小春
次の日から、お腹の子供にHIVを感染させないための治療が始まった。僕は増えた給料を冬子のために全て費やした。冬子のアパートは引き払い、僕と一緒に二人と一人の子供が十分に住めるだけの部屋を探した。冬子を説得させ無理やり入院させた。出産までHIVの発症を抑えるための治療にあてるためだ。
「ねぇ、夏雄くん、見て」
ベッドに横たわる冬子が化粧ポーチから何か汚れた小銭を取り出した。
「ずっと大切に持ってたのよ」
何かの記念メダルのようだ。すっかり錆付いていて輝きの面影はない。何かの塔らしきものが描かれている。
「これがどうしたの?」
「夏雄くんと離れ離れになった時にくれたじゃない。家族だった記念にって」
思い出した。東京タワーの記念メダルだ。僕が冬子に渡したものだった。
「ずっと大切に持ってたの。私は家族がいたって、お兄ちゃんからもらったって。辛いときはいつもそれ見て、あの頃のこと思い出してたの」
冬子は手のひらの上でメダルを転がした。
「そうか。すっかり忘れてたよ」
「ひどい。これが私の支えだったのよ。約20年間。嫌なことばかりだったわ。でも私には家族がいたって。かけがえのない家族がいたって。その証だったの」
冬子の瞳から涙が一筋流れた。そうだ。僕たちはあまり良いことがなかった。辛く、悲しく、幸せを感じる瞬間は少なかった。それでも僕たちには家族がいた。かけがえのない温かい家族がいたんだ。
出産日が近づいていた。医者はお腹の子供にHIVは感染しないだろうと太鼓盤を押してくれた。しかし出産予定日の近くに冬子のHIVは発症した。合併症を防ぐため、最大限の努力を尽くしたが、医者は出産を諦めるべきかもしれないと冬子と僕に言った。出産後の状態を考慮したのだ。
「産みます。産ませてください」
冬子は医者に懇願した。冬子はこの世に何か自分の証を残そうと必死だった。冬子のお腹は大きく膨らみ、いつ陣痛が来てもおかしくない状態になったころ冬子は僕に尋ねた。
「ねぇ、子供の名前はどうしようか?」
子供は検査の結果女の子であることがわかっていた。
「冬子の好きなように決めていいよ」
僕は冬子がつけた名前がふさわしいと思っていた。冬子はベッド脇のペンとメモを取り、そこにひとつの名前を記載した。
「これどうかな」
「可愛い名前じゃないか。素敵だと思うよ。どんな意味があるんだい?」
冬子は嬉しそうに紙を見つめた。母親の顔つきになっていた。僕は亡き母の面影をそこに見つけた。
「私は冬で、夏雄くんは夏、どれだけ季節が過ぎてもめぐり逢えない。だから」
冬子は『小春』と書かれた紙を嬉しそうに僕に見せた。
「冬と夏をつなぐ小さな春…。それで小春ってどうかなって思ったの」
一瞬涙が出るかと思った。何故なのかわからない。親は様々な願いを込めて名をつける。百花もそうだった。僕たちの離れた季節をつなぐ、ほんの小さな春。それはとても僕らにふさわしい名だと思った。
「うん。それにしようよ」
「やった。小春ちゃん、あなたの名前は小春ちゃんですよ」
冬子はお腹の子供に語りかけた。小春、それが僕の子供になるのか。僕は父親をあまり知らない。ましてや小春とは血のつながりもない。それでも冬子と一緒だったら素敵な家庭が築けると思った。
冬子の陣痛が始まったのはランチタイムの営業中だった。電話で連絡を受けた江藤さんは迷わずに僕に告げた。
「夏雄、今日はもう店を閉める。今すぐに行ってやれ」
江藤さんは皿を片付けながら僕に言ってくれた。
「わかりました。お願いします」
僕は病院にタクシーで向かった。いつしかの百花の時も同じような状況だった。だけど今日は違う。命が失われるのではなく、新しい命が誕生するのだ。病院についた僕は急いで冬子の病棟まで走った。
冬子、がんばれ。
廊下でただひたすら祈っていると、赤ん坊の泣き声が聞こえた。看護師が僕を嬉しそうに呼んだ。そこにいたのは玉のように赤い生まれたての小春だった。
「冬子、産まれたよ。よく頑張ったね」
看護師が赤ん坊を冬子に見せてくれた。冬子は苦しそうに喘ぎながらも嬉しそうに赤ん坊を見つめた。僕は汗だらけの細い冬子の手を握った。
「夏雄くん。私、今とっても幸せだわ」
「ああ、僕もだよ」
「これで新しい家族が始まるのね」
「そうさ。一緒に頑張ろう」
冬子は涙を浮かべて頷いた。小春は看護師の手によってNICUに移されていった。僕は医者の姿を見つけてお礼を述べた。
「本当にありがとうございます」
医者はあまり晴れ晴れしくない表情をしていた。
「冬子さんの産後の状態があまり宜しくありません。極めて危険な状態にあると言えます。我々も全力を尽くします」
医者の言葉に僕は驚き、
「そんな、冬子は、冬子は助かるんですか」
と、肩を掴んで問いかけた。
「まだ何とも言えません。ただ、ご家族やご親戚の方がいらっしゃれば念のためお呼びください」
呆然とする僕を置いて医者は冬子の元へ駆けて行った。冬子はそのままICUに運ばれる。僕は面談を拒否された。
長い時間が過ぎた。
やがて医者が部屋から出てきて、僕に何かを告げた。僕はその意味が理解できなかった。僕は何度も何度も尋ねた。医者はその度に同じ台詞を告げた。僕の脳はその言葉が理解できなかった。
僕はずっと病院の誰もいない廊下で泣いていた。
いつの間にか江藤さんがやってきて、僕の横に座った。
「え、えとうさん、冬子が、冬子が……」
「ああ、俺もさっき聞いた。夏雄、気をしっかり持て」
「冬子と、冬子と、新しい家族を、作るって、やくそくを……」
「そうか」
「なのに、なのに、こんなのあんまりだ、あんまりすぎる」
江藤さんは僕の肩を掴んだ。その手は小さく震えていた。
「冬子は、これまで、嫌なことばかりの人生だったって、新しい家族を、新しい家族を、つくるって言ったのに…」
僕は江藤さんの前で泣き喚いた。
「あんまりだ。父も、母も、百花も、冬子も、みんな僕を残して死ぬ! こんなのあんまりじゃないですか! あんまりだ、あんまりすぎる……」
免疫力の低下していた冬子は出産後の合併症に対して体が持たなかった。新しい家族を作るという彼女の願いは叶わなかった。彼女は小春という自分の証をこの世に残し、そしてその生涯を終えた。
「夏雄、いいかついて来い」
江藤さんは僕を引きずって、NICUの前まで連れていった。そこには生まれたての新生児が揃っていた。『すぎやまこはる』と書かれたケースの中にはすやすやと眠る小春の姿があった。
「いいか、お前はまだ一人じゃない。冬子ちゃんが残した子供がいる」
「ああ、あああ……」
冬子がその命を駆けて残した子供だった。僕は拳を握りしめ、涙を流しながら冬子のことを思った。君は自分の証をこの世に残したよ。僕がその全てをかけてその証を守るよ。君が注げなかった愛情を注ぎ、君が作りたいと願った新しい家族を作るよ。もう君に会えないけど、いつか遠い未来で君と再会した時、君が「ありがとう」と言ってくれるように、僕の全てをかけて小春を育てるよ。
これで僕の家族の話はおしまいだ。今は小春と新しい家族を作っている。小春はすくすくと育ち、冬子が死んでもう何度目かの春を過ぎた。僕は慣れない父親の仕事にとまどうばかりだ。いつか冬子のことを小春に話せる日が来ればいいな、と思っている。
(おしまい)
ご拝読いただきありがとうございました。
何かひとつでも心に残るものがあれば幸いです。