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第四島、それがこの島の名称だった。本土東部の半島沖に集まる九つの諸島のうちのひとつで、それぞれに第一島から第九島までの名が与えられている。
これらの諸島は、かつて国内で最も金が採掘される島々として栄えたものの、十年ほど前に金資源が枯渇しはじめてからは次々と閉鎖され、鉱員や元々の島民の生活の場となっていた第四島だけを残して現在に至っていた。
雨の多い地域にあたり、空にはいつも暗雲が立ち込めている。島外の人間からは薄暗くて不吉であるといった負のイメージが強く、「四」と「死」をかけて「死島」と称されていた。それは島民にとって不本意なところではあったが、一方でこんな寂れた島にはそういった名前こそお似合いであると卑下する者も多い。降る雨を疎んじて老人たちは必要以上に家屋から出ようとしないし、若い人間の多くは義務教育を終えると同時に島を離れていく。
そんな島の港付近に、すっかり人気を失くした小さな歓楽街がある。その一角に静かに佇むのがホテル金色だった。ごく一般的な客が利用するのは稀で、近隣のスナックやバーのホステス、個人的に活動している街娼などが自らの客を連れ立って用いるのがほとんどだった。
眞人はホテル唯一の従業員として、受付会計などの客対応から客室清掃まで請け負うが、客数が圧倒的に少ないために大抵は暇を持て余していた。学校を卒業してすぐに家を出て一年半、眞人はホテルの従業員室で暮らしている。働き始めた当初は金が貯まり次第、早々に島を出るつもりだったが、引きこもりと化した今ではそんな気も失せてしまっているのが実情だった。
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ホテルの屋上に逃れた眞人は、煙草を吸いながら街を眺める。眞人は寧々の一方的な話にうんざりした時などよく屋上へと退避するのだが、大抵は食欲に負けて間もなく従業員室へ戻ることになる。煙草を吸うのは食べ物が目の前にない時だけだった。
腕時計の針は午後三時を回っていた。霧のような小雨が眞人の頬を湿らせる。
眼下には廃墟じみた印象の街並みが続いていた。島の中心部には寂れた鉄筋コンクリートの集合住宅が密集し、共同の食堂や浴場等の生活施設も多いが、今ではそのほとんどが機能していない。
建物の隙間を縫うようにして複雑に入り組む路地が多く、地面は滑りやすくぬかるんでいる。立ち並ぶ建築物に阻まれて、路地はいつも薄暗かった。地区によっては昼夜問わず街灯が点り続けている。
中心部から外れると、金鉱として栄える以前から島に住まう人々の居住地が残っていて、古びた平屋が窮屈そうに軒を連ねていた。現在の島民のほとんどはこの地区に居住しており、眞人の実家もそこにある。
本土から送られた鉱員だった父親と、元からの島民である母方の祖母、二人が暮らす小さな家屋だった。母親は眞人が十三歳の時に家族を捨ててどこかへ行ってしまった。何の前触れも無かった。ある朝に目覚めると、いつも隣で寝ていた母親は消えていた。
理由は何もわからなかったが、愛人でもいたのかもしれない。少なくとも父親はそう思い込んでいた。母親の失踪と時をほぼ同じくして、金鉱閉山による人員削減を理由に職を失った父親が、酒に溺れるのは容易いことだった。
金銭的には政府から低所得者へ支給される生活援助金だけが頼りだったが、わずかばかりの金も酒へと消えていく。いつも父親はいよいよ金が底をつく段になってはじめてふらりと姿を消して、大した額でもないが数万円を携えて戻ってきた。何をしているのかはわからなかったが、真っ当な方法で手に入れた金ではないことは容易に窺い知れた。
この島を取り仕切るマフィアは性質が悪く凶悪で、街で銃声が鳴り響くことは決して珍しくない。眞人はいつか父親が死ぬだろうと思っていた。その時、自分はきっと悲しむのだろう。
と、そこで眞人は、咥えた煙草がへし曲がっていることに気づく。口寂しかった。底知れない食欲がまた疼いている。テーブルの上に広げられた大量の食べ物が脳裏にこびりついて離れない。
眞人は従業員室に戻ろうとして、だがその時、携帯が鳴った。単調な着信音が響く。由宇記からだった。受話器越しに、感情の露出の少ない声がする。由宇記のいつもの喋り方だった。
『眞人くん。僕の部屋に来てくれないかな。君にひとつ、お願いしたいことがあるんだ』
面倒には違いなかったが、意外に思う気持ちの方が先だった。というのも由宇記は自分の雇い主ではあるが、日々の業務をこなしてさえいれば、特に何か言われるようなことなどこれまで一度だってなかったし、呼びつけられるようなこともなかったのである。
眞人は由宇記の部屋へと向かいながら、頭の中にこびりついた食べ物の残滓をかき消そうとする。するとそっと寄り添うように脳裏に忍び込んできたのは、またしてもあの女の面影だった。白い皮膚に浮かぶ三つの黒子、その表面を指先でなぞった時の、くすぐったいような感触を思い出す。
彼女の名前は睡蓮といった。水面をゆるやかに揺蕩う美しい花の名は、全く彼女に相応しく思われた。
そんな彼女への思いをかき消すように、あるいはむしろ後押しするかのように、さっきの寧々の言葉が浮かぶ。──そんなことしてると、獏師に食べられちゃうんだから。
獏師というのはこの島に古くから伝わる悪魔だった。