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睡蓮はホテル金色を利用していた街娼だった。彼女と出会ったのは一年ほど前のことで、その日のうちに眞人は彼女と金銭を絡めずに肉体関係を持った。睡蓮はこれまで眞人が関係を持った唯一の存在だった。
色素の薄い栗色の髪や透明感のある白い肌、いくらか堀の深いその顔立ちからして、彼女には西洋の血が混じっているように見受けられた。金鉱が閉められる以前、この島には外国人技術者も多かったが、そのほとんどは近隣の東洋諸国の人間であったため、白人との混血は幾分珍しいと言えた。年齢は眞人より四つ年上で、当時の彼女はちょうど二十歳になったばかりだった。
眞人が彼女の身体的特徴のうちで最も好んだのは、三つの黒子だった。右の耳朶の裏、両の乳房の真ん中、肢の付根に近い左腿の内側。その三箇所にある黒子を眞人は愛し、口付けるのを好んだ。眞人にとって睡蓮はこれまで出会った誰よりも魅力的に感じられた。
娼婦である彼女が金銭を絡めずに関係を持つ、それは自分が彼女にとって特別であることの表れに違いないと感じていた。同時に、彼女が娼婦であり他の男とも関係を持っていることは、眞人にとって認めたくない事実だったが、それを口に出して疎まれ、彼女を失うことを恐れていた。
いつだって眞人を優しく受け入れる彼女のその目に、決して自分が映ろうとしないこと。もっと遠くにある何かを見つめていること──眞人は十分すぎるほどに気付いていたが、いつかは変わるだろうと思うほかなかった。眞人は少年らしい純粋さで彼女を愛していた。
だが出会ってから半年ほど経ったある日、睡蓮は突然、眞人の前から姿を消した。理由などわからなかったし、彼女の行方を知る者もいなかった。母親の時と同じだった。
眞人は彼女を忘れるために、ちょうど知り合った女、寧々と関係を持とうとする。だが、全く身体がいうことを聞かなかった。それ以降、眞人は誰とも肉体関係を持っていないし、そもそも性欲さえも起こらず、代わりに食べることを異常なまでに欲しているのだった。
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由宇記の私室を出た眞人は、従業員室で食べ物を一気に食らったのちにスナック菓子を何袋も携えて、再び由宇記の私室へと戻った。すいれんが縛り付けられたスツールからいくらか距離を置いた壁際に座り込み、菓子袋の中へと手を伸ばして際限なく口へ運ぶ。どれほど気を紛らわそうとしても、すいれんを前にして尚更に睡蓮を思わずにはいられない。それが我ながら苦々しかった。
睡蓮はなぜ自分を置き去りにして消えてしまったのか。他に男でもいたのだろうか。母親と同じように。そこまで考えて眞人は、しかし実際のところ母親が消えた理由など誰にもわからないのだと思い直す。これまで幾度も繰り返し辿り続けた思考回路だった。
そもそも母親に男がいたというのは、父親が根拠もなく思い込んでいるに過ぎないのだ。父親によれば二十年も一緒にいた夫婦だからこそわかるのだと言うが、眞人は酒に犯されて正気でない父親の言葉を鵜呑みにできるわけもなかった。
父親は家の中で暴れることも間々あり、眞人は父親に手を上げられたことこそなかったが、その手はいつも殴りかかろうと震えているように見えた。そんな時の父親は口癖のように、母親のことを獏師に喰われたのだと言った。「今頃死んでいるかもしれない」、酒やけした声で父親はそんな言葉を漏らした。この島の言い伝えでは、獏師に喰われた者は死んでしまうのだ。
九つの諸島に古くから伝わる獏師とは、人間が持つ執着や欲望を喰らう悪魔だった。完全に喰らい尽くされた人間は死に至ると言われている。
もちろん単なる伝承であり、人間の自我が生み出す醜い欲に呑まれてはならないといったような教えなのだろうが、島の人間たちは深い信仰心を持ってこの言い伝えを口にする。
一体いつの時代からはじまったのか定かでないこの伝承は、金鉱として栄え、多くの歓楽を生み、そして瞬く間に衰退したこの諸島の行く末を暗示しているかのようでさえあった。
本土から送られた鉱員たちの多くは、島民らが信仰するこの現実離れした伝承について、はじめこそ馬鹿馬鹿しいと馴染めずにいたようだが、今となっては一笑に付せないところがあったし、すっかり染まり切った人間も少なくない。
獏師は人間持つ執着心や欲望を嗅ぎ付けると、その心を巧みに操りながら、欲望をますます膨脹させていく。そして膨れ上がった欲望ごと喰らい尽くすのである。獏師は人間の欲望を映す鏡であると言われるが、そのやり口はひどく巧妙で、ひとたび狙われたら逃げることはできないと伝えられていた。
自らの欲望のままに他の男のところへ消えた母親を獏師に喰われたと言うのなら、その母親に執着し続ける父親だっていつ死んでもおかしくはない、そんな風に眞人は思う。
父親が繰り返し口にする獏師、ある朝消えていた母親、そして自分を置き去りにした睡蓮。目の前で物を言わないすいれんが睡蓮への思いを掻き立てる。眞人の中で行き場のない感情が交錯していた。
すいれんはまるで人形のように身動きひとつ取らない。まるで静止した動画のような光景を前に、眞人の思考はひたすらループし、捌け口を失くした感情はループする度にますます深く沈んでいく。機械的に口へと運び続けたスナック菓子が底をついた時、眞人はようやく我に返った。
突然、現実に引き戻されたようなその感触にいくらか戸惑いを覚えていると、それまで動かなかったすいれんが不意に顔を上げた。彼女は顎で部屋の片隅にある扉を指し示す。手洗いだった。
眞人は逡巡しながらも彼女の傍らに立ち、その身体を戒める紐を解いてやる。逃げるのではないかと危惧しながら扉の向こうにその背中を見送ったが、やがて彼女は何事もなく戻ってくる。逃げる素振りなど微塵もなかった。