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家族  作者: つばこ
3/4

冬子


 その日、ランチタイムの営業時間になっても百花は姿を見せなかった。


「百花ちゃんが遅刻なんて珍しいこともあるもんだ」


 江藤さんが仕込み作業をしながら呟いた。


「百花が来るまで僕が店に出ますね」

「ああ、こっちは任せておけ」


 僕は普段百花がしている仕事、つまりは注文を取ったり料理を運んだり会計をしたりと慣れない作業を続けた。しばらく店を回していると一本の電話が入った。


「江藤さん、電話お願いします!」


 僕は皿を持ち、テーブルを片付けながらお願いした。電話に出た江藤さんが青白い顔をして僕の元にやってきた。


「今日は店を閉めよう」

「え? まだ営業中ですよ?」

「いいから、もう今日は店を閉める」


 不振に思いながらも閉店中の札を店の表に出すと、江藤さんまで表に出てきた。


「江藤さん、厨房は大丈夫ですか?」


 江藤さんはじっと何かを堪えているようだった。


「駅前の総合病院、そこの緊急外来に行け」


 江藤さんは苦しそうに、残酷な事実を僕に告げた。


「百花ちゃんが交通事故にあった。今そこに運ばれているらしい」


 僕はその時、事態の深刻さを受け止めていなかった。


「事故って、百花、大丈夫なんですか?」

「わからん。夏雄、行って確かめてくれ」


 今思うと電話で百花の様子を聞いて、江藤さんは全てを知っていたのだろう。僕は急いでタクシーに乗り総合病院の緊急外来に向かった。入り口で百花の名前を告げると奥の部屋を案内された。早速向かおうとする僕を医者らしき人が呼び止めた。


「ご家族の方ですか?」

「はい。あ、いや、仕事先の同僚です」

「そうですか…。ご家族はいらっしゃらいませんか」

「百花は孤児なんです。家族はいません」


 そう言うと医者は小さくため息をついて、僕を部屋まで案内した。


 その小さな部屋の、小さなベッドの上に百花は横たわっていた。


 僕は嘘だと思った。


 昨日まであんなに元気に笑ってたじゃないか。


 僕は百花の顔にかけられた布を取った。まるで眠っているかのようだった。


「百花…?」


 百花はもう息をしていなかった。


「交通事故に合ってほぼ即死の状態でした。誠に申し訳ございません」


 医者が頭を下げた。僕は百花の肩を掴んだ。びっくりするほど硬く冷たかった。目の前の景色がゆわんと揺らめいた。


「ウソだろ?」


 僕は百花に呼びかけた。


「百花、起きてよ。まだ店はやってるんだ」


 僕は百花に呼びかけた。


「百花、家族になるって話したじゃないか」


 僕は百花に呼びかけた。


「百花、君に義妹ができるんだよ」


 僕は百花に呼びかけた。


「ずっと、ずっと一緒だって」


 どれだけ肩を揺すっても百花は目を覚まさなかった。僕の涙が百花の頬にいくつも流れ落ちた。


「ずっと、ずっと一緒だって言ったじゃないか!」


 肩を強く揺さぶり続ける僕を、医者が無理やり引き離した。僕は狂ったかのように「うわあああ」と泣き叫んだ。




 百花の葬式は訪れる人の少ない寂しいものだった。茫然自失だった僕の代わりに江藤さんが取り仕切ってくれた。この頃のことはあまりよく覚えていない。


 とても店に立てる気分じゃなかった。江藤さんは気を使ってくれて昼の時間は店を閉めることにしてくれた。僕は一人アパートで百花の残した数少ない遺品をぼんやり眺めていた。


 部屋の扉がノックされた。


「夏雄くん? 冬子だけど」


 ドアを開けると冬子の姿があった。店で会う時とは違う薄い化粧をしていた。


「百花さんのこと聞いたわ。何て言っていいかわからないけど…」


 冬子は言葉を詰まらせた。僕は涙をぽろぽろ流しながら冬子に、あるいは何かに問いかけた。


「なぜ、なぜ交通事故なんだ? 僕の父親も、新しい父親と母親も、百花まで交通事故だ。なぜなんだ。なんでなんだ…。今度こそ、今度こそ幸せになれると思ったのに、僕には幸せなんて、家族なんて持てないんだ」

「夏雄くん…」


 冬子は僕が泣きやむまで側にいてくれた。




 僕は迷惑をかけることを承知で江藤さんに店を辞めたいと告げた。江藤さんは何も聞かず


「わかった。早まった真似だけはするな。百花ちゃんも望んでいないはずだ」


 と言ってくれた。


 店を辞めることを継げて、僕はアパートも引き払うことにした。部屋には百花との思い出が溢れていて、とても住み続ける気にならなかったからだ。そしてそのまま東京からも離れることにした。派遣会社に問い合わせると、箱根の旅館での住み込みの厨房の仕事を紹介されたので、そこに移ることにした。


 厨房で仕事を行い、誰とも交流を深めずに部屋でただ眠る日々を過ごした。百花を思い出し、ただ夢の中で百花に会うことだけを望んだ。時折、笑顔の百花に出会うこともあれば、冷たくなった百花に出会うこともあった。どちらにしても目覚めれば泣いていた。


 箱根、熱海、伊東と、派遣期間が満了するまで旅館の住み込みで働く日々が続いた。時折専属で努めないかと誘われたこともあったが全て断った。派遣期間のみであれば、それほど人と親しくなることもない。僕は親しい人を作りたくなかった。親しい人を亡くしてしまう悲しみをもう味わいたくなかった。


 数年はそんな暮らしを続けたろうか。段々夢の中で百花で会えなくなり、百花を失った悲しみが消えていくのを寂しく思った。


 もちろん何度も自殺を考えたが、その度に江藤さんの最後の言葉が蘇った。僕の母親も父親を失って同じ気持ちになったのだろうか。母親はこんな気持ちのまま僕を育ててくれたのか、その強さを感じるととても後を追うことができなかった。そう思う自分自身の存在が百花に対して申し訳なく思った。


 あちこち街を移りさらに数年が過ぎていた。ある日、ふと東京に戻ろうかと思った。江藤さんはどうしているだろう。冬子はどうしているだろう。


 旅館での派遣期間満了日を終えると、僕は東京へ向かった。江藤さんの店へ真っ直ぐ向かう。店は潰れていないか心配だったが、まだかろうじて営業していた。ただ、やはり営業時間は夜のみだった。


「夏雄、夏雄か!?」


 夜の営業時間に店を訪れると、江藤さんが出迎えてくれた。江藤さんは随分と老け込んだように見えた。そのまま江藤さんの自宅に上がり、奥さんとも久しぶりに対面した。江藤さんの奥さんは僕が生きていたことを泣いて喜んでくれた。


 その日の営業時間後、江藤さんと晩酌を共にした。一緒に働いていた頃はミーティングと称して店の未来を語っていた時間だ。


「夏雄、うちに戻って来ないか」


 江藤さんは酒を注ぎながらそう言ってくれた。


「あれから昼には店を開けてない。お前が帰ってきてくれるまで、誰も雇っていない。お前の居場所はここにある。いいか。俺はずっとお前を待っていたんだ。戻ってこい」


 江藤さんの言葉がガツンと心に響いた。ここに僕の居場所がある。こんな嬉しいことを言ってくれるのは世界でこの人だけだ。僕は涙声になりながら感謝の言葉を述べた。


「ありがとうございます。またお世話になります」


 僕は東京に戻ることにした。百花がいた風景の店だ。だが今なら乗り越えられる気がした。


 江藤さんの店で働き始め、近くにアパートを借りた。そういえば、冬子はどうしているだろう。冬子が働いていたスナックを訪ねたが、もう数年前に辞めたと言われた。冬子の笑顔を見たくて、仕事のない日はあちこちのスナックを訪ねて回った。だが冬子の行く先を知っている人は少なく、めぐり合うこともできなかった。


 江藤さんの店も僕が戻ってきたので、営業時間を昼と夜に拡大することにした。僕の作るランチは人気なようで、閑古鳥の鳴いていた店に客足が戻るようになった。忙しさのためまた昼に人を雇うことにしたが、今度は主婦の方にお願いすることにした。百花がいた場所に違う人が立っている。でも僕は以前ほど悲しみを感じなかった。もう既に百花を失った傷が癒えてしまっていた。寂しくもあったが、百花に笑われないようこれまで以上に仕事に取り組んだ。


「雑誌からの取材依頼だ! 夏雄、取材依頼がきたぞ!」


 ある日、江藤さんが嬉しそうに僕を呼んだ。近所でも評判のランチを出す、ということで雑誌から取り上げたいと言われたのだ。確かに昼はスタンダードな定食に加え、これまで旅館で作っていた懐石料理をアレンジし、独自のものを幅広く提供していた。それが評価されたのだ。


 雑誌には代表的なランチの写真が小さく紹介された。驚いたことに雑誌に掲載された途端、大勢のお客が来るようになった。メディアの力は恐ろしい。江藤さんと僕は短い準備時間でも満足できる料理や、新しいメニュー作成に取り組んだ。


「夏雄、お前はやっぱり才能がある。もう料理人としての腕は俺を超えている」

「そんなことありません。江藤さんのおかげです」

「いや、俺は正直、お前が自分の店を出す、と言い出すんじゃないか心配だ。お前がいないとこの店はもうやっていけん」


 そう言われるのはとても嬉しかった。この時期は恐ろしいほどに料理のアイデアが出てきて、ランチタイムはおろか夜の時間も盛況になるようになった。江藤さんは夜の時間も人を雇い、店は完全に軌道に乗った。


「来た! ついに来たぞ!」


 夜の仕込中に江藤さんが興奮して厨房に飛び込んできた。


「テレビだ! テレビの取材だ! しかもゴールデンタイムの特集だ! 芸能人も来るぞ! ついにうちの店がメジャーになる時が来た!」


 さすがに驚いた。テレビで取材となると雑誌以上の効果があるだろう。これまで以上に忙しくなるに違いない。


 テレビ取材は思ったより大規模なものだった。僕は同じ料理を10回近く作らされて、芸能人からのインタビューも受けた。実際放送された内容も思った以上に好感触な内容のように感じた。


「これじゃ明日から行列ができるかもしれんな」


 テレビの放送を見ながら江藤さんが呟いた。


「さすがにそこまではいかないんじゃないですか?」

「いや、念のため普段の1,5倍の量の仕込みを作ろう」


 江藤さんの懸念は当った。いや、当りすぎた。店は大行列になり、閉店時間前に食材が底を尽きた。江藤さんと僕はまだ並んでいるお客さんに謝ることになってしまった。


「これまでの3倍は量を増やさないと店を回せないな」

「提供時間を削減する必要がありますね」

「可能な限り作り置きできるメニューを考案したほうがよさそうだ」

「やってみましょう」


 この分では更に人を雇う必要がありそうだった。僕と江藤さんは休みを返上して店の営業に勤めた。昼も夜も行列ができるほどの盛況ぶりだった。


 その日、深夜になりようやく店を閉めようとした時だった。一人の女性が来店した。冬子だった。


「夏雄くん、久しぶり」

「冬子! どこにいたんだ。ずっと探してたのに」

「探してたのは私のほう。この数年間ずっと心配してた」

「そうか、そうだったな。ごめん…」

「ううん、もう自殺しちゃったんじゃないかって諦めてた」

「そうだよな…」


 冬子は嬉しそうに笑った。


「でも、ある日テレビに夏雄くんが出てるんだもん。しかもまた同じ店で。ビックリしちゃった」


 僕と冬子は久々の再会に乾杯し、これまでのことを語り合った。腐ったハツカネズミのような生活をしてきたこと、江藤さんと店に軌道に乗せたことを話し、冬子は銀座でのホステスの話、大会社の愛人になっていた時期の話、またこっちに戻ってスナックで働き出したことを話した。


「私はずっと水商売女なのに、夏雄くんはテレビに出るほどの一流料理人。なんかズルイわ」


 冬子が不貞腐れたように呟く。僕は苦笑するしかなかった。


「もう百花さんのことは大丈夫?」


 一瞬胸がチクリと痛んだが、冬子の顔をじっと見つめた。


「あれから何年経ってると思うんだ。もう大丈夫だよ」


 冬子はあっさり「そう」と言ったかと思うと、ぽろぽろ泣き出した。


「お、おいおい、何で冬子が泣くんだよ」

「だって、だってさ」


 冬子はハンカチで涙を拭いながら僕を見上げた。


「夏雄くんは、この世界でたったひとりの家族だよ。百花さんはもしかしたら私の義姉になったかもしれない人だし…」


 僕はその時に本当の冬子の優しさに気づいた。そうだ。冬子だって父親も母親も亡くしている。僕と全く同じじゃないか。義理とは言えただ一人の兄のことをずっと心配していたに違いない。僕は自分の過ちにやっと気づいた。ずっと腐った暮らしをしていた間、冬子はどれだけ僕を心配しただろう。そんなことを冬子の涙を見るまで何も考えず、自分の悲しみに溺れていただけじゃないか。


「冬子、すまない」

「ホントよ。人の気も知らないで」

「ありがとうな」

「いいの、お兄ちゃん」


 初めて冬子が僕のことを兄と呼んだ。僕は何だかくすぐったく感じた。


「お兄ちゃんってのはやめてくれよ。何だか恥ずかしい」

「あはは。じゃあ夏雄くんに戻すね」


 それからまた冬子が店に訪れるようになった。スナックの客と一緒の時、一人で来店する時はいつも店の閉店間際だった。江藤さんはそんな時、二人きりにしてくれるため席を外してくれていた。


 盛況な店を切り盛りし、たまに冬子と晩酌を飲むという充実した日々を過ごし、僕はもう30歳になろうとしていた。ある日、江藤さんから貰った給料を見て驚いた。これまでの倍以上の金額だった。


「江藤さん、これは貰いすぎです」

「いや、夏雄はもう店に必要不可欠な存在だ。引き抜かれる訳にはいかないからな」


 江藤さんは穏やかな瞳で僕を見つめた。


「俺はお前と、共同経営者になりたいと思っている。俺とお前、均等に給料を分けるべきだと思うんだ」


 僕は江藤さんの心遣いを感じた。ずっと店で心配してくれて僕の居場所を作ってくれた人だ。かけがえのない恩人だった。僕は涙ながらにお礼を言った。


「ありがとうございます。僕は江藤さんに救われました。本当に感謝しています」

「俺はここまで店が盛況なったのは、お前のおかげだと思っている。感謝してるのはお前だけじゃないんだぞ」


 給料もこれまで以上に増えたので、僕はアパートをもう少し広くしようかと考えた。今はトイレは共同のフロなしアパートだ。考えてみればもっと生活環境を良くしてもいいかもしれない。そんな風に住宅情報の広告を見ている時、ふっと冬子のことを思い出した。この世界にただ一人きりの家族だ。冬子と一緒に生活をしてみたらどうだろう? それはとても素敵なことのように感じた。冬子に相談を持ちかけてみることにした。


 そんなことを考えて過ごしていたある日、閉店間際に冬子がやってきた。ただいつもと様子が違っていた。冬子の表情は暗く、沈みこむようにカウンター席に座り込んだ。江藤さんは気を利かせて席を外してくれた。


「どうしたの? 今日はやけに落ち込んでるじゃないか」

「夏雄くん…」


 冬子は俯いたまま何も答えなかった。僕は以前冬子が自分にしてくれたように、ただ隣で彼女が喋り出すのを待った。


「あたし、妊娠したみたい…」

「え? 誰の子供なの?」

「わからない…」


 冬子は俯き声も出さずにぽろぽろ泣き出した。


「今日、病院行ってみたら、3ヶ月だって」

「相手に心当たりはないの?」

「わからない…。それに、それだけじゃないの」


 冬子は僕の肩にしがみつき、声を漏らすように呟いた。 


「あたし、HIVに感染していたらしいの……」


 僕は目の前の景色が揺らぐのを感じた。肩にしがみつく冬子以外の景色が色を失っていく。


「いつ発症してもおかしくないって、夏雄くん、私、AIDSになって死ぬのよ。この世に何も残せないまま、夢も叶えられず、家庭も持てないまま死ぬのよ。こんな惨めな人生ないわ。こんなのあんまりよ」


 冬子は僕の肩を掴み泣き喚いた。僕はただ冬子を抱きしめることしかできなかった。あまりの事実の前に何もできない自分の無力さが情けなかった。冬子が死ぬ? この世界でただ一人の家族が死ぬ? 現実はあまりに残酷で冷酷だった。


「冬子、一緒に暮らそう」


 僕は冬子を抱きしめながら言った。


「お腹の子供には感染しないかもしれない。君がこの世界に生まれた証は残せる」

「お腹の子供は産めないわ。誰も育てられない」

「僕が育てる」


 冬子は驚いたように僕を見上げた。僕はいつの間にか泣いていた。必死に鼻をすすりながら言った。


「僕が育てて立派な子にしてみせる。僕はこの世界でただ一人、君の家族だ」

「夏雄くん、夏雄くんにそんな迷惑かけられないわ」

「迷惑なんかじゃない。僕がお願いしているんだ。冬子、君の子を引き取りたい」


 僕と冬子は店のカウンターでいつまでも泣いていた。



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