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空調が壊れたこの蒸し暑い小部屋では窓を開けたところで、隣接するスナックの壁面が目前まで迫っているものだから全く意味が無い。むせ返るような湿気が汗の匂いを滲ませながら、狭苦しい室内に充満している。色褪せた印象の、古びた部屋だった。薄桃色の壁紙は所々剥がれかけ、同色のカーペットには数知れない染みが付着している。
ホテル金色の従業員室、ここが文谷眞人の生活の場だった。
低いテーブルのくすんだ天板の上には、ケーキやシュークリームやヌガー、バナナ、ピーナッツにソーセージといった食べ物が大量に積み上げられている。これらすべてが眞人の胃袋に収められるまで、いつだって大した時間は要さなかった。
「ねえ眞人。私はね、あの人の声も喋り方もため息も、捉えどころのないあの眼差しも、肌の匂いも指先の冷たさも、ぜんぶぜんぶ大好きなの」
ホテル金色に軒を連ねるスナックでホステスをしている寧々は囁くように言いながら、今日も一糸纏わぬ姿でソファに寝そべっている。フェイクの革張りソファ、そこが彼女の定位置だった。寧々は空き時間を見つけては眞人のところへやってくる。その度に暑いと文句を言っては決まって服を脱ぐのだが、彼女のしなやかな裸体を前にしても、眞人は何も感じ得ない。寧々もそれを知っているからこそ、無防備な姿を晒すに違いなかった。
失せた性欲の代わりといっては奇妙なことだが、眞人が異常なまでの食欲に苛まれるようになってから、すでに半年が経過していた。ひたすらに食べ続けては、純粋な質量によって胃袋が圧迫されるその強烈な痛みに耐え切れず、繰り返し嘔吐する。そんな日々を嫌悪したところで、逃れようと足掻く気力は疾うに無かった。
今日も眞人は目の前の食べ物を口へと運び続ける。マシュマロにスナックにクラッカー、それらを衝動に任せて一緒くたに口の中へ放り込み、大した咀嚼もなく食道へ流し込む。舌の上でざらつきながら混じり合う味はひどく不味いにも拘わらず、眞人はそれをほとんど快楽と取り違えてしまう。だが決して食欲が満たされることはなく、底知れない衝動は嘔吐する瞬間さえも止まなかった。
「あの人を愛してるの。あの人がいなくちゃだめなの」
色の抜けた唇が薄く開いて、寧々の甘い言葉が紡がれる。青白い蛍光灯がどこか不健康な光を放ち、彼女の肌を痛々しいほど生白く見せた。
寧々は眞人より一つ年下の十六歳だが、その外見についてだけ言えば通った鼻筋といい細い顎のラインといい、随分と大人びている。よくよく見つめてみれば、そのアーモンド形の大きな双眸の奥に、少女らしい無邪気さも見受けられるのだが、一見しただけでは見逃してしまうほどだった。
「それなのにどうして? あの人がもう私のことを忘れてしまったなんて、そんなの嘘でしょう? どうしてこうなってしまったのかわからないの」
寧々が口にする話題はいつだって同じで、つまりそれは金色のオーナーである中原由宇記に対する未練がましい愛情と恨み辛みなのだった。一体何度、同じフレーズによる同じ話を聞かされたことだろう。彼女がホテルに入り浸るのだって、何かと由宇記と接点を持ちたい一心に違いなかった。
だが彼女が恋焦がれる由宇記というのは、ほとんど廃人に近いような男で、何事もすぐに忘れてしまう。どうせ薬で頭をやられてしまったのだろう、言い寄る女の顔など一日も経たないうちに記憶の彼方に違いないし、ましてや寧々とは関係が終わってからすでに一ヶ月以上も経過している。寧々は由宇記と付き合っていたつもりだろうが、由宇記も同じように思っていたかどうかは甚だ怪しいところだった。
「馬鹿な由宇記。こんなにも近くに私がいるのに他の女に手を出してる。知ってる? 由宇記はね、しばらく前から女を飼い出したの。ペットみたいな新しい女とずっと部屋にこもってる」
寧々は親指の爪を噛みながら呟いた。
「そんなことしてると獏師に食べられちゃうんだから。……ねえ眞人、聞いてるの?」
ソファの上で大きく寝返りを打って、細い首筋から乳房のなめらかなラインを露にしながら、彼女が上目遣いに視線を寄越した。寧々が一度瞬くと、長い睫毛が大袈裟に上下して、その下瞼に濃い影を描き出す。
「聞いてるよ」
自分でも驚くほどに気のない声音だった。眞人は決まり悪く一人がけのソファに身を埋めると、テーブルの上に組んだ足を預ける。寧々は機嫌を損ねたようで、テーブルに置かれたチョコレートにいくらか乱暴に手を伸ばした。
「それ俺の」
「ていうか食べ過ぎだから。そもそもこの食べ物、誰が買ってきてあげてると思ってるの」
彼女への小遣いも含めて金を出しているのは俺だと言いたかったが、それもあまりにケチ臭い話だと思い直して口にはしなかった。引きこもり同然の眞人に代わって、寧々が買出しに行っているのだった。眞人はこの半年間、ホテルの外に出ていない。
ため息混じりに寧々が髪をかきあげる。白いうなじからゆるやかな曲線を描いて続く右耳、その耳朶の裏。眞人はそこにごく小さな黒子を見た。瞬間、一気に吐き気が込み上げる。マシュマロとスナックとクラッカーに胃液を加えたどろりとした液体が、不意に腹から喉元までせり上がる、その最中に、眞人の脳裏にはある女の面影が過ぎっていた。
透けるような白い肌と、その上の小さな黒子。すべらかな肌の上を流れる栗色の長い髪。こちらを見て柔らかく微笑む彼女の目に映るのは、いつだって目の前にいる自分ではなく、もっとどこか遠くにある何かだ。寧々が横たわるソファは、半年前まではあの女の定位置だった。
眞人は耐え切れずに席を立つ。不機嫌そうな声を投げかける寧々を背に、部屋を出た。