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「ありがとう眞人くん。彼女のお世話をしてくれて」
やがて由宇記が戻った頃には午後十時を回っていた。由宇記は相変わらず焦点の定まらない目をして、眞人の前を通り過ぎると、そのままベッドの上に腰掛ける。古びた木製のそれが、ぎしりと軋んだ。
由宇記の携帯電話が甲高い着信音を発し続けていた。彼が部屋に戻ってきた時点から、疾うに一分以上は続いている。だが由宇記が電話に出る気配はまるでなく、その音自体を存在しないものとして無視しているようにさえ思われた。
由宇記はベッドに座ったまま俯き、何も喋ろうとしない。沈黙の中で着信音だけが鳴り続ける、その妙に張り詰めた空気に呑まれて、眞人は部屋を去るタイミングを失していた。
その時だった。由宇記が唐突に携帯を床に放り、そして乱暴に踏み付ける。がっ、という鈍い音を立てて、着信音はそれきり途絶えた。一瞬のことだった。
眞人は思わず身構えたが、すいれんは特に動揺した様子もなく、静かに由宇記を眺めている。支離滅裂な言動の目立つ由宇記ではあったが、少なくとも今までこういった乱暴な面を見せたことはない。俯いた由宇記のその表情は窺い知れなかった。
由宇記は壊れた携帯を床に残したまま、おもむろに立ち上がると、すいれんの背後へと回った。彼女へとゆっくり手を伸ばして、そして由宇記はやはり躊躇するように動きを止める。だが今度はそのままそっとすいれんを抱き締めた。
「きっと獏師が来てるんだ」
由宇記が誰に言うでもなくそう呟いた時、不意にすいれんが椅子の上でほんの少しだけ体勢を変えた。彼女の衣服が撚れて、その胸元がわずかに晒される。いくらか不自然なその動作に違和感を覚えるより先に、眞人は彼女の胸元に目を奪われた。
両胸の中央、そこに黒子がある。睡蓮と全く同じ場所、同じ大きさだった。
「眞人くんもう戻っていいよ。ありがとう。明日もよろしくね」
由宇記がすいれんの肩口に額を乗せて、彼女の身体をもう一度抱きすくめる。すいれんに回された由宇記の腕が、ちょうど彼女の胸元に置かれて黒子を隠した。
眞人が追いすがるようにすいれんの元へ思わず足を進めた時、由宇記がもう一度口を開く。
「眞人くん、もう戻っていい」
眞人は我に返り、足を止めた。いくらか混乱していた。促されるままに部屋を出る。扉を閉めながら見やれば、すいれんが薄いベールの向こう、仮面の奥から真っ直ぐにこちらを見つめていた。