美しい私が誰にも選ばれない理由
私は美しい、誰よりも。
深紅の薔薇より、銀の胡蝶より。
誰もが私を求めるはずだ。
それは至上の栄誉だから。
「踊って差し上げてもよくてよ」
煌びやかなダンスホールの中央。
集まった大勢の人間は私の美しさに見惚れ、遠巻きに私を取り囲んでいる。
私はぐるりと視線を巡らせ、目に留まった男に声をかける。
艶やかな薔薇色のドレスからこぼれる肌。差し出された胡蝶の指先。至上の栄誉を賜った男は、恭しく腰を折って深い礼をする。
「――では、一曲」
男は、情熱的な手付きで私の腰を支えて踊る。ターンごとに耳元に睦言を囁いて、私の心を繋ぎ止めようとする。
"素晴らしいダンスだ。"
"これ以上の相手はいない、まさしく運命だ。"
"君を引き立てられて光栄だよ。"
"僕たちはまるで、添うために生まれてきたようだね。"
つまらない、愚かしい男だけれど。称賛の言葉を紡ぐ声だけは、私をいたく満足させる。
――ずっとそんな夢を見ていた。
○○○
夜露に濡れた草を踏み、明るい方へと歩いていく。白い石の手摺を乗り越えて、鍵の開いた窓から分厚い緞帳の内側に入り込む。
大きなシャンデリア、真っ白なダンスホール、響く弦楽の音。
ごった返す人の群れをぐるりと見渡して、私は、ひとりの男に目をつけた。涼やかな目元のその人は、友人らしき相手と控えめに談笑している。
「踊って差し上げてもよくてよ」
声をかけると、男どもは目配せをして肩を竦め合った。
どちらが選ばれたのかわからなかったのかしら。鈍いこと。仕方がないので教えてやることにする。
「そっちの、紺色のタイの殿方。踊って差し上げてもよくてよ」
途端にくるりと背を向けたものだから、表情はわからない。
よほど嬉しかったのかしら。相手の男が笑っている。
「――お受けします、一曲だけ」
彼の手は、添えるだけだった。私にではなく、ドレスの布に触れているだけ。
何度か身を寄せてやろうとしたけれどタイミングが合わない。踊っている間も無言で、目を合わせるでもない。
終了のカーテシーのうちに、彼の姿は消えていた。
次の月。
柱時計の影に、身を潜めるようにしている彼を見つけた。
涼やかな目元に紺色のタイ。
「踊って差し上げてもよくてよ」
前のように声をかけると、端正な顔が奇妙に歪んだ。
どうしたのかしら。隠れるような場所にいたし、誰かに追われてでもいるのかもしれない。
彼は足元に視線を落としながら、けれどもはっきりと、聞き捨てならないことを言った。
「申し訳ありません、今宵は婚約者を伴っておりますので」
「あら――まあ、いいわ、私は気にしないわ」
「それは……」
いいから踊りなさい、と続けて迫った声に、馬の嘶きが覆い被さる。
開場に遅れたゲストが到着したのだ。
彼ははっと顔を上げ、窓の外を見遣るとすぐに身を翻した。
「友人が到着したようですので、先に挨拶を。失礼」
引き留める暇なく、私は窓際に取り残される。しばらくそこに立っていたが、ホールに彼が再び現れることはなかった。
また次の月。
彼は、今度は緞帳の影にいた。隣に派手な身形の老人を伴っていたが、気に留めるようなことではないだろう。
「踊って差し上げてもよくてよ」
声をかけると、彼は驚いた顔で私を見た。老人もつられて私を見る。
事情がわかったのなら早くそこを退いて、彼と私を踊らせるべきだ。なにをぼけっと突っ立っているのだろう。気が利かない。
「知り合いかね?」
「いえ……何度かここでお会いしただけで」
「踊ったことが?」
挙げ句の果てに、私抜きで会話を続けようとする。
そんなことは許されない。私と彼の関係を聞かせてやるから早く退散しなさい。
「情熱的だったわよ。まるで添うために生まれたようだったわ」
老人は、返す言葉を持たないようだった。
彼ははくはくと口を開閉させている。
よほど待ち遠しいのでしょう。さあ早く踊るのよ、と手を掴もうとしたところで、闖入者が私たちの間にずいと身を差し入れた。
「これは伯爵様、お声かけをお許しください。お耳にいれるべきことがございまして」
「君は……ああ、総務長殿の!」
「お見知りおきいただいて光栄でございます。早急ですので、どうかお二方ともご同道いただきたく」
闖入者は老人と彼だけを見て話す。
一度老人がちらりとこちらを見て、再び闖入者に視線を戻した。闖入者が無言のまま首を振ると、老人は理由知り顔で頷いて、場所を変えることに同意したようだった。
「ねえ、踊ってやると言っているのよ」
回り込んで進路を塞いでみたが、顔をしかめて避けられてしまう。
この偉そうな老人をなんとかするよう彼に目配せをしてみたが、視線を下に向けていて気づかないようだ。なんて使えない。
「いずれまた縁があれば、ということにしてもらおう」
老人は嫌悪感も露に、彼と無礼な闖入者を連れて去っていき、ホールには戻ってこなかった。
○○○
夜会の翌日、とある侯爵家のガセボにて。
侯爵令息アルフレッドは疲労した表情を隠せずにいた。
「いやぁ……参ったよ。また待ち伏せだ」
「恩に着ろよアルフレッド。俺が出ていかなかったらどうなってたことか」
「面目次第もない」
「今度妹が遊びに来たら最高級の菓子と茶葉でもてなせよ? クロスの色はライム色だ、あいつが好きな色だからな」
「仰せの通りに」
軽口を叩きながら正面に座るのは、アルフレッドの長い馴染みである子爵令息ルシエル。
彼の父は貴族学院の総務長を務めている。昨晩の伯爵が一介の子爵令息を見知っていたのは、学院を通じてルシエルの家と交流を持っていたからだ。
「まあルシエル様、またお兄様に意地悪を?」
花垣の影からそう言って歩を進めたのは、アルフレッドの妹であるシルフィだった。
内向的な兄に似ず行動派で、兄たちの話にも卒なくついてくる。ルシエルはこの、少し生意気で口達者な友人の妹が気に入っている。
「心外な。助けてやったんだぞ」
「本当だよシルフィ。今ちょっと厄介なことになっていてね」
「それなら一応、謝罪はしますけれど」
「なら良し。ほら、ここにおいでシルフィ。桃のタルト好きだろ?」
空いている椅子を引き、茶菓子に用意させたタルトを勝手知った様子で取り分ける。
一方のアルフレッドはなにも言わぬうちから紅茶をカップに注ぎ分けていた。
「貴族令息のすることではありませんわね」と憎まれ口を叩きつつも、シルフィは好物の桃のタルトを頬張り、香り高い紅茶を堪能する。
幸せそうな姿に向けられる、二対の視線は温かい。
軽食で小腹が満ちて、シルフィは兄たちが見舞われているという厄介事の詳細を聞きたがった。
まだ貴族学院に在学中のシルフィは、特別な事情かつ保護者が伴わない限り夜会には出られない。お茶会のネタを寄越せとねだる妹に、兄たちは事の次第を話して聞かせた。
不審な赤いドレスの女、強引なダンスの誘い、非常識な言動。
兄をからかうことが日常化しているシルフィだが、それだけ兄を慕っているということでもある。不審者に絡まれていると聞いては心穏やかでいられない。しかも、一度や二度ならず三度までも。
「――それは、たしかに……困ったことでしたわね」
「だろ? 初手でガツンと言えなかったのがよくなかったんた。一度踊ったせいで完全に目をつけられてしまってる。そもそもなんなんだろうなあれは、正式に招待を受けてる者かも怪しいぞ」
ルシエルの言うには、女のドレスそのものも悪目立ちしていたらしい。
貴族の子女ならばまず避けるような露出の激しいデザインで、生地こそ質の高いものを使っているのだろうが、それも随分古びてあちこち擦り切れていた。あれならカーテンでも縫って仕立て直したほうがずっとマシだぞ、とルシエルは言う。
「しかしアルフ、お前の本能は全然仕事しないな。最初は助けなかった俺が言うのもなんだけど、あれと踊るか普通? お人好しすぎるといつか身を滅ぼすんだぞ」
「どこかの刀自様だったらどうしようって考えてしまったんだよ……もしやらかしたら、僕だけの非礼じゃ済まないんだから」
「そりゃあそうだが、そんなに大事な客ならあらかじめ言われるだろうよ。お前の婚約者は未来の婿に冷たくするような方じゃないだろ?」
呆れて溜め息をついたルシエルに、アルフレッドはただ情けない唸り声を発するばかりだ。
「お兄様は普段から弱腰ですからねぇ」
「せめて腰が低いと言ってくれないか……」
「丁寧とヘタレは違いますのよ」
シルフィが追撃に追撃を重ねたので、アルフレッドはすっかり意気消沈してしまった。
だがこれは仕方がない、優しいばかりでは自分の身すら守れないのだ。ルシエルのように機転で躱せるようになるか、シルフィのように正面から舌戦で戦えるようになるか、あるいは気迫で強引に押しきれるようになるか。立場ある相手の婿になる前に、いずれかだけでも身につけなければ。
「ちなみに、他の夜会や行事などでその方をお見かけしたことはありますか?」
「あんなもん見かけたらすぐ話題にしてるよ。本当に異様だったからな」
「お兄様は?」
「ない……あれは正直、思い出したくないけど忘れられない経験だ」
「……相当やられてますわね。さすがにお可哀想ですわ」
散々に言ったシルフィだが、お人好しの兄を鍛えるための初級編として"兄だけをつけ狙う不審者への対応"はハードルが高すぎたとも思っている。
せめて男の不審者ならば腕っぷしで解決できる側面もあっただろうが、相手が女となるとそれだけで強く出られないのだろう。これは優しいアルフレッドの美点でもある。妹として責めたくないし、失ってほしくない。
「まったく、困ったものですね。その人が危険なことをする可能性もありますし、しばらくお茶会で話題にしてみます。相手の正体が知れなければ動きにくいですもの」
そうと決まれば早速行動、とシルフィは立ち上がる。令嬢らしくやけに丁寧なカーテシーをして、兄たちのお茶の時間に割り込んだことを詫び、自らが主催するお茶会の招待状を書くためにいそいそと私室に戻っていく。
帰りがけには一通託されるだろう。ルシエルの妹のエリナとは、親友を名乗って憚らないほどだから。
「頼もしいよなぁお前の妹君、お前と違って」
「あはは、返す言葉もない」
貶されたというのに、アルフレッドは気に留める様子もない。
プライドが低いんだか、異常に器がでかいんだか。まったく関心の尽きない兄妹だ、とルシエルは小さく笑った。
それから程なくして、奇妙な噂が囁かれるようになった。
"公爵家のダンスホールに出現する、赤いドレスの奇怪な女。"
"婚約者のいる令息につきまとう。"
"ダンスを断っても聞き入れない。"
"一度踊ってしまうとさも親密であるかのように吹聴される。"
狙われるのは自分の婚約者かもしれない。
そんな恐怖が令嬢の口を通じて伝播し、自衛を、と言い含められた令息たちの耳にも当然入ることになる。
まるで怪異のように、その存在は人々の口の端にのぼりはじめた。
○○○
"赤いドレスの女"の噂が広まってからおよそ二ヶ月。その晩も公爵家主催の夜会は定例通りに行われていた。
どことなく落ち着かない空気は来賓の心持ちか、それとも別の要因か。
主催の許可を得てしばらく夜会を欠席していたアルフレッドは、並び立ったルシエルと共に、その瞬間が来ないことを祈っていた。
「踊って差し上げてもよくてよ」
その一言が耳に入った者は振り返り、視線を上げるや否や後ずさって距離を取る。
怪談じみた噂話の現場が目の前に広がっている――婚約者のいる令息に執拗にダンスを迫る、赤いドレスの奇怪な女。
人々はじわじわと後退し、やがて遠巻きに事を見ている巨大な輪になった。
取り残されたのはターゲットのアルフレッドと、その隣に立つルシエルのみ。
野次馬の数は証人の数だ、こいつらだってなにか動きがあれば悲鳴を上げて警報の代わりくらいはしてくれる。ルシエルはそう踏んで、奇怪な女に啖呵を切った。
「残念だけど、こいつは踊らない。婚約者一筋なもんでね」
「だからなんだというの」
「はぁ? なんだ、って」
「私が踊ってやると言っているのよ」
さも不快げに、居丈高に女が言う。
理が通じない相手であることが、それだけでホール中の人間に理解されていく。
ざわつく人の波を意にも介さず、女はアルフレッドに語りかけた。
「あなた、なんとか言いなさいな。情熱的で素晴らしいダンスだったでしょう? これ以上の相手はいないと運命を感じたでしょう? 私を引き立てられて光栄だと思ったでしょう?」
あまりに浮世離れした言動だ。そんなものを文字や言葉にするのは芸事の世界の人間くらいだろう。
他人の感情を決めつけてかかっていることもおぞましい。自分と他人の思考は異なっている、という前提を持っていないのか。
「おい、たった一度だろ? なに言ってるんだ、大丈夫か?」
「黙りなさい。ねえ、早く踊れと言ってるのよ、聞こえないの? 愚図ね」
わざと煽って気をそらそうとするルシエルを無視して、ついに女はアルフレッドに攻撃性を向けはじめる。
これは思った以上にまずいことになるかもしれない。危機感を抱いたルシエルが、アルフレッドをこの場から待避させようとした、その時だった。
「――五回、足を踏まれた。貴女は体を寄せすぎる。脚を上手く捌けなくて不自由だったし、凭れかかられると対応に困る。ダンスは互いのことを考えて行うものだ。貴女からはその気持ちがまったく感じられなかった」
アルフレッドが口を開く。
背筋は伸びて、女をまっすぐ見据えている。
「ダンスはお断りする。僕の婚約者はダンスが上手いんだ。正しい距離で、心地良くパートナーをつとめてくれる。貴女には無理だ」
しんと空気が凍りつく。
女は目を見開いて、しばらく呼吸すら止めていたように思う。
長い膠着の最中、ホールのどこか隅のほうで、カタン、と音がした。
その瞬間、放たれたように女は近くのテーブルに手を伸ばした。放置してあった赤ワインのデキャンタをひっ掴むと、腕を振り抜いて中身をアルフレッドにぶちまけた。
白の礼服が赤い色に染まる。取り囲む人の輪からは、小さな悲鳴と息を呑む音が漏れ聞こえる。
「そんなことが許されると思って……? この私が踊ってやると言ったのよ。光栄だと膝をついて喜び咽ぶのが相応でしょう。何様のつもりなのかしら。謝罪なさい。今ここで。床に頭をつけて謝罪なさい!! さあ!! ほら!!」
女はなにも意に介さない。赤ワインまみれになったアルフレッドをギラギラした視線で睨みつけながら、恫喝の言葉を喚き、床を指差して謝罪を要求する。
アルフレッドは、怯まなかった。赤い雫をひたひたと髪から落としながらも、女から視線をはずさない。
「僕にも断る権利がある。貴女に謝罪する道理はない」
ギチギチギチ、と女が歯を食い締めるおぞましい音がする。
――さて、ここからどう駒を動かしたものか。
ルシエルの煩悶を破ったのは、鈴のような少女の声だった。
「一体なんの騒ぎです……どうなさったのアルフレッド様、酷いお姿!」
勿忘草色の薄絹を重ねた軽やかなドレスを揺らして、衆目に怖じることなく、彼女は一直線にアルフレッドの元へ駆け寄った。
アルフレッドの婚約者、公爵令嬢クレア。彼女は白いロンググローブが汚れることも厭わず手をさしのべ、怪我はないかと触れようとする。
内心慌てたのはアルフレッドとルシエルだった。
「いけませんクレア様!」
「クレア嬢、危ないから離れていてくれ!」
「できません! こんなこと、あってはなりません!」
クレアが声を荒らげる。
常に柔らかな微笑みを浮かべ、可憐な姿と鈴の声を愛でられてきた公爵令嬢の激情に、人の輪のざわめきが幾分趣を変えた。
――侯爵令息アルフレッドとの婚約は、クレアから強く望んで結ばれたものだという噂は真実であったのか。
愛しい婚約者を衆目の中で貶められて発露した怒りは、彼女の内に隠された強い愛情の証明だ。
「なんなの、お前。邪魔だわ」
まるでなにげない気付きを不意に口に出してしまったような温度の呟きは、却って恐ろしく聞こえる。女の目つきはとうに尋常な人間のそれではない。
そもそも、今宵この場でクレアの存在を知らぬ人間がいていいものではないのだ。この定例夜会を主催する公爵家の一人娘の元に、正式な招待客ならば必ず一度は挨拶に向かっている。
「お前、どきなさい。そこは私の場所よ。彼は私のもの。私を傷つけたから謝罪をさせるのよ」
女の怒りがクレアに向かう。
アルフレッドとルシエルが前に出てクレアを庇うが、クレアは黙らなかった。ひとつ呼吸を整えると、胸を張り、よく通る声ではっきりと女を糾弾する。
「加害行為に及んだのは貴女でしょう。わたくしの婚約者が、貴女になにか粗相をしたとでもいうのですか」
途端、女は豹変した。歯を剥き出しにして足を踏み鳴らし、野生動物のように大声でクレアたちを威嚇する。
口から出る内容は支離滅裂だ。
「お前のじゃない! それは私の! 私が見つけた! 私が目をつけていた! 私のだ! 泥棒!! 泥棒!!」
唾を飛ばしながら女が飛びかかってくる。
クレアは思わず身を小さくし、アルフレッドとルシエルが守るために覆い被さる。
女の指がアルフレッドの背に届きそうになった時、なにかが女の体に当たって動きを止めさせた。
薄桃色のヒール靴、右足だ。
同時に、衛兵たちがホールへと駆け込んでくる。ヒール靴の左足を旗のように高く掲げて誘導しているのは、華やかに着飾ったシルフィだった。
「衛兵、急いで! すぐに取り押さえてちょうだい! 皆様、壁沿いにお下がりくださいますよう!」
「御婦人を優先に控えの間に移ってください! 具合の悪くなった方はそちらでお申し出を!」
隣室に続く扉を開け放ち、混乱する人々を避難させるのは、ルシエルの妹のエリナだ。鮮やかなライム色のドレスが目を引いて、人々はすみやかに恐怖の源から安全圏へと逃れていく。
「離せ!! 無礼者!! 私に触るな!!」
衛兵に取り押さえられた女はしぶとく暴れている。大の男が四人がかりだ。聞き苦しい絶叫に怨嗟の言葉を混じらせ、無差別に周囲の鼓膜を攻撃するので、ついには轡をはめられた。全身に幾重にも縄を巻かれ、奇妙な荷物のようにホールから運び出されていく。
呆然とその様子を見ているしかなかったアルフレッドに、薄桃色のドレスを纏ったシルフィがそっと寄り添う。
「水も滴るなんとやらですわね、お兄様」
このドレスは覚えている、親戚の結婚式に用立てたものだ。投げた靴はちゃんと回収して履いたのだろうか、素足で歩くのはとても危ないから。
取り留めもないことを数秒考えた後で、アルフレッドはシルフィの姿を目に映す。
「勘弁してくれ……酒の匂いで吐きそうだ」
「吐く前に言い残すことはございませんの? 勇敢で優秀な妹、とおっしゃってくださっても構いませんのよ?」
不敵に笑って憎まれ口をきく、その姿を見てやっと呪縛が解かれた気分になる。
「助かったよ、シルフィ。僕の妹は最高だ」
肩を下ろして、アルフレッドがへにゃりと笑う。
それを受けたシルフィも、満足そうにくふふと笑った。
「よろしい。それにちゃんと噛みついたのは評価いたしますわ。クレア様の手前ね」
「あまり虐めないでさしあげてシルフィ。さあ、そろそろ奥へ参りましょう、アルフレッド様。湯浴みとお召し替えをしなければ」
一連のやり取りを見守っていたクレアも、アルフレッドの緊張がなくなったことを感じ取って、場を移そうと提案した。
子爵家の兄妹もそれに続く。
「兄様は? 動けそう?」
「おぅ……いやぁしかし、エリナ、ナイスタイミングだった。さすが俺の妹」
「でっしょ? あとでもっと褒めてね? ほら、詳しいことは奥で説明するって、クレア様が。あたしたちも行こう」
同じ頃、隣室控えの間には公爵本人が現れ、夜会に招かれざる者が侵入して歓談の一時を妨げたことを詫びた。
招待客たちは徐々に落ち着きを取り戻し、すみやかに夜会を辞す者と、振って湧いた災難を忘れるために強い酒を所望する者、出来事を友人知人と語り合って心の整理をつけたがる者などで三々五々に散っていった。
○○○
夜会が早倒しで散会され、すっかり夜もふけた頃。
公爵家の談話室には、二組の兄妹と一組の父娘が神妙な顔を並べている。
「私娼ぉ?!」
「こらっ、兄様、大きな声で言うことじゃない!」
エリナに叱られて、ルシエルは掌で己の口を塞いだ。
たしかに、未婚の麗しい令嬢が三人も揃っている中で口にしていい言葉ではない。
しかし驚きも無理からぬことではあった――赤いドレスの女の正体は、公爵家の西棟に住み着いている私娼だったというのだから。
「家の恥を晒すことになってしまうのですが……昨年御帰天なさった大叔父上が、末期の床に伴っていた方なのです。看取ったのだから自分も公爵家に住まう権利があると主張されて、話し合っても埒が明かないので西棟を好きにさせていたのですが……普段は姿をお見かけすることもないので完全に油断しておりました。管理を徹底しておりましたら、皆様にご迷惑をおかけすることもございませんでしたのに」
申し訳ありません、とクレアは深く頭を下げる。背後に控えたクレアの父、公爵その人もシンクロして頭を下げている。
二ヶ月前。
ルシエルの「正式に招待を受けた者なのか怪しい」という所感をヒントに、クレアに頼んで門番と受付係へ聞き取りをさせてもらったシルフィとエリナは、兄が参加した夜会に赤いドレスの参加者がいなかったことを突き止めた。
ならば、その女は門を通らずに公爵家の敷地に侵入できている――そこまで判明したところで、クレアが「心当たりがある」と事態を引き取ってくれたのだ。
今日のクレアの怒りには、二ヶ月かけて確定させた蛮行の犯人への鬱憤もあったのだろう。
「わたくしがもっとホールに顔を出していれば気づけたことだったのです。夜会の取り回しに早く慣れたいあまり、アルフレッド様を危険に晒してしまうなんて」
「早く言わなかった僕が悪いんだよ。来賓の顔を覚えきれていないのも露呈してしまったし。クレア嬢が悪いなら僕はその倍悪い」
すぐ近い未来、クレアはアルフレッドを婿に迎えて公爵家の女主人となる。母を早くに亡くしているため、縁戚や識者に教えを乞いながら女主人としての立ち回りを身につけている最中なのだ。
アルフレッドとて、外から迎えられ繊細な動きを求められる立場となる。一にも二にも関係者の顔を覚えなければならない。
内務と渉外、必要なものを各々補おうと励んだ結果、藪から棒の厄介事に巻き込まれてしまった。
生真面目な二人が自責に駆られているのをエリナが止める。
「ダメですよお二人さん、ご自分に非もないのに謝っちゃ!」
「ならば儂から公式な謝罪を」
「もっとやめてください公爵様! 赤いドレスの女の一件は事故です! 偶発的災害ですから!」
そうでしょ、と振り返って同意を求める。
敷地内を不法占拠している人間がこそこそ母屋に入り込んで問題を起こしたのだから、公爵家とて広く見れば被害者なのだ。
どうしようもないことだった、と沈みかけた話を、好奇心で混ぜっ返したのはルシエルだ。
「しかし……、いくら老齢の大叔父殿とはいえ、そういう相手にしてはその、歳が」
パートナーとしての釣り合いを考えるなら話は別だが、後添えでも愛妾でもなく、単なる私娼の立場に据え置いていたのなら相応の行為を求めることもあったのだろう。公爵家に名を連ねる人間なのだから、額面を揃え後の保証を充実させれば、若く美しい女体を手に入れることなどいくらでも可能だったろうに。
疑問を呈した途端、クレアは顔を赤くして黙り込んでしまった。
「ちょっと、兄様、また!」と叱るエリナを宥め、公爵が重たげに口を開く。
「あー……儂から言おう。叔父はその、熟れたというか、ニオイが変わりはじめたくらいのが好みでな。あとはとにかく、大きければ大きいほどいいという嗜好で。だから正式に妻を迎えることは終生しなかったのだ。年齢や立場どころか、立ち並んだ姿まで釣り合いが取れているかどうかで判断される良家の子女は、自分の隣にいても悲しまされるだけから、と。他には、なんだ……あの女は物を与えれば黙るから楽だ、とも言っていた。土地や証券を要求する頭がないので安く上がると」
うわっ、と口に出さずともげんなりした空気が充満する。
尖った性癖と吝嗇気質の合わせ技とは。
事情を知ればあの女も憐れといえば憐れだが、春をひさいで生きる者として、未来への蓄えを勘定に入れられないのは致命的な欠陥だ。裏町の娼館にでも落ち着いていれば、情に絆された誰かに身請けされるか、引退後はなんとか暮らすに足る内職への口利きもあったろうに、目先の利益に踊らされたのか。
「こちらにいらっしゃった当時はまだ張りの残る壮年だったのですよ。ですが、お酒をよく召される方で……あの、危ないと噂の、ニガヨモギの」
「アブサンかしら?」
「そうです、アブサン。あれを好んでたくさん嗜まれるうちに、どんどん様子が変わっていかれて……お姿も、お考えも」
「ひょっとして、クレア様のことも?」
「ええ……何度かお会いしているはずなのですが、もう覚えていらっしゃらなくて」
痛ましい表情で、クレアは胸元の手をぎゅっと握り合わせる。
アブサンの原料であるニガヨモギは薬草だが、毒性も有している。適量を嗜む程度なら強壮効果を得られるが、浴びるように飲んでは中毒まっしぐらだ。危ないという噂も、アブサン中毒で命を落とした者がいた、という事実が出本になっている。
酒でも、薬でも、溺れて正気を失いつつある者の顔貌には老いがこびりつく。あの女の実年齢は不惑か、知命か。いずれにせよ、還暦もとうに過ぎた老婆にしか見えなかった。
シルフィが重ねて問う。
「つかぬことをお伺いしますが、大叔父殿とあの方はよく踊っていらしたのですか?」
「まさか。大叔父上は若い頃からダンスがお嫌いと伺っておりますし、あの方を迎えたときには杖をついて生活されていましたもの。それに、その……あの方は、夜会へのお出ましが受け入れられるお立場ではありませんので……ねえ、お父様」
「いくらなんでも主催した場に私娼の帯同を許す貴族家は存在せんよ」
ないない、と公爵が顔の前で掌を振ってみせる。クレアが度々「愉快なお父様」と称することに半信半疑だったが、これは今後の関わり方次第では自分たちも「愉快な公爵様」と認識することになるかもしれない。
急に和やかになりはじめた空気の中で、アルフレッドがおずおずと声を上げる。
「あの方は、どうなるのでしょうか、義父上」
「これまでは義理と思って触らぬようにしていたが、ああまでになってはもう置いておけん。癲狂院へ送る手筈を調える。だからアルフレッド、君もクレアに愛想を尽かさんでおくれよ」
「あら公爵様、ご心配には及びませんわ。この兄はヘタレですけれど、クレア様のためならなかなかの勇気を見せますのよ」
妹に台詞を取られて力なく笑うアルフレッドの横顔を、クレアは面映ゆい視線で見つめていた。
○○○
顔よりも少し上の位置に、格子の嵌まった小窓がある。
私はそこから手を伸べる。窓の向こうは室内より少しだけ明るい。
「そこのあなた。踊って差し上げてもよくてよ」
姿は見えなくても、そこに男がいることを知っている。浅黒い顔に無精髭の冴えない男だけれど、他にいないのだから仕方がない。
「聞いているの。私が踊ってやると言っているのよ」
本当ならこんな風采の悪い男には巡ってこない栄誉なのだ。咽び泣いて私の指先に口づけるのが当然なのだ。
なのに、黄ばんだ照明の下に突き出た私の手首はいつまでも空を切っている。
「答えなさい! 私と踊りなさい! 踊れ!! 踊れ!! あああああああ!!!」
業を煮やして、私は叫ぶ。
誰か、誰か、この手を取ってここから連れ出しなさい。
扉の外でようやく人の動く気配がして、私はやっと選ばれたのだと確信する。こそこそと漏れ聞こえる小さな会話は、きっと恥じ入って緊張でもしているのだろう。
「――また発作だ。悪いが鎮静剤を」
「はぁ……公爵家が飼い主だからねぇ、薬ならいくらでも出せるけどさ……キンキンうるさいったら。耳がおかしくなっちまう」
ガチャン、と外鍵の外れる音がする。扉が開いて外への道が開かれる。
逆光の中から現れたのは、白衣姿の中年女だった。
「なによお前! お前じゃない! 出て行け……っあ゛! あ゛ぁ!! 痛い!!」
手慣れたように、中年女は私の顔面を平手で三度打った。ふらついたところを突き倒されてベッドに転がされ、後に続いた女どもがベルトで手足を拘束する。
「暴れるんじゃない。ほら、そっち縛っとくれ」
「あ゛ぁ!! 無礼者!! 許さない!! 私に、この私に、」
「私娼風情が何だってんだい、御主人様がいなきゃその辺の犬っころより下等だよ。静かにしな、鎮静剤がムダになる」
「あ゛ーーーーーっ!! あ゛ーーーーーっ!!」
剥き出しにされた腕に針が突き立てられる。皮膚の下に冷たい液体が入り込んで、私は沈黙した。
私は美しいはずだ、誰よりも。
深紅の薔薇より、銀の胡蝶より。
それに同意する男には褒美を与えてやった。ベビードールからこぼれる肌を、胡蝶の指先を、手でまさぐり舌を這わせる許可をやった。
なのに男どもときたら、誰ひとりとして私の望みを叶えなかった。私に見合う高い地位も、豪奢なホールで行われる夜会も、衆目を独り占めするほど情熱的なダンスも、呆れたような笑いで聞かなかったことにされた。
諦めきれずに男を求め続けていたら、いつしかこの手は宙をさまようだけになった。
『お前は幸運だよ。薹の立った私娼が公爵家の敷地で寝起きしているとは。連れ込むことを随分と反対されたが、お前のその乳房と頭の弱さにはよくよく助けられてきたからなぁ』
私が看取った男は、最期にそんなことを言っていた。
今、私は酷く汚れた天井を見ている。薄汚い茶色の染みがあちこちを侵食し、脆くなって天井板が撓んだ部分は黒くカビている。
窓には鉄の格子がかけられていて開くことはできない。
室内はずっと湿ったような、腐りはじめのような悪臭がして、それでいて隙間風が絶えないので肌寒い。
私は動けない。手も足もベルトで留められて、ベッドの上で芋虫のように転がっているだけだ。
頭がぼんやりする。心は憤りで満ち満ちているのに、体だけが冷たい石に変えられて、感情を外に出すことができない。棺に閉じ込められた気分だ。
誰を呼ぶこともできない。誰の訪れもない。
この部屋で、芋虫の私は胡蝶になれない。
誰もが私を求めるはずだった。
至上の栄誉は受け取る掌のないまま、冷たい石の床に落ちて砕けた。




