意義
「五郎丸。お前の仕事はまだ終わっていない筈だ」
リンカの手を握ったまま動かなくなっている五郎丸に、フィーナが歩み寄り声を掛ける。
「その者の遺体は私が預かろう。命の恩人だ。丁重に埋葬させてもらう。お前はお前の責務を果たせ。お前の仲間はまだ戦っているぞ」
ドラゴニアの攻撃によると思われる地響きは、五郎丸たちがいる部屋にも届いていた。
「……解って居ります」
五郎丸は眼を閉じ、一度だけゆっくりと息を吐き出した。息を引きとってしまった仲間と今も戦っている仲間。どちらを優先すべきかは心の天秤に掛けるまでもなかった。
「済まない。寂しいかもしれないが、先に帰ってろよ」
冷たくなっていくリンカの頬を擦りながら、五郎丸は別れを告げ立ち上がった。
「リキュール。また皆と共に陛下を城までお連れしてくれ。こっちの始末は俺たちでつける」
顔面を砕かれたパラスティアスの懐から何かを取り出し握り締めると、五郎丸はリキュールに指示を出した。
「解った。こちらの事は任せておけ。指示通り研究所に査察を出しておいた。お主が帰ってくるまでには全て解決させておいてやるよ」
パラスティアスの血を払い愛剣を鞘に収めながらリキュールは五郎丸に歩み寄り肩に手を置いた。
「あまり熱くなるなよ。お前が冷静でないと、他の皆が帰れなくなる」
五郎丸にだけ聞こえる声でそう言うと踵を返し、リキュールは恭しくフィーナに一礼して部屋を後にした。
女王フィーナを囲むようにして出て行く仲間を見送ってから、五郎丸は下ってきた階段を駆け登り始めた。
ドラゴニアの攻撃は熾烈を極めていた。踏み込んで振り下ろす。遠心力を活かして薙ぎ払う。突進と共に突きを繰り出す。大地さえ揺るがすのではないかと思われる連撃はしかし、アンジェリナに一太刀さえ与える事は適わなかった。
「これが、長船の本当の力だと言うのか」
通路から顔だけを覗かせて戦闘の一部始終を見守っていたケビンは、自分がかつて預かっていた刀の潜在能力に肌を粟立たせていた。ドラゴニアの繰り出すいかなる攻撃もアンジェリナの持つ淡い七色の光を放つ備前長船は撥ね返し、返す刀で矛を刃毀れさせ、厚い稀少鉱石の鎧に罅割れを作っていった。ただ、体格差はいかんともしがたく、アンジェリナの攻撃はドラゴニアの上半身に届く事はなかった。
「娘。御館様の首を狙え」
ケビンの声はアンジェリナに届いていたが、空を飛べでもしない限りドラゴニアの首を刈る事はできそうになかった。ただ、備前長船を抜刀してからアンジェリナの頭の中は冴え渡り、相手の攻撃がまるでコマ送りのように捉えられていた。自我はある。狂気に囚われてはいない。ただ、このままではドラゴニアを倒す事も、ブリガンティアを助ける事も出来ない。刀が自分にいつまで力を貸してくれるか解らない状況でアンジェリナは焦りを感じていた。
「解っておるのか。わしを倒せば、わしの力で甦ったそこの男も命を失う事になるのだぞ。どのみち、大儀を持たぬ貴様に長船は使いこなせん。わしのように信念を持たぬ限り、その刀の狂気に呑み込まれるだけの事だ」
ドラゴニアは矛を頭上で回転させ地面に突き刺した。砕かれた床が飛び散り人間の頭蓋骨ほどの大きさの岩の塊がアンジェリナを襲う。アンジェリナは長船を振り向かってくる岩を両断していく。
「狂気は刀の中にあるのではない。邪神となったあなたの中に芽吹いたのだ」
柄から伝わる力は狂気ではない。人の心だ。自分を取り巻く人の総意が刀に宿っているのをアンジェリナは感じていた。エンシェントドラゴンから仲間を守りたいと言う気持ち、落城寸前の城から王女を逃がしたと言う家臣たちの気持ち、その人の想いが物理的距離を超えて力となり刀に超常的な力を与えていたのだ。
「あなたも感じていた筈だ。あなたを慕い理想の実現に協力してくれた人の心を。戦いに敗れたのは確かに無念だったかも知れない。でも邪神として甦り、四百年前の怨嗟を晴らす事など誰も望んではいない」
ドラゴニアの攻撃を受け流しながら、アンジェリナは叫んでいた。
「賢しげに知ったような口を利くな」
怒りにまかせドラゴニアが再び床を矛で穿つ。難なくアンジェリナは飛来する岩の塊を両断したが、飛び散った床の破片はケビンが逃げ込んだ通路にも向かって飛んでいく。丸腰のケビンは避けきれず岩が腹部を直撃する。甲冑の割れる音がして、中の肋骨を粉砕した。血の塊を吐き出しケビンはその場に倒れ込んだ。
「ふん。力無き者には生きる価値もない」
かつての部下に対する慈しみはなく、まるで息絶えていく虫でも見るような冷たさでドラゴニアは言い放つ。
「ケビンさんっ」
アンジェリナが備前長船を納刀して倒れているケビンに走り寄る。
「情けない。……かつての君主にやられこの様よ」
「喋らないで、今止血します」
自嘲するケビンの腹部に手を当て、アンジェリナは回復魔法の練成を試みる。
「女、備前長船を渡せ。さすればこの場は見逃してやっても良い。その男を見殺しにできれば話は別だが。……それは唯一わしにこそ相応しい刀」
ドラゴニアの巨体が迫る。怪我を負ったケビンを連れたまま戦うのは困難だ。かと言ってこのままケビンを放っておけるアンジェリナではなかった。
「理念なき力、犠牲を受け入れようとしない力、それらが逆に混乱を拡大させると何故解らんのだ。大儀を為すには犠牲は避けて通れぬもの。村一つ失ってわしはようやくそれに気がついた。このわしさえ健在ならついてくる者の変わりは幾らでもいる。眼の前の命一つ犠牲に出来ぬようでは、やはり女よ。貴様は力を手にすべきではない。耳触りのよい正義ほど人心を惑わすものはないと知れ」
ドラゴニアの邪気が増幅していくのが判る。禍々しい光を宿し始めた矛に反応してか、アンジェリナの腰に下げられ鞘に納まっている備前長船も輝きを増す。
「正しく力が遣われなければならないのは私だって承知している。だが、弱い者の犠牲の上に成り立つ大儀など砂上の城も同然。高い波や強い風が来れば一瞬で流されてしまう。だからあなたは民を中心とした邦を造ろうとしていたのに、どうして堕ちてしまったの。あなたの理想はまだその胸の中に眠っていると言うのに」
長船を通して戦闘の最中であっても、かつての持ち主である武将の心を少しだけ垣間見ることができたアンジェリナは悲痛な声を上げる。
「あなたを倒して異界に送り返しても、きっと誰も喜ばない。私を倒して長船を手に入れればあなたの世界は変わると言うの。誰も救われはしないのにっ」
アンジェリナは見てきたのだ。世界を賭して戦った英雄たちを。多くの犠牲を払い、魔族の侵攻を退け平穏を取り戻した筈であったのに、利権に群がる魑魅魍魎は今もこうして新しい力を求め続けている。
「御託は沢山だ。勝った者が歴史を作り、歴史を綴る。それが唯一人間が共有してきた事実ではないか。弱者や敗者は悪なのだ。以前敗れた、このわしのように」
「勝者が全て正しいなんて事はない。少しでも良い未来を残すために、我々は剣を抜く意義を見出すのだ。例え歴史や世の趨勢に抗っても」
叫びとともに繰り出されたドラゴニアの殺意を含んだ薙ぎをアンジェリナはケビンを抱えながら片手で抜刀して受け止めた。衝突した二つの武器が起こす衝撃波はギンヌンガの空気を鳴動させた。
「良く言った。アンジェリナ殿」
通路の奥の階段から駆け込んで来た五郎丸が手にしていた物体をドラゴニアに向かって投げつけた。宙を舞うそれは、アンジェリナが五年前の大戦で共に戦った英雄が五人とも持っていた龍の守護者の証に瓜二つの龍の意匠が施された腕輪だった。瞬間、契約者の証が古城の地下の暗がりの中で輝きを放ちドラゴニア行動を戒める。十メートルを超える巨体は糸が切れた操り人形のように両膝を着いて崩れ落ちた。
「今だ、娘。御館様を邪神から解放してくれ」
アンジェリナに抱きかかえられていたケビンが懇願する。
アンジェリナはケビンを床に寝かせ、動かなくなったドラゴニアの身体を伝って肩まで駆け上がると、渾身の力を込めて首筋目掛けて備前長船を振りぬいた。銀色の真一文字の閃光がアンジェリナの手元から放たれ、空気を切り裂いた。
四百年前の記憶が備前長船を介して鮮明にアンジェリナの脳に去来する。満天の星空の下、不毛の大地に大儀を誓った遠い夜。朝廷からの弾圧と権力闘争。痩せた大地を耕す農民たち。村は次第に大きくなり、自分の考えに従うものも増え武蔵の原は発展を遂げていく。しかし、和平の使者として都の役人と会うため武蔵の原を留守にした日に村は朝廷軍の襲撃を受けた。帰り着いた自分を待っていた焼け爛れた村。無残に蹂躙され大地に転がる無数の人間だった肉塊。理想は憎悪に変わり希望は怨念へと変換された。
護送中に受けた屈辱、断頭台に上げられた時の絶望、邪神として生まれ変わった時の狂気。そして、その果てに見る虚空。
「……もう、おやすみなさい」
その記憶を受け継いだアンジェリナは涙を流しながら振りぬいた備前長船を鞘に納めた。
ドラゴニアの巨体から首が転がり落ち、刈られた首から血の雨が降り注いでギンヌンガの地下を紅く染めていった。