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翌朝六時に由宇記がホテルを出てから、すでに二時間ほどが経過していた。眞人は朝からまだ何も食べていない。常に食欲に急き立てられている眞人にとって、こんなことは睡蓮が去ってからの半年間ではじめてのことだった。
すいれんを前にした眞人は、黒子を確認したい衝動に駆られながらも、いまだ行動に移せずにいる。クローゼットの上に設置された監視カメラの目を盗む方法が浮かんでいないせいもあるが、いざとなれば壊すなり無視するなりするほかないと覚悟はしていた。それによって由宇記の下で働くことができなくなっても仕方が無いと思っていた。にも関わらず行動に移せずにいるその訳は、すいれんが本当に睡蓮なのか否か、その結果を知ることを少なからず恐れているからに違いなかった。
やがてすいれんは、テーブルの上に置かれたペットボトルを顎で指し示して、水が欲しいと訴えた。眞人はすいれんの隣に歩み寄り、水を飲ませてやりながら、彼女の耳元ばかりを見つめていた。だが、その裏側までは確認できない。手を伸ばすきっかけが掴めない。
すいれんは口許から水をわずかに零しながら、眞人を見つめている。記憶の中の睡蓮はいつだって眞人を見つめ返さない、それなのに彼女を睡蓮ではないと一蹴できないのはなぜだろう。
眞人は睡蓮と出会ってからの半年間、いつもそうしていたようにすいれんを見つめる。彼女の瞳の奥に吸い込まれそうな心地がした。すいれんの目に確かに映る自分は、すでに飲み込まれてしまったのではないか。
水を飲ませ終わっても、すいれんは眞人から目を離さない。眞人もその眼差しから目を逸らせずにいると、不意にすいれんが顎で手洗いを指した。
眞人はやはりいくらか躊躇しながらも、昨日も逃げる素振りなど見せなかったのだからと、彼女の上半身を縛る紐を外す。背もたれの後ろで手首を結わう紐も解こうと手を伸ばすが、その前に彼女は立ち上がってゆるやかに歩き出した。すいれんは手洗いの扉の前で足を止めると、振り返って眞人を見る。
訝しみながらも、すいれんの手首の紐を解こうと彼女のもとまで行って、そして眞人はふと、ここが監視カメラの死角になっていることに気付く。
すいれんは扉を背にして、縛られたままの手でノブを器用に回した。そのまま扉の向こうへと入っていく。眞人を見つめる仮面の奥の瞳が、一緒に来るように告げていた。眞人は誘われるがままに彼女のあとに続く。
くすんだ白のタイルが敷き詰められた個室で、扉も閉めないままに向き合うと、すいれんはわざとらしく眞人から顔を背けた。いかにも耳の裏を見ろとでも言うようなその動作につられて、眞人は彼女の右耳へと手を伸ばす。
彼女の耳の冷たく柔らかな感触を指先に覚えながら、その耳朶を持ち上げる。──その裏側には黒子があった。睡蓮と全く同じ位置、同じ大きさだった。眞人の指先はわずかに震え、一瞬、呼吸が止まる。
彼女は本当に睡蓮なのだろうか。だがその眼差しはかつて睡蓮が自分に向けたものとは明らかに異なっている。けれどどうだろう、考えてみればそんなことなどもはや何の問題もないのではないか。
すいれんが本当に睡蓮なのだとしたら、彼女は自分に会いに来たに違いない。だから彼女は今こうして、真っ直ぐにこちらを見つめているのだ。そう思った瞬間、昨夜の夢が脳裏を過ぎる。どれだけ抱いても睡蓮が腕の中にいる感触を得られないあの夢が、眞人を焦燥へと駆り立てた。
眞人は耳朶に触れる手を彼女の顔へと滑らせて、その目元を隠す仮面を取り去ろうとする。だが仮面の端にかけられた小さな鍵がそれを阻んだ。無理にすれば、あるいは時間をかければ仮面を外すことも可能だろうが、それがもどかしい。焦れた指先が熱を帯び、頭の芯が麻痺したように重い。
睡蓮が欲しくてどうしようもなかった。彼女は戻ってきてくれると信じたかった。もし睡蓮が再び目の前に現れてくれるのなら、母親だっていつの日か自分を迎えに戻ってきてくれるかもしれない、そんな期待をすることだって愚かではないのだと信じたかった。
眞人は蓋をしたままの便座にすいれんを座らせると、彼女の右耳の黒子を撫でながら言う。
「足、開いて」
早急に左腿の黒子を確認しなければならない。だがその時、すいれんの双眸がすうっと細められた。何かを探るような目で眞人を見つめる。それは決してひっそりと行われるものではなく、まるで切れ味の鋭いナイフを堂々と真正面から差し込んで、身動きを封じてからじっくりと検分するような、そんな印象のものだった。
眞人が衣服の上からすいれんの左腿に触れると、彼女はそれに答えるようにゆっくりと左足を上げた。彼女の視線は眞人に据えられたままだった。すいれんの眼差しが昨夜の夢で見た睡蓮のそれを重なる。熱に浮かされ、朦朧とさえしながら眞人はすいれんの衣服を持ち上げた。
ほつれかけた裾から彼女の白い腿が露になり、そして──。