
僕が怠け者にならないための最大限の配慮だった。
僕は、そんな婆ちゃんのことが本当に大好きだった。
でも、婆ちゃんも、一年前に老衰で死んでしまった。
僕の膝の上で、眠るように逝った。
僕はただ感謝した。
婆ちゃんが居たことに。
婆ちゃんと過ごせたことに。
婆ちゃんから教わったことに。
確かに悲しかったし、悲しくて苦しかったけれど、それ以上に貰ったものがあったから、それを大切にしようと思った。
今は婆ちゃんと一緒に暮らしたアパートでそのまま住んでいる。
さほど高くない家賃は、僕の財布には優しい。
その僕もこうして海を眺めに来る。
別に何か求めているわけでもないし、妹を奪った海を恨みたいわけでもない。
ただ、僕は海を好きになれない。
波の音、海の匂い、生暖かい海風、水平線の向こうまで果てしなく続く海。
それらを五感で感じれば感じるほど、強烈な喪失感と嫌悪感が湧き出てくる。
嫌悪感の正体が、海に対する嫌悪感なのか、妹を助けてやれなかった僕の無力に対する嫌悪感なのか、よく分からない。
海岸の脇にある岩場まで来る。
こんなところまでは流石に誰も来ないらしくて、岩場に足を踏み入れたのは僕だけ……のはずだった。
そこには少女が居た。海と同化するほどに透き通った海水色の髪。
その髪を背中の腰辺りまで真っ直ぐに伸ばしている。
身長は僕より二十センチ弱ほど小さくて、細くて、儚い雰囲気すらある少女だった。
服装は白一色のワンピースで、肌の白さも相まって太陽の陽光を反射し、少しだけ眩しい。
海風に吹かれてたなびく髪の先にあった白い項を露わにさせた。
僕は彼女からやや離れたところの岩肌に足を踏み入れ、海を眺める。
ここは僕の不幸が始まった海であり、トラウマの象徴となっている海。
それをただひたすらに見つめながら、妹のこと、両親のこと、婆ちゃんの事に思いを一ヵ月に一度は巡らせている生活。
大学が夏休みに突入したから、考える時間は驚くほどに多くあった。
ふと、視線を向けられていることに気が付く。
視線を向けて確認したわけじゃないけれど、視線を受けていると感じる。
無論、真横からだった。
つまり、やや離れた場所に居る少女から向けられた視線。
どう対処するべきか…迷うこと数分。
僕は唐突にチラッと目だけ少女に向けた。
少女は構わずジィッとこちらを見つめている。
髪は海面部分の色を表すような色をしているのに反し、その瞳は深海を彷彿とさせる瑠璃色の瞳だった。
チラッと見るつもりが、凝視しながら思わず見惚れてしまう。
どれくらい見つめ合っていたのか、数秒にも、数分にも、数時間も感じる時間の間を過ごしたうえで僕は突然、急激に気まずくなってしまった。
「……あ…ぼ、僕は…これで…。」
僕は彼女がどういった存在なのかという疑問以上に、この場から離れたい衝動に駆られて岩場を後にした。
少女は最後まで僕の方に視線を向けつつも、声を掛けることなく見送る。
僕は合計で八車線もある国道を渡り、巨大な商店街のアーケードを通り、人ごみを縫う様に歩み進めながら、自分が住むアパートに足を進めて行った。
一方通行の道沿いに立ち並ぶ住宅街。
僕はその道を早足で進んで行った。
少女が追いかけてくるわけではないのに、何故か足を急がせて、家に辿り着いた。
この日は何も考えず、食事を取った後にのんびりと時間を過ごして布団を敷き、一日を終えながら眠りについた。
意識が遠のく寸前に岩場で出くわした少女を思い出しながら…。
翌日はバイトが朝からあった。
バイト先は国道沿いのレンタルショップ。
この街では一番大きくて、大抵の映画やアニメ、マンガのレンタルを受け付ける大型のレンタルショップ。
時給はそこそこ高く、それでいて楽な仕事ばかり担当している。
いつも通り、僕は自転車に乗って国道沿いを走り、バイト先へ行くつもりだった。
そこでふと、海の方面へと視線を向け、僕は息を呑んだ。
昨日の少女だ。
見た感じでは幼く、海水色の髪と瑠璃色の瞳でこちらを見つめ、白いワンピースを着込んでいた。
「……っと、そろそろ行かないと遅刻する…。」
僕は彼女のことが気になりつつも、バイトの時間が迫ったのを確認すると、自転車を走らせてレンタルショップに向かった。
少女は…
こちらをジィッと…
見つめていた…
ただひたすらに…
まるで少女の居る周囲の空間だけが時を止めたかのように…
見つめていた…
バイトが終わった時には、すっかり空は橙色に染まっていた。
今日も一日お疲れ様、と自分に言いたい。
さて、早く帰ってご飯の準備でもし…よう、か…。
僕は目線の先に映る光景に、思わず自転車を止めた。
あの少女だ。
あの少女がこちら側の車線の歩道に立って、商店街に入っていく道の目の前で佇んでいる。
ジィッとこちらを見つめていて、追いかける素振りも見せず、ただただこちらを見守っている。
流石にちょっと背中に悪寒が走る。
もしかしたら、僕以外の誰かを待っているのかもしれないけれど、僕の方を見つめていることにちょっとした恐怖を感じた。
僕は気を取り直して少女の立つ目の前を通りながらすぐに商店街に入る通りを曲がった。
一体なんだというのだろう…。
僕は夕食を商店街で買い、振り返りつつも少女の姿はない。
追いかけては来ないらしい。
その事に安堵しながら、僕は家に向かって帰途についた。