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 眞人が従業員室に戻ると、寧々がいつものソファに腰を下ろしていた。眞人が何か食べなければと一旦部屋に戻った時にはいなかったのだが、まるで由宇記の帰宅を嗅ぎ付けたかのように戻ってきている。


 寧々に由宇記の私室で何をしていたのかと執拗に訊ねられ、眞人は面倒ながらも簡潔に事実を告げた。寧々にとっては当然ながらすいれんの存在がおもしろくなく、いかにも不機嫌そうな顔つきだったが、明日も監視することになっていると眞人が伝えると、不意に表情を強張らせた。


「それってどういうこと? 由宇記は明日も出かけるの? こんな風に立て続けに留守にするなんて考えられない」


 由宇記は眞人ほどではないにしろ、ほとんど引きこもりに近い状態にある。確かに何かあったと考えるほうが自然ではあったが、しかし眞人としてはこれ以上そんな話に付き合う余裕などないというのが正直なところだった。


「だってこんなのおかしいもの。ねえ眞人、マフィアかもしれない。あの怖い人たちかもしれない」


 寧々の言葉はすでに眞人の耳を捉えなかった。すいれんの胸元、睡蓮と全く同じその位置に黒子があった。右の耳朶の裏と、左腿の内側、残り二箇所の黒子も確認しなければならない。眞人は急きたてられるように思う。


「こんな時に由宇記の傍にいてあげなきゃいけないのは私なのに。あんな女じゃなくて──あんな不気味な、()()()()()()()()()、あんな女じゃなくて」


 寧々は爪を噛みながら静かに呟くが、やがて眞人が何の反応も示さないことに苛立ちを募らせて、何も言わずに部屋を出て行った。


 眞人は睡蓮を求める自身の衝動に、歯止めをかける術がない。いつしか瞼の裏で始まった妄想の中で、すいれんの仮面へと手を伸ばす。金色のそれを外せば、晒されたのは他でもない睡蓮の顔だった。ますます混濁する意識の中で、眞人は夢現を彷徨う。半年前のあの日、彼女と最後に会った夜のことが、微睡の中で繰り返される。


 睡蓮はいつものように柔らかく眞人に微笑む。だが相変わらずその目はどこか遠くを見つめていて、眞人は今日もそこに自分が映らないことを知る。いつもと同じ夜だった。何の前触れもなく、何の異変も感じ取ることができなかった。


 もしも彼女が真っ直ぐに見つめ返してくれたのなら、その目の奥に何らかの変化を見つけることができたのだろうか。そうすれば彼女を引き止められただろうか。睡蓮の真っ直ぐな眼差しと、その目に確かに映る自分。いつだってそれを求めていたのに、ついに与えられることのないまま、彼女は消えた。


 睡蓮は従業員室の扉を開けて、部屋を出て行く。それが最後だった。彼女が眞人の前に姿を見せることは二度とない、その筈だった。だが夢の中で眞人が振り返れば、再び彼女は部屋の中にいる。


 彼女がソファに腰を下ろして、いつものように煙草を吸う。紫煙が立ち上るその向こうで、睡蓮はこちらを見つめていた。そう、夢の中で再び現れた彼女は、真っ直ぐに眞人を見つめていた。


 二度と失いたくない一心で、眞人は衝動的に睡蓮を抱き締める。だがどれほど強く抱いても、腕の中に彼女がいる感触がないのはなぜだろう。


 かつて感じた彼女の皮膚の冷たさや、薄い唇から漏れる吐息の温もり。煙草の匂いに紛れた、柔らかな彼女自身の匂い。記憶の中に閉じ込めたそれらの感触を手繰り寄せて、今こうして腕の中にいる筈の彼女へ注ぎ込もうとする。だが脳裏に焼きついて離れない睡蓮の目、決して見つめ返そうとしなかったあの目がそれを阻んだ。思い出す感触の生々しさとは裏腹に、彼女の存在がひどく遠い。


 どうせ母親の時と同じなのだろう。どれだけ求めても手に入らない。いつか消え去っていく。手の中に握っていたつもりでも、指の隙間から零れ落ちるようにやがては失われてしまうのだろう。


 残された面影だけを手のひらに抱く行為の、そのやるせなさに耐えかねて手放そうとしたところで、自分にはそれしかないのだとでもいうようにきつく握り込んだ指先が、言うことをきかない。


 残滓にしか過ぎない記憶を抱き続けながら、閉塞された小部屋で繰り返しの日々を送る、こんな自分を空虚だと感じる。狂ったように食べ物をかきこんでも、この空っぽな器が埋まることはない。

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