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 ホテル金色のオーナーである中原由宇記は、ホテル一階の角部屋をそのまま私室として使用していた。由宇記は眞人と同じく外出を好まず、基本的にはその時々の女と私室にこもっていることが多い。


「眞人くん、急に呼び出してごめんね」


 由宇記はそれまで座っていた二人がけの小さなソファから腰を上げると、眞人を出迎えた。部屋に入るなり、何ものか知れない微かな刺激臭が鼻をついたが、慣れるのに要する時間はわずかなものだった。どこかで嗅いだことのある匂いのような気がしたがわからなかった。眞人の部屋とは違い、冷房のよく効いたひんやりとした空気が肌を撫でる。


 由宇記は中性的な感じのする男で、その整った顔の造作も相俟って、いかにも繊細で弱々しい印象を受ける。まるで触れただけで壊れてしまいそうなほど精緻なガラス細工、彼の容姿を喩えるならばそんなところだった。年齢を聞いたことはなかったが、おそらく眞人と十は離れてはいないだろう。由宇記の目はいつもどことなく焦点が定まらず、その眼差しは何もない空間をゆるやかに彷徨っている。


 部屋の中央には華奢なスツールが置かれ、そこに一人の女が縛り付けられていた。薄いベールを被った女だった。膝丈の生成り色のワンピースは全く飾り気がない。ほつれの目立つ裾といい、衣服というよりもほとんど布を巻きつけただけといった雰囲気のものだった。


 上半身を椅子の背に括り付けられて、その両腕は背もたれの後ろに回されている。そこで手首を固定されているようだった。由宇記が女を飼い出した、そんなことを寧々が言っていたのを思い出す。思い返せば確かに妙な言い回しではあった。


「今日と明日、僕は少しここを留守にするんだ。今日の夜には一度戻るのだけれど、また明日の朝に出かけるよ。明日の夕方までには戻るから、それまで君には彼女のお世話をお願いしたいんだ」


 由宇記は女の傍らに立ち、相変わらず焦点の定まらない目でそんなことを言う。返答に窮する眞人などお構いなしに、話は一方的に続けられた。


「ああでもね、お世話と言っても、彼女を見ておいてくれるだけでいいんだ。彼女には必要以上に動かないように言ってあるから、君を困らせるようなことはないはずだよ。彼女はとてもいい子だから逃げるなんてことはないと思うけれど、これは念のためなんだよ。それからごはんはね、僕が帰ったあとに一緒に食べるから大丈夫、でも水はちゃんとあげてね。喉が渇いちゃったら可哀想だから」


 もっと他に可哀想なことがあるに違いなかったが、眞人も敢えて言うでもない。いちいち取り合うのが億劫であるというのが大きな理由ではあるのだが、そもそもここで何かを言うような人間は由宇記の下で働くことはできないと眞人は十分に理解していた。というのも眞人以前の従業員は、由宇記との関係がうまくいかずに辞めさせられているのだった。面倒を疎んじる由宇記は、手を煩わせる相手は容赦なく切ってしまう。


「それじゃあ眞人くん、よろしくね」


 由宇記は眞人に言ったのち去り際に、名残惜しそうに女へと手を伸ばした。由宇記はいとおしむように彼女の頬を手のひらで撫でる。だが指先が女に触れるその直前に、まるで躊躇うかのように由宇記の手が一瞬止まったのを、眞人は見逃してはいなかった。縛り上げてまでおきながら、なぜ躊躇する必要があるのか、だが眞人には由宇記の胸中など読めるはずもなかった。


 やがて由宇記は部屋を出て行く。扉の閉まる小さな音がして、あとは沈黙が続くばかりだった。まるで予想していなかった由宇記の頼み事に、眞人は戸惑わざるを得ない。捕われた女の姿はさすがに痛ましいものがあった。


「水、飲む?」


 眞人は静まり返った場の空気に耐えかねて、逡巡しながらも女の隣にあるテーブルに近づくと、その上に置かれたペットボトルを手に取った。


 だが彼女は首を横に振る。喋りたくもないのだろうか。それならそれで、この沈黙に居心地の悪さを覚える必要もないのかもしれない。そんなことを考えながら眞人は間近に女を見下ろして、そしてふとあることに気づく。


 彼女の外見はどことなくあの女、睡蓮を思わせたのだった。目の前の女の長い髪は、睡蓮と同じように丁寧に巻かれており、その薄茶の髪色だって彼女のものに近い。色白なところも同じだったし、体つきも似ているように感じられた。


 顎の辺りまでのベールに隠されて気づかなかったが、よく見れば彼女は目元を隠すように仮面を身につけていた。両目の部分だけが空いたその仮面は由宇記がつけさせたのだろうか。仮面の両端から伸びた金色のチェーンが彼女の頭部を回り、右のこめかみ辺りに設えられた小さな鍵によって固定されている。


「名前は?」


 訊ねても女はやはり黙ったままだった。だが、彼女は何かを訴えるような眼差しで眞人を見上げる。そこで眞人は、彼女は喋りたくないのではなく、喋ることができないのではないかと思い至った。見る限り唇の動きを読んでいる様子はなく、とすれば耳は聞こえているのだろうから、声のみを失っているということになるのかもしれない。


 と、眞人がふとテーブルの上に視線を落とせば、ペンとメモ帳、そこから千切られた数枚の紙切れが置かれていた。紙切れには撚れた文字で「水」「ごはん」「トイレ」「うれしい」などのいくつかの単語が書かれている。由宇記と筆談しているのだろう。


 女は眞人の視線の先に気づいたようで、ペンと紙をくれと言うように小さく頷いた。眞人がベールをわずかに持ち上げてペンを差し出せば、彼女はそれを口に咥える。淡い桃色の唇の奥に、小さな白い歯がわずかに覗いていた。眞人はメモ帳を自らの手のひらに置いて、彼女の前に持っていく。


 彼女が口を使ってたどたどしく書いた自身の名前は「すいれん」というものだった。


 出来すぎた偶然に、眞人は自分の目を疑う。ほとんど反射的に、彼女の顔を見ようとベールを捲り上げれば、彼女の口からペンが落ちた。仮面の奥から「すいれん」の目がじっとこちらを見つめている。だがその眼差しは記憶の中の睡蓮のものとは決定的に異なっていた。何より睡蓮は決してこちらを見つめ返さない。


 すいれんの目の奥に映る自分の姿に違和感を覚えると同時に、彼女の縛られた手のその指先が、眞人の後方を指していることに気づく。振り返って彼女が指し示す方向を見やれば、そこにはビデオカメラが設えられていた。天井にほど近い位置、背の高いクローゼットの上だった。由宇記が備えた監視用に違いなかった。


 そこで我に返った眞人は、名前の一致など単なる偶然であると自らを言い聞かせて、彼女と距離を取る。すぐに戻るとすいれんに告げて、部屋を出た。従業員室に戻って何かを食べなければと、ほとんど気を紛らわすように思った。

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