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あれから三日が経った。
由宇記のいない「金色」へ寧々が来ることがなかったし、ホテル自体も経営者を失って営業を停止していた。眞人は生活の場を他所に移す必要がったが、特に当てもなく、いまだホテルの従業員室で寝泊りをしている。
その昼下がり、眞人はホテルの屋上に座り込んで、見るともなく眼下の街並みを眺めていた。煙草を吸おうとするが、風が強くてうまく火がつかない。小雨が強風に吹かれて舞っていた。
何度もライターを点火しながら、そういえば自分が煙草を吸うようになったのは睡蓮の影響だったと思い出す。彼女はいつも従業員室のソファに座って、淡いパールのようなネイルの先に煙草を挟んでいた。
やがて火をつけるのを諦めて、煙草を投げ捨てようとした時、眞人の背中越しに手が伸びてきて煙草を奪う。そこに立っていたのは、睡蓮に見立てられたあの女だった。
仮面を取った彼女の顔立ちは、本物の睡蓮よりもずっと美しかった。睡蓮も随分ときれいな女だったが、目の前の彼女の美しさというのは、おかしな話ではあるがどこか人間離れしたもののようにさえ感じられた。絶世の美女、そんな大袈裟な表現が似合うほどだった。
他に行くところがないのか、すいれんが由宇記の私室で寝泊りを続けているのを眞人は知っていたが、三日前のあの日から顔を合わせてはいなかった。
彼女は眞人の手からライターを奪うと、何の苦労もなく煙草に火をつけてしまう。煙を吐きながら、ホテル館内へと続く階段を指して、中へ戻らないかと促す。眞人がここでいいと答えれば、すいれんは少し肩を竦めて、眞人の隣に腰を下ろした。
眞人の顔を覗き込み、自分が吸った煙草を差し出して吸うかと問いかける。すいれんの唇が触れたフィルターを前に、返事がほんの一呼吸だけ遅れる。要らないと答える眞人を見つめて、彼女は悪戯じみた微笑を口許に浮かべた。
彼女は物事を良く見ているし、相手の心理を見抜くことにも長けている。その能力とこれだけの美貌があれば、たとえ喋ることができなくとも生き抜いていけるだろうと眞人は思う。
そもそも彼女が自分に黒子を見せようとしたのは、眞人が睡蓮と何らかの関係があると見抜いてのことだろうが、では一体どの時点で彼女は気付いていたのだろう。
すいれんは眞人の傍らで、床に煙草を押し付けて消した。それから不意にスカートを持ち上げて、何を思ったか自分の足を晒す。いつも持ち歩いているのか懐からペンを取り出すと、眞人に渡した。眞人が意図を読みかねていると、彼女は自らの左腿を指差して、冗談めかして笑う。
付根にほど近い左腿の内側、そこに黒子を書けと言っている。下世話だとは感じながらも、すでに眞人は彼女の行為を冗談として捉えられる程度の余裕を持ち合わせていた。眞人はもう少しだけ衣服を持ち上げると、左ではなく右腿に黒子を書いてやる。すいれんが笑った。
「名前、なんて言うの。本当の名前」
すいれん、というのは由宇記に与えられた名前に違いない。彼女はペンを持つ眞人の手を上から握って、そのまま彼が書いた黒子の上に筆先を置く。そこに書かれた文字は「ばくし」というものだった。
撚れたひらがなを眺めながら、冗談にしてはひどい彼女の行為を笑えば、すいれんは微笑を浮かべたまま上目遣いに眞人を見る。自分の手を包むすいれんの手のひらはあたたかい。誘っているのがわかった。
「ていうか俺できないし──」
そう言い終わる前に、不意にすいれんが眞人に口づけた。小雨に濡れたすいれんの唇の冷たさを感じながら、彼女は一体何が目的なのだろうと考える。そもそも由宇記との関係にしても、なぜ大人しくペットのように飼われていたのだろう。彼女は逃げる素振りすら見せなかったし、椅子に縛られても全く堂々と落ち着き払っているように見えた。自らを餌にして彼女は何を得るつもりなのだろう。
口づけたまますいれんがこちらを見た。だが彼女の目の奥には今、眞人が映っていない。眞人を前にしてどこか遠くへと向けられた眼差しは、彼女が由宇記の部屋で真っ直ぐに見つめ返してきたそれとは明らかに異なっている。まるで睡蓮のような目、そうとしか言えなかった。
どうして今になって彼女は、睡蓮に成り代わったようなこんな目をするのか。自分はずっとこの睡蓮の目が見つめ返してくれることを望んでいた。今求めさえすれば、すいれんは昨日ずっとそうしてくれたようにこちらを見つめてくれるだろうか。
目の前のすいれんが記憶の中の睡蓮と重なって、その時、島の言い伝えが眞人の脳裏を掠める。獏師は人の執着や欲望を喰らうという。その瞬間だった。目の前のすいれんの顔が睡蓮のそれへと変化する。だがそれは確かに錯覚ではあった。眞人自身気付いている。
眞人がすいれんから唇を離し、すぐ間近で彼女を見つめ返せば、錯覚はすでに解かれていた。美しいすいれんの素顔がそこにある。この半年間、眞人を蝕み続けた熱はすでに引き、代わりに重くのしかかるのは捉えどころのない虚しさばかりだった。
「そのままのがいいよ。睡蓮より君のがきれいだ」
何気なく思ったままを口にしてから、すいれんにとっては意味のわからない言葉に違いないと思う。もっともすいれんの見せる睡蓮のような眼差しが単なる偶然にしか過ぎないのであればの話だが。
眞人の言葉にすいれんはわずかばかり驚いたようだった。一瞬ではあったが、彼女が不意をつかれた表情を見せる。その胸中を推し量ることはできなかったが、睡蓮という役割を演じ続けた彼女の素顔を垣間見た気がした。
「もう行ったら?」
間近にあるすいれんの顔が小雨に濡れている。その頬にかかるすいれんの湿った髪を指先で払いながら言うと、彼女の眼差しがすうっと細められた。それは由宇記の部屋で彼女が見せた、あの探るような眼差しだった。
獏師は一度狙いを定めた相手は逃さないというが、それはこの目の前の「ばくし」も同じだろうか。だがそんな疑問はすぐに拡散していく。今更どうだって良かった。睡蓮を求めることにすでに意味などないのだ。獏師の餌にはなり得ない。
やがてすいれんが眞人の隣から立ち上がる。彼女が去ろうとする気配を感じながら、眞人は自分の手のひらに視線を落とした。握り込んで強張っていた指先をようやく開いても、その中には何もないのだ。どれだけ欲しいと願い、どれほど大事に捕まえていたつもりでも、握り込んだ指先のその隙間から零れ落ちるように、いつかは失われてしまうのだろう。けれど、それならば何に手を伸ばせばいいというのだろう。
その時だった。立ち上がったすいれんが不意に眞人の手を引く。驚いて見上げれば、彼女はホテル館内へと続く階段を指差していた。中へ戻ろうと言っている。眞人の答えを待つことなく、すいれんはその手を握り、指先を絡め取った。自分の右手とすいれんの左手、互いの五本の指がしっかりと組み合わされるのを、眞人はただ見つめていた。
ひとりで握り込んだだけでは生まれてしまう隙間から、大切なものが零れ落ちてしまわないように──もし彼女がそんな風に言ってくれるのならば、いくらか救われるのだろうか。こうして彼女の手を取って、彼女の目を見つめたとして、だがもしこれがいつかの繰り返しなら──。
まるで眞人のそんな胸中を遮るかのように、すいれんが強引に手を引いた。眞人は思わず体勢を崩す。獏師はこんな強引なやり方をするのだろうか。獏師のやり口と言われる巧妙さとはあまりに程遠い。ああだから「獏師」ではなく「ばくし」なのか。
妙な可笑しさに背中を押されて立ち上がれば、すいれんがわずかに微笑みながら眞人の顔を覗き込んだ。彼女の眼差しを真っ直ぐに受けながら、眞人は思う。
どれほど虚しさに苛まれ絶望していたつもりでも、きっとまだ期待しているのだろう。いつだって本当の意味で求めていたのは、失われることのない、終わることのない何かだった。永遠とも呼べるようなそんなものが果たして本当に存在するのか、たとえ知りようがなかったとしても、求め続けるしかないのだろう。希望の欠片を握り締めて、この脆い現実を彷徨いながら。
組まれた両手を見下ろせば、それはまるで未完成な祈りのようだった。