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──そこに黒子はない。陶器のような肌をどれだけ見つめても黒子が見当たらない。
眞人はほとんど縋るようにすいれんの足へ手を伸ばして、しかしその時だった。
突然、由宇記の私室の扉が開かれる。部屋の入り口を見やれば、そこに寧々が立っている。由宇記が戻ったのではないことに安堵する間もなく、寧々が呆然と言い放った。
「由宇記が死んじゃった」
*
眞人は自分自身を落ち着けるためにも寧々を連れて従業員室へ戻り、ソファに座らせた。彼女の言うところによれば、いつものように従業員室に来てみると、ホテルの電話が鳴り続けていたらしい。はじめは無視していたものの、あまりのしつこさに辟易して電話に出れば警察だった。そこで、由宇記が廃墟と化した集合住宅の中庭で銃殺されていると知らされたとのことだった。
おそらく何らかの闘争に巻き込まれたのだろう。この島のマフィアは凶悪で警察も野放しにしている状態だった。眞人は由宇記の携帯電話が鳴り続けていたことを思い出す。寧々は号泣しながら、獏師に食べられてしまったのだと繰り返していた。
寧々が嗚咽とともに漏らした話によれば、由宇記にはかつてどうしようもなく恋焦がれたひとりの女がいたらしい。だが彼女はある日突然、姿を消した。それでも由宇記は彼女を忘れられなかったのだという。半年前、寧々が由宇記と出会ったばかりの頃の話だと言っていた。
「こないだから由宇記が飼い出したあの女、はじめに由宇記が連れてきた時と雰囲気がまるで変わってた。髪なんて黒くて巻いてもいなかったのに。由宇記は昔の女の代わりが欲しいだけ」
眞人は由宇記の私室に入った時の微かな刺激臭を思い出す。あれは染料の匂いだったのかもしれない。すいれんの黒い髪を、睡蓮と同じ栗色に染めたのだろう。
「私、由宇記とはじめて会った夜に、胸元に黒子を書かれたわ。耳朶の裏にある黒子だって、上からペンでなぞられて、ひと回り大きくされたの。おかしいでしょう? でもいつか私だけを見てくれるって信じてた。ずっとそう信じてたのに」
すいれんの黒子もきっとペンで書いただけの代物なのだろう。眞人は泣き続ける寧々の傍らで思う。それならばなぜすいれんの左腿には黒子がなかったのだろうか。書き忘れただけとはとても思えない。
もしかすると由宇記は睡蓮と肉体関係を持たなかったのだろうか。だからあんな場所の黒子には気付かなかったのではないか。昨日、由宇記はすいれんへと手を伸ばし、だが彼女に触れることを確かに躊躇した。しかし娼婦である睡蓮が、自分に好意を持っている由宇記と肉体関係を持たないというのは、一体どうしたことだろう。それは何を意味するのだろうか。
睡蓮と金銭を絡めずに関係を持った自分は、彼女にとって特別に違いないと思っていた。たとえ睡蓮がどこか遠い目をしていたとしても、その目の奥に自分が映っていなくとも、それだけは確実だと思っていた。
だがもしも娼婦である彼女が由宇記と肉体関係を持たなかったのなら、それだって何か特別な意味があったのではないか。それとも睡蓮の知らないところで、由宇記が一方的に恋焦がれていただけなのだろうか。
そう考えるのが妥当かもしれないと思う一方で、それとは相反する思いの方がはるかに勝っていた。もはや理屈ではなかった。睡蓮を求める衝動だけが、眞人を何ら根拠のない思考へと駆り立てていく。
睡蓮にとって由宇記とは一体どんな存在だったのか。寧々の話によれば由宇記は睡蓮に捨てられたことになる。なぜ睡蓮は由宇記を捨てたのか。その理由は自分を捨てた理由と同じだろうか、異なるのだろうか。しかしそもそものところ睡蓮にとって自分とは一体何だったのか。
答えが与えられるはずもない疑問が次々と浮かび上がり、熱を上げながら頭の中を巡り続ける。理性が麻痺していくのをぼんやりと自覚しつつも、エスカレートするそれに歯止めをかける術がない。眞人の脳裏に父親の存在が過ぎる。母親が消えた理由を男に違いないと決めてかかる父親は、今の自分のような気持ちだったのだろうか。
「今頃死んでいるかもしれない」、かつて父親は母親のことをそう言った。酒やけした声で呟かれたあの言葉が脳を打ったその瞬間、あまりに唐突に「死」と睡蓮とが結びつく。根拠などどこにもなくとも、眞人にはもはや必然のようにさえ感じられた。
睡蓮だって今頃死んでいるかもしれない。だとすれば彼女を永遠に失うことになる。──違う、すでに失っているに等しいではないか。睡蓮はもう戻らない。いや違う、彼女はいつかきっと戻ってくる。そしてその目の奥に自分を映してくれる。彼女にとって自分は確かに特別だった。由宇記という存在は何かの間違いに違いない。そうでなくてはならない。だが本当に?
相反する思いが交錯して高まる熱に脳が軋む。この閉塞された小部屋と、それに似合いの自分自身に息が詰まる。ただ苦しかった。ここから解放されたいのだとほとんど懇願するほどに強く思う。どうしたら解放されるだろう。睡蓮を手に入れなければ、自身を縛るこの衝動から逃れられないというのか。
由宇記は死んでしまった、死んでいるかもしれない睡蓮を求めながら。どれだけ求めたところでいつかは絶たれてしまう、所詮そんな結末であると知っていてなお縋るように求める。一体何の意味があるというのだろう。それが自身を縛ることにしかならないのならば、こんな思いを強いられるのならば、もうお終いにしたい。
がんじがらめになった心が限界を告げていた。今まで強く強く握り締めていた指先を開いて、ついに得ることの叶わなかった幻など、手放してしまいたいのだ。
眞人が強烈な吐き気をも催したのはその時だった。
朝から何も食べていない、吐き出すものなど何もないはずだった。にもかかわらず不意打ちのようなそれを抑えることができない。そして眞人は自らの内部をすべて吐き出すかのように嘔吐する。胃の痙攣とともに幾度となく繰り返す。ほとんど胃液しか排出されない、搾り出すような嘔吐の苦しさに視界が滲むが、涙の理由はそれだけではないのだとわかっていた。
遠くで寧々の嗚咽を聞く。朦朧とする意識で思い出すのは、遠い日の父親の姿だった。
かつて父親が酒に溺れながら握り込んだ拳は震えていた。眞人の目にそれは、自分に殴りかかろうと震えているように見えた。だがあの手のひらの中には母親の面影があったのだろうか。手放せずに強張った指先が震えていたのだろうか。
由宇記を求めて泣きじゃくる寧々の声が、眞人の熱をゆっくりと冷ましていった。